忘れ物 (2)

「それにしても、こんなものを学内でコピーするなんて、どこのどいつだ」

 一転して、いつものあの調子のいい笑みを口元に刻んだ原田は、「けしからん、実にけしからんぞ」と芝居がかった調子で繰り返しながら、わざとらしく咳払いまでしてみせて、いそいそとノートの下から原稿を引っ張り出した。

「な、な、ななななな、なんじゃこりゃー!」

「だから、忘れ物」

「そうじゃなくて、この絵だよ、絵」

「好きなんだろ? こういうセクシー悩殺ナントカってやつ」

「こんな暑苦しいセクシー悩殺ナントカなんかいらねえし! つうか、ここには『ぼいーん』がくるべきだろ!」

 まさか「ぼいーん」などという適当な推測が、一字一句たがわず当たるとは。ヒカリは達成感よりも眩暈を感じて、そっと右手で額を抑える。

「そんなこと、私に言われても知るか」

「勘弁してくれよ……。何が悲しゅうて、野郎の裸を見なきゃいけないんだよ……。しかも二体も」

 そう、そこに描かれていたのは、お子様にはとても見せられない、実に濃厚なラブシーンだったのだ。……それも、男同士の。

 疲れきった表情で、原田が原稿をコピー機の上に置く。

 お調子者が珍しくもしおれているのを見て、ヒカリの中で悪戯心が首をもたげた。原田の反応がもう一度見たくて、ヒカリは彼がせっかく戻した原稿を、再び彼の面前に掲げて見せる。

「そうは言うが、関節とか肉のつき方とか、物凄く上手に描けてるぞ。上手いよ、この人」

「肉とか言うなー!」

 どうやら、お互いの立ち位置がいつもと逆になってしまっているようだ。

 こりゃ楽しいや、とヒカリはにやにや笑いを浮かべた。「とにかくそれを目の前からのけろ、のけてくれ、お願いしますのけてください」と懇願する原田をたっぷりと堪能してから、仕方がないなあ、と言わんばかりの表情で原稿を置く。

「……お、お前、えらく冷静だな」

 傍らのコピー機にもたれかかりながら、息も絶え絶えに原田がこぼした。

「高校の時の友人にこういうの好きな奴がいて、教室で何度か見せてくれたから、ある程度免疫ができてる」

「見せてくれた……!? え? 見せ……? え、ええ? え?」

 いまだかつてないほどに原田が動揺するのを見て、ヒカリは思いっきり顔をしかめた。

「まさかと思うが、何か誤解してないか?」

「え? だって、同性を好きな男が、教室で、その、ええと、なんだ、積極的な恋愛模様を見せてきた、って……、免疫がつくほど……」

「友人ってのは女子だぞ。男同士の恋愛モノが好きで、そういう漫画や小説を周囲の人間にもお勧めしまくってた、ってだけだ」

「ああー、そういう……」

 バツが悪そうにヒカリから一旦視線を外して、原田が息をつく。

「しかし、なんだって女子が男同士の恋愛モノを読むんだ? そういう嗜好の男じゃなくてさ。関係ないだろ?」

「関係ないからいいんだってよ。ファンタジーだとさ、ファンタジー」

 話題が観念的な方向にシフトし始めたせいだろうか、原田が少しだけ元気を取り戻した様子で、顎をさすった。

「ファンタジーつったって、しかしなあ……」

「解りにくければ、逆に考えてみたらいい。アンタは、女同士の恋愛モノをどう思う?」

 ヒカリの問いかけに、原田は真剣な顔でしばし考え込んだ。

「そうだな、是非とも俺も仲間に入れてもらって、って、痛ってー!」

 すぱーん、と気持ちのいい音をたてて、ヒカリのノートが原田の頭に炸裂した。

「わかった、確かにファンタジーだ。パラダイスだ」

 原田が頭をおさえながら、「冗談のわからない奴はこれだから」とぼやく。

 しまった、またやってしまった。ヒカリは心の中で唇を噛んだ。

 おのれの乱暴な言動を大いに自覚しているヒカリだが、実際に人に物理攻撃をすることなぞ、高校の剣道部の部活以外では、三歳下の弟が馬鹿をやった時ぐらいだった。それもここ数年は姉弟喧嘩の回数もぐんと減って、「昔はよく姉ちゃんにはたかれたなあ」なんて思い出話になりつつあるというのに、それが何故かこの男相手には、すがすがしいぐらいにスッと手が出てしまう。

 ――けど、まぁいいか。今のは誰も見ていなかったし。

 そう、彼女が後悔しているのは、あくまでも自分の評価に関わる点について。決して、原田の身を案じているわけではない。

「……しかし、まあ、よりによって強烈なシーンを忘れていったものだな」

 仕切り直しとばかりに、原田が溜め息とともに呟いた。

 それを受け、ヒカリもあらためて意識を目の前の原稿に戻す。

「とにかく、このままここに置いておくわけにもいかないよなあ……」

「普通に、そこの棚に入れておきゃ、いいだろ?」

 原田が投げやりな口調で、傍らの棚にある『忘れ物原稿入れ』と書かれたトレイを指さした。

「あんなところに置いたら、関係のない奴に見られるだろ」

「別に見られたっていいだろ。減るもんじゃなし」

 ヒカリには漫画を描いた経験はないが、原田のこの言葉が酷くデリカシーに欠けたものであることは簡単に想像できる。自分が気に入らないからといって、他人の物をいいかげんに扱う態度に苛立ったヒカリは、ことさらに冷たい声で彼に反論した。

「原稿をラブレターに置き換えて考えてみたらいい。アンタが魂を込めて書いたラブレターを、うっかりこの部屋で落としたとして、次の日探しに来てみたら、そこの棚にそのラブレターが剥き出しになって置かれていたら、どう思う?」

「うわああああ! やめてくれー!」

 ヒカリが最後まで言いきる前から、原田が頭を抱えてのたうちまわり始めた。それを見つめるヒカリの口元が、知らず緩む。

 やがて、憔悴しきった表情で原田は身を起こした。だんっ、とコピー機に手をつき、深い、深い息を吐き出す。

「よし解った、燃やそう。跡形もなく消してしまおう」

「それを決めるのは、アンタじゃない」

「じゃあ、どうすればいいんだよ!」

 そもそもこれは、手書きの原稿だ。デジタルデータと違って、この世に一つしかない一品物である。他人が勝手に処分していいものでは、絶対に、ない。

 しかし、いつまでもここでぐだぐだ言い合っていても仕方がないのはそのとおり。ヒカリは「うーむ」と顎に右手をあてて考え込んだ。

「ここで落とし主を待ってても、モノがモノだから、素直に名乗り出てくれるか疑問だし……」

「ああ、まあ、そうだな……、これはちょっと、名乗り出るのに勇気が要るな……」

「人目を気にせずにすむところなら、まだ少しはマシかもな」

 と言ってヒカリは、にやり、と原田を見やった。足元の鞄からレポート用紙の綴りを出すと、手際よく一枚をちぎり取る。そうして、ボールペンですらすらと何かを記し始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る