忘れ物 (1)

 コピー機の上蓋を開けたところで、ヒカリは一瞬その動きを止めた。そっと眉を寄せ、ガラスの天板に置き忘れられていた一枚の紙をつまみ上げる。

「なんだこりゃ」

 裏返しにセットされていた原稿の、その表側をひとめ見るなり、ヒカリの口からあきれかえったような声が漏れた。

 

 ここはキャンパスの最辺境、学部生が使う校舎のうち、生協の売店がある学生会館から最も遠い場所に建つ工学部七号館だ。レポート用紙や実験用具、パソコン関係の消耗品など、工学部生が頻繁に購入する品物だけを揃えた小さな売店の、更に奥にあるコピーコーナーにヒカリはいた。

 倉庫代わりの小部屋の一角には、型遅れのコピー機が三台、所狭しと並べられている。友人がサークルの先輩に聞いたところによると、薄暗くて風通しの悪いこの場所は、試験前こそ多くの学生でごった返すが、平時は驚くほど人がいない、とのことだった。きっと皆、学生会館や他の校舎、なんなら外のコンビニに出向くのだろう。ヒカリが知っている限り、ここ以外のコピーコーナーは、どこも明るくて、空調もしっかり効いていて快適なばかりか、カラーコピーから製本まで可能な複合型コピー機が置いてあるのだ。

 けれどもヒカリは、この場所がすっかり気に入ってしまっていた。ここならば順番待ちの列にせかされずにすむし、通りすがりの知り合いに「何コピーしてるの? もしかして過去問? 私の分も一緒にコピーしてくれない?」なんて頼まれて作業を中断させられることもない。カラー印刷が必要な場合ならともかく、モノクロで書類や書籍の控えをとるだけなら、古めかしいコピー機が問題になることもない。

 と、そういった理由で、先日からヒカリはこの秘境コピーコーナーを愛用しているのだ。今日も図書館で借りた参考書のコピーをとろうと、自転車を駆ってここにやって来て……、そしてヒカリは、予想もしなかったものと遭遇する羽目になったのだった。

 

 ――これはまた、よりによって強烈なものを忘れていったな。

 あらためて背後に誰もいないことを確認してから、ヒカリは手元に視線を落とした。サイズはA4版、画用紙のように厚みがあり、コピー紙のように表面が滑らかな紙には、鮮やかなタッチで漫画が描かれている。今の時代、パソコンなどデジタル機器で作画する人も多いだろうに、どうやらこれは紙にペンで描かれたもののようだ。

 ――綺麗な線だな。こんな繊細な絵を、直接手で描いたのか。

 すごいな、と感嘆したところで、ヒカリは、はた、と我に返った。

 ――まさか、これ、何かの引っかけじゃないだろうな。

 こういうモノを見つけた人間がどのような反応をするのか、どこかで誰かが見張っているのだったらどうしてくれようか、とヒカリは眉間に皺を寄せた。心理学の実験など学術的なものならまだ我慢ができるが、単なる娯楽目当てなドッキリ企画だったら、許せない。「えー、君、なんてモノ持ってんのー、うわ、やらしー」なんて、にやにや笑いとともに言われた日には、そいつを即刻再起不能にしてしまえる自信がある。

 ヒカリは、〈忘れ物〉をそっとコピー機の蓋の上に置くと、さりげなさを装いながら辺りを見まわした。

 あけ放されたドアの向こうには、売店の棚が見える。微妙に見通しが悪いものの、特に人がいるような様子はない。

 次いで、ヒカリは室内に耳をすました。何か……例えばビデオカメラの作動音などが、聞こえないだろうか、と……。

「よお」

 突然の呼びかけに、ヒカリは飛び上がらんばかりにびっくりした。咄嗟に手に持っていたノートで〈忘れ物〉に蓋をして、そのままの勢いで戸口を振り返る。

 原田が、手に持ったファイルをひらひらさせながら、そこに立っていた。

「珍しく先客がいると思ったら、お前かー。奇遇だな」

 面倒な時に面倒な奴が現れたな、とヒカリは内心で舌打ちをした。不審に思われないように、とりあえず軽く会釈を返しておく。

「ここ、ちょっと暑苦しいけど、ゆっくり作業できるのがいいんだよなー」

 そう笑みを浮かべる原田を見ているうち、ふと、あることに思い当たって、ヒカリはぎゅっと口を引き結んだ。

 ――まさかコイツがドッキリの仕掛け人か?

 彼は工作研究部というクラフト系サークルに所属している。依頼を受けて軽音楽部員の電子楽器を修理したり、クスノキに鳥の巣箱を作ったり、大学祭マスコットキャラクターの着ぐるみを制作したり、他にも色んなものを日々「工作」しているのだ。各所から漏れ伝え聞こえる彼の腕前なら、録音も盗撮もお手のものに違いない。登場のタイミングもわざとらしいし、何より、いかにもこういう馬鹿で下品で下劣な企画が好きそうだ。

 と、そこまで考えたところで、ヒカリは、待てよ、と首をかしげた。

 ――方向性が違わないか?

 彼が仕掛け人ならば、この〈忘れ物〉に描く内容は「ぼいーん」路線になりそうなものだ。「コレ」はちょっと管轄外なのではないだろうか……。

「そういや、さっきお前、何か隠さなかったか?」

 我に返ったヒカリが制止するよりも早く、原田が大きく一歩を踏み込んできて、コピー機の上を覗き込んだ。

 数学演習、と書かれたノートの下、例の〈忘れ物〉がちらりと端を覗かせていた。またよりにもよって、思いっきり思わせぶりな端っこが。

「あ、いや、これは……!」

「え、何、お前、絵ぇ描けるの? て、これ……、ええと、まさか、いやいや、その、うん、子供じゃないんだから、そういうのを描きたくなることもあるよな。わかるぞ……」

 この反応を見る限り、どうやら原田はこの件には無関係のようだ。そもそもこれはドッキリ企画でもなんでもない、と考えるのが普通だろう。

 神経質になりすぎたか、と肩の力を抜くと同時に、今度はヒカリの中にふつふつと腹立たしさが湧き上がってきた。目の前の、この、勝手に誤解して妙な理解を示し始める原田の態度に。まるで久しぶりに会った姪甥の成長を見守る親戚の人のような、やたら生暖かい彼の眼差しに。

〈忘れ物〉へのあらぬ疑念が解消したこともあって、なんだか色々とどうでもよくなってきたヒカリは、ノートを押さえていた手をスッと引っ込めた。勝手にすればいいさ、と原田に対して、顎で原稿を指し示す。

「忘れ物だよ。コピー機の中に残ってた」

「え? お前が描いたやつじゃないのか?」

 原田は、なにやらホッとしたようながっかりしたような微妙な表情を浮かべたのち、「忘れ物かー」と大きく息をついた。

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