消えたサドル (1)
商都と名高い大都市中心部から電車で四十分弱。沖積平野のただ中に、ヒカリ達の通う大学の第一キャンパスはある。
都心から離れているおかげか、ここの敷地はとても広い。近隣から自転車で通学する一人暮らしの学生ばかりか、構内移動用にわざわざ自転車を持ち込む電車通学者も少なくなく、キャンパス内の各所に設けられている駐輪場は常に満車状態であった。
その日、授業を受け終えたヒカリは、学生会館裏の駐輪所へと急いでいた。今日これからバイトの面接があるのだが、うっかりマンションに履歴書を忘れてきてしまったのだ。
こういう時に限って五コマ目の講義が、担当教官の都合とやらで三十分も遅れて始まり、その結果授業が終わるのも同じだけ遅くなってしまったという。やり場のない苛立ちをぶちぶちと噛み潰しながら、ヒカリは大股で生垣を回り込んだ。整然と並ぶ自転車の行列の中ほどを目指す。
マット加工された黒色のフレームは、少しレトロな雰囲気のV字タイプ。ライトブラウンのサドルには、フレームと同色の鋲が絶妙なアクセントを添えている。前カゴとスポークがステンレス製であるというところにも惚れ込んだ。我ながらいい買い物だったよな、と、ほんの少しだけ機嫌を直して愛車の前に立った、ヒカリの目が見開かれた。
サドルのあるべきところに、暗黒がぽっかりと口をあけている。
「……マジか」
ドスの効いた声が、ヒカリの喉から漏れた。
サドルが自ら勝手に出歩くはずがない。つまり、何者かがサドルを盗っていったということだ。
どうしよう、と困惑するよりも先に、ヒカリの中に怒りがふつふつとこみ上げてくる。一刻も早く履歴書を回収し、面接へ向かわねばならないというこんな時に、よりにもよってサドル泥棒とは。大体サドルなんぞ盗んで何が楽しいというのだろう。一体どういうつもりなのか。
とにかく一度落ち着かねば、とゆっくり深呼吸をしたヒカリに、背後から「あの」と声がかかった。
「大丈夫? 探すの、手伝おうか?」
振り返ると、一人の男子学生が立っていた。その顔にうっすらと見覚えがあって、ヒカリは「ああ」と声を漏らした。
「確か同じドイツ語の……」
「太田」
中肉中背の、顔が四角い以外に目立った特徴のない、良く言えば「そこそこ」、悪く言えば「フツー」な顔立ちの彼は、不躾なヒカリの視線を受けて、少しだけ赤い顔でそう名乗った。
「心当たりが?」
簡潔に問いかけるヒカリに、太田は慌てた様子で両手を振った。
「そういうわけじゃないけど、一人で探すよりも二人で探したほうが早く見つかるかもしれないって思ってさ」
「探して見つかるようなものかな」
「だって、自転車のサドルを本気で欲しがる奴なんて、そうそういないだろ? 相手が愉快犯なら、取るだけ取ってそのへんにポイって、あり得るじゃん」
なるほど、とヒカリが考え込んだその時、白衣姿の男が生垣の角から姿を現した。
大学職員というには少し若すぎるような気がするが、学生にしてはずいぶん老成した雰囲気を持つ、微妙に年齢不詳なその男は、あろうことか自転車のサドルを一つ小脇に抱えていた。
大きく息を呑んだヒカリだったが、ほどなくそのサドルが自分のものではないことに気がつき、溜め息をつく。
二人が黙って見守る中、白衣の男は小さく会釈をして、傍らを通り過ぎていった。
と、三歩進んだところで男はぴたりと足を止めると、くるりとヒカリ達を振り返った。
思わず身構える、二人。
「もしかして、サドルを盗られたとか?」
うっかり聞き惚れるほどに柔らかい声で、男が問いかけてきた。
なんと答えたものか咄嗟に考えつかず、とりあえずヒカリはがくがくと首を縦に振った。
「急いでるのなら、このサドル貸したげようか。余ってるんで」
「……え?」
驚きのあまりまばたきをくりかえすヒカリに、男がにこりと微笑む。切れ長の目がすうっと細くなるのを見て、ヒカリは、昔歴史の教科書で見た弥勒菩薩像を思い出した。
「あ、いや、まずはこのあたりをじっくり探してみようと思ってるんで」
固辞する太田に、男は微かに眉を寄せた。
「でも、彼女は急いでるみたいだけど。ここまで走ってきたんでしょ?」
そろそろ梅雨明けかという季節にもかかわらず、今日は朝から冷たい乾いた風が吹きすさんでいた。こんな肌寒い日に、額に汗を浮かせていることを、男は見留めたのだろう。
ヒカリは素直に頷いた。
「実は、これからバイトの面接があって……」
「じゃあ、遠慮なくこのサドル使ったらいいよ」
そう言うなり、男は持っていたサドルをヒカリの自転車の穴にねじ込んだ。手際よくサドルを取りつけ、それから太田のほうに向き直る。
「で、まあ、乗りかかった船っていうし、僕もサドル探すの手伝ってあげるよ」
「え?」
「サドル、探すんでしょ? じっくりと」
「えええ?」
素っ頓狂な声をあげたきり、太田が絶句する。
「僕と彼とでサドルを探しておくから、君は面接に遅れないようにね」
「あ、はい」
なにがどうなっているのかよくわからなかったが、とにかく面接に遅刻せずにはすみそうだ。差し迫る時間に急かされるまま、ヒカリは「ありがとうございます」と礼を言って、自転車に跨った。
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