消えたサドル (2)

 

 次の日。

 四コマ目のドイツ語の授業のあと、ヒカリは廊下で太田を捕まえた。

「昨日はごめん!」

 昨夕バイトの面接を無事終えたのち、ようやっと思考に余裕が出てきたヒカリは、自己嫌悪にまみれた夜を過ごすことになった。

 いくら急いでいたといっても、無くなったのはヒカリの自転車のサドルである。それを、あろうことか他人に探させておきながら、自分は他の用事をするために、その場をゆうゆうと立ち去ったのだ。厚かましいにもほどがあるというものだろう。

「本当にごめん」ともう一度頭を下げるヒカリに、太田は少し照れたような笑みを浮かべて「いいよいいよ」と手を振った。

「で、雛方さんのサドル、見つかったよ」

「ええっ 本当に?」

 喜ぶよりも先に申し訳なくなって、ヒカリはつい身を縮こまらせた。

「もしかして、遅くまでかかって探してくれたとか」

「あのあとすぐに見つかったから、気にしなくていいよ」

 よかった、と胸を撫でおろすと同時に、ヒカリの中にふとした疑問が浮かび上がってきた。

「見つかったサドルは、一緒に探してくれたあの人が預かってくれてる。俺、自宅生だから、自転車のサドル抱えて電車乗るのはちょっと厳しくてさ。この時間にここでドイツ語の授業がある、って言っといたから、たぶんもう少ししたら来てくれるはず……って、雛方さん?」

 太田の声で我に返ったヒカリは、少しだけ躊躇いながらも、ゆっくりと口を開いた。

「怪しいな……」

「え?」

「盗られたサドルが、そんなにすぐに見つかるものだろうか」

「いや、でも、現に見つかったわけだし」

「ていうか、普通、余分なサドルって持ち歩くか?」

 白衣の弥勒菩薩像のことを言っているとわかったのだろう、太田が、ああ、と頷いた。「まあ、確かに、ちょっと変わった人だな、とは思ったけど」

 ちょっと、で済むのだろうか、とヒカリは眉間に皺を寄せた。新品のサドルならともかく、中古の、しかも「余ってる」サドルを持ち歩くシチュエーションというのは、なかなか想像し難いものがある。それこそ、サドル泥棒だといわれたほうが、しっくりくるだろう。

「自分で盗っておいて、自分で見つける、マッチポンプとか」

「まさか……!」

 太田が、上ずった声を上げた。流石に少し結論を飛躍させすぎたか、とヒカリは思い直す。

「でも、何もメリットなんて無いしな……」

「そうそう、考えすぎだって」

 ほっと肩を落とす太田をよそに、ヒカリはまだ諦めきれずに首をひねった。向こうの廊下に「悪質な勧誘活動にご注意を」というポスターが貼ってあるのを見て、春先のカルト騒動を思い出す。

「話しかけるきっかけが欲しかったとか……」

 ヒカリの言葉が終わりきらないうちに、太田が咳き込みはじめた。背中を丸め、顔を真っ赤にさせて、何度も激しくむせている。

 ヒカリが「大丈夫か」と声をかけるのとほぼ同時に、「やあ」と朗らかな声がした。

 振り返った視線の先、話題の主その人が右手を軽く上げながら廊下を歩いてきた。

 

 心持ち身構えつつも、ヒカリはとりあえずお辞儀をした。

「サドル、見つけてくださってありがとうございました」

 弥勒(仮名)はにっこりと微笑むと、まだ咳をくりかえしている太田のほうを向いた。

「感謝するなら彼にね。いやあ、いい勘してるよ。ほら、駐輪所を囲っている茂みの下に隠されていたのを、見事に見つけてくれてね」

「隠されてた?」

 思ってもみなかったフレーズに、ヒカリは知らず顎をさすった。

「となると、これは無差別にというよりも、私の自転車と知って狙った可能性が高いな……」

「そうだね」と相槌を打つ弥勒に促されるようにして、ヒカリは思索し続ける。

「しかし、誰かの恨みを買うようなこと……したかなあ」

 ふと、約一名の顔が思い浮かび、ヒカリの眉間に深い皺が寄った。もしかしたら「あれ」ならば、こういうなりふり構わない馬鹿な悪戯を仕掛けてくるかもしれない、と。

「私がおろおろするところをにやにや見物しよう、とか……」

「そんなつもりなんかじゃない、……と思うよ、きっと」

 太田の慰めに生返事で応えてから、ヒカリは小さく首を振った。

「でもなあ、わざわざサドルを抜いて隠して、って、結構手間かかるわけだし。恨みとまではいかなくとも、困らせてやろうとか、さ……」

「そんな……!」

 絶句する太田を放っておいて、ヒカリは弥勒のほうに向き直った

「とりあえず、その見つかったサドルってどんなのですか?」

「明るい茶色で、側面に黒の鋲が打ってある」

「ああ、じゃあ、やっぱり私のっぽいな……。見てみないとわからないけど」

「たぶん、間違いないんじゃないかな」と、どこまでもにこやかな笑みを浮かべて、弥勒が太田を見やった。「彼も、君のだって断言しているしね」と。

 そういえば、と、ヒカリは記憶を辿った。昨日、弥勒がサドルを持って現れた時、太田は何も動じなかった。弥勒が抱えるサドルを、ヒカリのものだと勘違いしてもよさそうなものなのに。

 盗られたサドルの詳細を、既に知っていたということか。そこまで考えたところで、ヒカリの眉がひそめられた。先ほど、弥勒が言った言葉を思い出して。隠されていたサドルを見つけだしたのが太田である、ということを。

 ――まさか。

 ヒカリは、ごくりと唾を呑み込んだ。そっと太田のほうを向けば、彼と真正面から目が合った。

 太田が、つい、と視線を逸らせた。

「さて」

 沈黙を、弥勒の声が破る。

「自転車、今日も昨日と同じところに停めてる? じゃあ、今から君のサドル取ってくるから、駐輪所で落ち合おうか。貸してたサドルと交換しよう」

 

 ――犯人は、こいつかもしれない。

 横を歩く太田を目の端に捉えながら、ヒカリは駐輪所へと向かっていた。

 よほど親しい間柄でなければ、他人がどんな自転車に乗っているかなんて、気にしないのが普通だろう。ましてや、サドルの色や形まで把握しているなんてことは滅多にない。

 だが、サドルを盗ったのが太田だというのならば、話は別だ。隠し場所だって知っていて当然だろう。

 どういうつもりか。どうすればいいのか。悶々と悩み続けて駐輪所にやってきたヒカリは、あるものを目にして、顎を外しそうになった。

 彼女の視線の先、見知らぬ第三の人物が、今まさしくヒカリの自転車からサドルを盗ろうと、孤軍奮闘しているところだった。

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