自由への扉 (6)
* * *
それから一週間が経ち、ヒカリは名実ともに大学生となった。
調査票だのなんだの、毎日のように書類の受け渡しが行われる中、それらに混じって学科の新入生歓迎コンパの案内が回ってきたのが、入学式の二日後。なんでも、学生会館にある食堂を借りきって、立食パーティを開くというらしい。コンパと聞いてあらぬ期待をしていた新入生達は、「酒類の提供はありません」との但し書きを見るなりがっくりと肩を落としていた。現役合格者のほとんどが二十歳前なのだから、当然の措置だ。
新歓コンパ当日。
コンパといったら酒じゃないのか、と一人前にブーたれる同回生に冷ややかな眼差しを突き刺しながら、ヒカリは約束の時間五分前に会場の食堂へとやって来た。待ち合わせ相手である同じ語学クラスの女子を見つけ、合流する。
いかにも「学生食堂」という風情の広い空間の中央に、料理の大皿が置かれたテーブルが五つ。残りのテーブルは壁際にぐるりと並べられていた。飾り一つ無いシンプルな会場は、流石工学部といったところであろうか。必要のない所に費用をかけるぐらいなら、料理にまわせ、ということだと信じよう。
そうこうしているうちに、会場は人でいっぱいになった。機械工学科の今年の新入生は全員で百二十二名。欠席者は決して少なくないが、教員は勿論、クラブやサークルの勧誘目当てな上回生もかなり参加しているため、全員合わせて百名はくだらないだろう。
学部長の挨拶のあと、幹事の准教授の音頭で宴は始まった。見知った者同士で固まっていた新入生も、場の空気がほぐれるにつれ、次第に部屋のあちこちへと拡散し始める。
それを受けて上回生も、積極的に新入生の輪の中に入り込んできた。出身地はどこだ、出身高校はどこだ、何か部活をするつもりなのか。特に、二十人弱しかいない貴重な女子への攻勢は激しく、ヒカリはほどなく仏頂面を取り繕うことを諦めた。
自己紹介の末尾に「カノジョ募集中」とつけ加えるのは一種の様式美なのだろうか。へらへらと自分に話しかけてくる二回生を前に、ヒカリはどうやったらこれ以上眉間の皺が深くなるのを止められるのか、思案し続けていた。
自分が普段どおりに振舞えば、このテの輩はすぐに尻尾を巻いて立ち去るであろうことはわかっていたが、何も新天地でわざわざ自分からよろしくない評判を広めることはないだろう、そう思って適当に相槌を打っていたのだが、いい加減堪忍袋の緒も擦り切れつつあった。失礼を承知で大きく溜め息をつき、さりげなく目の前の顔から視線を外す。
と、その時、食堂の入り口から見覚えのある人物が姿を現した。
それは、二週間前に猫を抱えて一緒に交番を訪れた、あの男だった。
あの時と同じ黒のジャンパーに、インディゴのダメージジーンズ。中に着込んだ派手な柄のシャツが上手くアクセントになっていて、そこらの地味な学生ファッションとは微妙に一線を画している。
「どうしたの?」
流石に余所見が露骨すぎたのだろう、目の前の男があからさまに不機嫌そうな表情になった。
「知人、だ」
「原田さんが?」
この男が「さん」づけで呼ぶということは、あの男は三回生以上なのだろう。
――同じ大学の、同じ学科の奴だったのか。
偶然とはあるものだな。ヒカリは微かに口の
「失礼。挨拶してくる」
「え、あ、ちょっと……」
そりゃないよ、と全身で訴えかけてくる男をその場に残して、ヒカリは人混みをぬいながら原田と呼ばれた人物のあとを追い始めた。
原田は真っ直ぐ壁際へと向かうと、肉を山盛りにした皿を手に歓談している三人の上回生のグループに合流した。
「遅かったじゃないか」
「悪ぃ悪ぃ、中々作業が終わんなくてさ」
「ほれ、メシ、取っておいたぞ」
「サンキュ」
そうやって手渡された皿には、やはり肉が山盛りになっている。そんなに肉が好きか、と心の中で呟きながら、ヒカリは原田から三メートルほどのところで足を止めた。
挨拶をする、といっても、一体何と言ったものか。「この間はどうも」では、流石に唐突すぎないだろうか。とりあえず話しかけるタイミングを見計らわねば、とヒカリは耳をそばだてる。
「なあ原田、お前、この間人助けしたって?」
もしやそれは先日の、と、ヒカリは更に強く意識を原田達に向けた。
「どこから聞いたんだ、そんなこと」
「そこの交番の警察の人に。ほら、俺の下宿、あの裏だから。ここの学生じゃないのか?って訊かれたんよ。怪我した人を助けて、名乗りもせずに去ってった、って。男で、髪の毛伸ばしてて、何かこだわりがあるのかと思えば、染めもせずオサレもせず、雑に括りっぱなしにしてるだけとか、そんな中途半端な奴はお前ぐらいだろ」
「なに? お前、俺の髪型に何か恨みでもあるの?」
「その昔、後ろ姿を見て、女子かと期待した」
「ふざけんな」
ふざけんな、と胸の内でヒカリもひそかに復唱する。
「それはともかく、怪我した人を助けたとか、スゲーじゃん」
「違う違う、そんなご大層なもんじゃないって。単に、迷子になってた猫を保護しただけだから」
照れ隠しなのだろうか、少し早口で原田がまくしたてた。
「いや、でも、飼い主の命を助けた、って聞いたけど」
すげーな、と仲間達に口々に褒められて、彼はなんだか少し居心地が悪そうだ。
話しかけるのはあとにしたほうがいいかな、とヒカリが考えた時、つと、原田が悪戯っぽい笑みを浮かべ、びっくりするようなことを口にした。
「それよりもさ、助けた猫が、女の子に化けて恩返しにやって来たらイイと思わね?」
輪の外にいるにもかかわらず、ヒカリは反射的に「お前は何を言っているんだ」とツッコミを入れそうになった。
だが、そんな感想を抱いたのは、どうやらヒカリだけだったようで、原田の友人達は皆、実に楽しげにそこから話題を膨らませていく。
「二足歩行する猫系か? それとも人間に猫耳ついてる系か?」
「それ、どちらがいいかで戦争がおこるやつやん……」
「化ける、っていうんだから、まんま人間に見えるんだろ? 小柄でショートカットで眼鏡かけたクール系に一票。んでもって、恩返しって、やっぱアレをナニしてくれるんだろ? 最高かよ」
「そこで、女と思ってたら実は男でした、とな」
「だから、女の子だ、って言ってるだろ。聞けよ、話を」
好き勝手にまぜっかえす友人達に文句を言ってから、原田はニヤリと一同を見渡した。
「ちょっと口調はサバサバしてっけど、それはそれでご愛嬌で……」
「なんだよ、やけに具体的だな」
「やっぱりクール系か!」
「髪はこれぐらいの長さでちょっと癖が入ってて、キリッとした美人で、んでもってボンキュッボンって……」
「お前は巨乳派か……」
「ちなみにサイズは如何ほどで?」
「んと……、DかCか……」
ヒカリは眩暈を覚えて額を押さえた。人助けの美談が、何故ゆえに擬人化した猫の胸部サイズの話になってしまうのか。何も聞かなかったことに……いや、そもそも原田のことなど知らなかったことにしよう、と、きびすを返そうとした、まさにその時、何の運命の悪戯か原田と目が合った。
一瞬にして原田の動きが凍りついた。
この表情とよく似たものを、ヒカリは遠い昔に見たことがあった。小学校の廊下、非常ベルのボタンを押そうとして先生に見つかった、同じクラスの男子のあの表情だ。
そして同時にヒカリは理解した。原田が今語っていた「女の子に化けた猫」とは、ヒカリの存在に端を発しているということに。
ヒカリは無言で回れ右をした。この瞬間から、原田はヒカリの「天敵」になったのだった……。
〈 了 〉
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