自由への扉 (5)
よかったよかった、と心底ホッとした様子で繰り返してから、臼田は事務机のほうへと向かう。
「ここから事務的な話になるのですが、茶々は一応『拾得物』ということになるため、手続きに則って経緯を記録に残させていただきます。飼い主さんも、後日あらためてお礼がしたいと言われていましたし……」
「それは君に任せた」
そう言うなり、男は素早い動きでヒカリの後ろへとさがった。
「え? なんで……」
「俺はもう充分にイイ思いをしてるからな。猫を沢山モフれたし、推理の答え合わせもできたし、人助けができて自己肯定感も爆上げになったし、だから拾得者の権利は君が貰っといて」
「え、しかし」
「あと、書類作成が面倒くさい」
「はァ?」
傍らでは、臼田が「あー、まあ、それは皆さんよく言われますねー」と微笑んでいる。
「まぁまぁ。手続きが終わるまでは俺もここで待っとくからさ」
「それなら、あなたが手続きをすればいいじゃないか」
「俺は茶々と語り合うのに忙しいから」
宣言するや否や男は、カウンターデスクの向こう端へと滑るように動いていった。さっそくキャリーの連子の隙間に指を入れて、「よしよし」なんて言い始めている。
「そんな、勝手に……!」
「では、拾得した場所はどこですか?」
二人のやりとりにまったく動じた様子もなく、臼田が机の
「え」
「あ、申し訳ないんですが、ここにはプリンターがありませんでして、お渡しする書類はまた別途手書きで用意しますので。そこの府道ということでしたが、もう少し詳しくお願いします」
「えぇ……」
向こうのほうから「おっ、ここがいいんか? ここがいいんか?」との間の抜けた声が聞こえてくるに至って、ヒカリはしぶしぶ抵抗を諦めた。
十数分後、ヒカリは臼田から『拾得物件預り書』を手渡され、茶々と名残を惜しむ男とともに交番を出た。当初の予定どおり道向こうのスーパーマーケットに寄ろうと、一番近い交差点を見定めていると、どうやら彼も同じ方向に行くようだ。
「あの警官、いい人そうだったし、茶々も心配ないだろ」
開口一番猫の心配をする彼に、ヒカリはつい笑みを浮かべた。
「確かに、猫が好きだということは、間違いなさそうだった」
「違いない」
そうニカッと笑った彼が、しかしすぐに表情を険しくさせる。
「けど、あれだけは解釈違いなんだよな……」
「解釈、違い?」
「飼い主の機転に茶々が応えて、ってやつが、な……」
はー、と大きく息を吐き出して、彼はその解釈とやらを話し始めた。
「そりゃあ、誰かが異変に気づいてくれたらいいな、とか思わなかったわけじゃないだろうけど、猫に助けを呼んでもらうってのはないだろ。犬ならともかく、猫だからな、猫。勝手気ままなお猫様、だ。ヒトに寄り添ってそれなりにコミュニケーションまでとっていながら、実は俺達とはまったく違う
そう思わないか? と同意を求められ、ヒカリは「お、おう……」と言葉少なく相槌を打つばかり。
「茶々の飼い主さんも、茶々にそんなことを期待してはいなかったんじゃないかな、と思ってさ」
「でも、無駄なことだと思っているのなら、じゃあなんでその人は窓を開けたんだ?」
ヒカリの問いかけに、彼が口角を引き上げた。
「飼い主が入院となって猫を他人が預からなきゃならなくなる、ってことは、その人は一人暮らしなんだろう。孤独死の懸念があるということから、社会との繋がりが比較的薄いことも推測される。そういう状況にある人が、頭を打って満足に動けない、意識も怪しくなってきた、って時に、何を考えると思う? このまま自分がどうにかなってしまった場合、自分が発見されるまで猫は食べ物も飲み物も手に入れられない部屋の中に監禁されることになるんだぜ?」
そこまでを一息に語って、それから彼は、ついと視線を外す。
「――お前だけは、自由に生きろ。そう考えたんだろうさ。きっと」
その瞬間、彼が建物の影を出た。夕刻を迎え赤みを増した陽光に、彼の横顔が照らされる。
突然目の前が明るくなったことに驚いて、ヒカリは息を呑んだ。車通りの多い交差点の喧騒が、そのひととき意識から追い出され、彼の声だけがヒカリの
と。やけに慌てた様子で、彼が両手を振り開いた。
「……って、今の、何かドラマみたいな台詞だったよな!」
場面は崖の上とかでさ、主役が海を見ながらさっきの台詞言ってさ、……エンディングテーマがどうとか、カメラアングルがどうとか、少しだけ赤い顔をして早口でまくし立てる彼の様子に、ヒカリは思わず、くすり、と小さく笑った。
そのあとヒカリは、交差点で彼と別れて買い物に行った。「そこのスーパーで買い物をしようと思うんです」と告げたところ、「んじゃ、俺はこっちなんで」と彼はあっさりと別の方向へ道を渡っていったのだった。
歩道橋での自殺騒ぎから猫の轢死体探しを経て、交番で調書を取られる、という非日常的な時間を共有したにしては、その別れは酷くあっさりとしたものだった。そのあたり、猫一匹を助けるために躊躇いもせずに歩道橋の手すりを越えるというメンタリティと、何か共通するものがあるのかもしれない。いわゆる一期一会、というものなのだろう。
――そういえば、名前も聞いてなかったな。
見たところ、学生かフリーターか。前者なら同じ大学である可能性は高い。だとしたら専攻は一体何だろうか。色々想像していたら少しだけ楽しくなって、ヒカリはひっそりと笑みを浮かべた。
――ま、縁があれば、また会うこともあるかな。
学生マンションの自室の前、買い物のレジ袋をよっこいせと持ち直すと、鍵をあける。
『お前だけは、自由に生きろ』
さっき聞いたあの台詞に、いつかの姉の言葉が重なった。
『ヒカリってば、大雑把なフリしてるわりに、色々気にするほうだもんね』
わざとがましく眉を上げてあきれてみせた顔が、ふわりと優しい微笑みを浮かべる。
『とにかく、当分は悩むの禁止。母さんは私が引き受けるから、ヒカリはしばらく自由に、ゆっくりしたらいいのよ』
ドアノブが、手のひらにひんやりと心地良い。
胸一杯に息を吸い、ヒカリは部屋の扉を開けた。
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