自由への扉 (4)

「いえね、その方、茶々が脱走しないようかなり気をつけておられましてね。前の猫がそれで交通事故で死んだから、この子は絶対に家から出さないんだ、って言ってて」

「そうは言っても、うっかり逃がしてしまうことって、あるじゃないですか」

 そのとおりだ、と男の横でヒカリも大きく頷いた。SNSでも、『愛猫を探しています』という飼い主の悲痛な投稿がよく流れてくる。来客の横をすり抜けて玄関を出たとか、雷に驚いて網戸を破ったとか、そのたびに「生き物を飼うのは大変なんだな」と思ったものだ。

「それはそうなんですが、実は過去にも二度ほど茶々が外に出てしまったことがあったらしくて、でも茶々はものすごく怖がりで、ドアから一メートルも離れていない所でコンクリの床にへばりついて震えてたそうなんですよ」

「ああー、あの、姿勢を低くしてぺったんこになる感じで?」

「そうそう、周囲を警戒しすぎてにっぎもさっちもいかなくなってしまった感じの」

 猫飼い経験者同士の会話が、次第にマニアックになってきた。

「猛ダッシュするタイプのパニックじゃなくてよかったですね」

「キャリーに入ってても、キャリー自体が震えるぐらいにガクガクブルブルしてますからね。子猫の頃からずっと家の中しか知らないから、外が怖いんでしょうねえ」

 臼田のその言葉を聞いた瞬間、ヒカリは思わず男の顔を見た。先刻の歩道橋で、この猫が外に慣れていないことを看破した彼を。

 ヒカリの視線に気づいた男が、得意そうに口角を上げる。

 しかしすぐに彼は真顔になって、真剣な眼差しを臼田に向けた。「これを見ていただけますか」と器用に茶々を抱え直して、問題の前肢を前にせり出させる。

「これ、血じゃないでしょうか」

 臼田が小さく息を呑んだ。

「……そのようですね」

「でも、こいつは怪我なんてしていないんですよ」

 途端に臼田は、弾かれたように背筋を伸ばした。ほんの一呼吸の間、何事かを思案したかと思えば、入ってきた時に裏返した『ただいまパトロール中です』の案内板を表に向け、「ちょっと、ここで待っていてもらえますか?」と外へと勢い良く飛び出していった。

 

 抱っこに飽きたらしい茶々を時折床におろしては、余計な所に入り込もうとするのを阻止してまた抱きかかえ、しばらく経って「おろせ」とまたぐにょぐにょ動き始めた茶々を、顎の下だの耳の後ろだのをわしゃわしゃマッサージして気を逸らせ、……を男が何度も繰り返していると、遠くからサイレンが聞こえてきた。

 サイレンはぐんぐん大きくなり、ほどなく救急車が目の前の道を通り過ぎていった。非常事態を象徴するかのような音は、間を置かずその向きを変え、交番のすぐ裏手でピタリと止まった。

 窓の外では、通行人や向かいのスーパーマーケットから出てきた人達が、救急車が停まったと思しき方向を物見高い様子で見つめている。

 十分も経たないうちに再び高々と鳴り始めたサイレンは、交番の裏手をまっすぐ西の方角に向かって遠ざかっていった。

 

 しばしのち、臼田が交番へと帰ってきた。年季の入ったペット用キャリーバッグを手に持って。

「いやはや、あなたがたのお蔭で、茶々の飼い主さんを助けることができました」

「まさか」と漏らしたヒカリの呟きを、男が「いまさっきの救急車ですね」と引き取っていく。

「ええ。万が一を考えて飼い主さんの部屋に行ってみたんですが、インターフォンに応答がなくて、でも、茶々の血のことがありましたし、幸いにも廊下に面した台所の窓があいていたので中を覗いてみたんですよ。そしたら、明らかに不自然な位置に横たわっている足が、窓格子の隙間から辛うじて見えましてね」

 ヒカリは知らず息を呑んだ。最初にあの歩道橋で彼が「救急車」と言った時から、ただならぬ事が起きている可能性を頭の片隅に置いてはいたが、それでもまさか本当に警察沙汰に行き着くとは、思ってもいなかったからだ。

「大家さんに鍵を開けてもらったら、どうやらその方、天井の蛍光灯を取り換えようとして、足場にしていた椅子ごと転倒したみたいで……」

「すると、茶々の肢の血は……?」

 男の問いに、臼田は一瞬だけ躊躇ったものの、まあいいか、と頭を掻いた。

「卓袱台の角に頭をぶつけたそうです。傷から出血して床に流れていたので、茶々はどうやらそれを踏んだみたいですね」

「『ぶつけた』? 飼い主さん、意識があったんですね」

 相変わらず食いつきのいい男に、臼田は「本当なら、あまりこういうことは部外者に話してはいけないんですがね」と大きな溜め息をついた。

「まぁ、今回に関しては、完全な部外者というわけでもないですから、特別ですよ、特別に、当たり障りのないことだけ」

 抱えた茶々を盾にして「ありがとうございます!」と笑顔を浮かべるあたり、この男はかなりちゃっかりした性格をしているようだ。

 ゴホンッと咳払いを一つ、臼田は訥々と口を開いた。

「発見時は気を失っておられたんですが、呼びかけを続けていたら意識が戻りまして。頭をぶつけて立てなくなった、だんだん意識が朦朧としてきたから、ベランダの窓まで必死に這って茶々を逃がした、ということでした。事件性はないということで、私の出番はもう終わりです」

「そのキャリーは、飼い主さんのですか?」

「ええ。飼い主さんが病院から戻るまで、私が個人的に茶々を預かることになりました」

 そう言うと、臼田はキャリーをカウンターデスクの上に置いて入り口をあけた。

「長時間、茶々を保護してくださりありがとうございました。リードも何もなかったから大変だったでしょう」

「いえいえ、久々に猫を思いっきり構えて楽しかったですよ」

 キャリーの前に茶々をそっとおろした途端、茶々はものすごい勢いで中へと飛び込んでいった。なるほど、本当に外が怖いんだな、とヒカリが感心している横で、男が「お前、そんなスピードで動けたんだな……」と呟いている。

 臼田が「偉いねえ」とまさしく猫撫で声を発しながら、そっとキャリーの口を閉めた。

「本当に偉いねえ。飼い主さんが大変だ、って私達に知らせてくれたんだねえ。よく頑張ったねえ」と、そこで声のトーンを普通に戻して、「飼い主さんも見事な機転でしたよね。茶々がそれに応えて外に出なければ、そしてあなたがたが茶々を見つけなければ、飼い主さんは誰にも気づかれないまま亡くなってしまっていたかもしれません。本当にありがとうございました」

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