自由への扉 (3)

 

 とりあえず交番に行こう、との彼の言葉に、ヒカリも静かに頷いた。このまま彼に任せて立ち去るという選択肢もあるにはあったが、乗りかかった舟だと思ったからだ。それに、彼は猫を抱えて両手が塞がっている。猫が逃げる心配をしなくてよくなるまでは、誰かが彼の傍で補助したほうがいいだろう。

 彼の案内で、二人は最寄りの交番へとやってきた。偶然にも、ヒカリが帰りに買い物に立ち寄るつもりだったスーパーマーケットの向かいだった。

 ヒカリにとってこれまでまったく縁のなかった場所だけに、少しばかり緊張して男の後ろから建物前のスペースに足を踏み入れる。ややあって、彼が「あー」と困惑の声を漏らすのが聞こえた。

 大きなガラスが上下に嵌め込まれたドアに、A3サイズの案内が掲示されている。そこには、『ただいまパトロール中です。ご用の方は交番内の電話で連絡して下さい。』と記されていた。

「とにかく、中に入ろう」

 彼に促され、ヒカリがドアを押しあける。予告どおり無人の室内が二人(と一匹)を出迎えた。

 入ってすぐ目の前、カウンターデスクの入り口に向いた面には、防犯を呼び掛けるポスターが幾つも貼られている。その向こうには事務机が一つ。どちらも天板の上はきれいに整頓されていた。

「あれが、例の電話か?」

 カウンターの端にあったのは、事務所等にあるような固定電話だった。

「『ご用のときは、この電話の受話器をあげ、事件・事故などでお急ぎのときは110番に、その他のときは……』って、この場合、どっちにかけたらいいんだ?」

 眉間に皺を寄せて、案内板を読み上げる彼に、ヒカリもまたしかめっ面で首をかしげた。

「今のところ事件でも事故でもないから……下のほうの番号かなあ……」

「悪い。俺は両手が塞がってるから、君が電話してくれないか」

 ヒカリもそれは当然の要請だと思ったし、覚悟をしていたことではあった、が、それでもいざ電話をかけるとなるとやはり躊躇うものがあった。どういうふうに話を切り出せばいいのか、交番名がこの案内板に記されているということは最初にそれを言うべきで、それから猫を保護した経緯を説明して、いや結論から先に話すなら経緯はあとにして、まずは保護した事実と付着している血液のことを、いやいや素人がこれを血液と断定してもいいのだろうか……。

 そんなふうに電話の横にある案内板としばしにらめっこしていると、突然その電話が鳴り始めた。

 トゥルルルル、トゥルルルル、と、静かな室内にやけに大きく呼び出し音が響き渡る。

 ヒカリと男は揃って当惑を顔に浮かべた。

「これ、俺らが出ればいいってことか……?」

「え? 一般人が勝手に出てしまっていいわけ?」

「警官用の電話というなら、留守の時は留守番電話にしたりしないか?」

「いやでも、交番の電話なわけだし」

 おろおろする二人を煽り立てるだけ煽り立てた呼び出し音は、始まった時と同じく唐突にぷっつりと止まってしまった。

 再び訪れた静寂の中、ヒカリ達は再度顔を見合わせる。

「……諦め、た……?」と、ヒカリが零せば、「出なくて正解だった、ってことか?」と彼も眉をひそめる。

 もう一度二人で問題の電話を見下ろした、その時、またも呼び出し音が鳴り始めた。

「ああもう、出ればいいんだろ!」

 なるようになれ、とヒカリが威勢よく受話器を取る。

 彼女が何か言うよりも先に、受話器から年配の男性の声が『何かご用ですか』と、電話をかけてきた人間にあるまじき言葉を投げかけてきた。

 ヒカリは驚きのあまり一瞬言葉を詰まらせた。その間に、電話の向こうが警察署の名を告げる。

 ――なるほど、何かのセンサーか防犯カメラかで、交番に来訪者がいることを知ったんだな。

 交番にやってきたにもかかわらず電話の前でもじもじするばかりの不慣れな来訪者の、手助けをしようと警察署のほうから電話をかけてくれたに違いない。

 ヒカリは静かに深呼吸をした。丁寧な口調を意識して「あの、」と口を開いて――、背後にドアの開く音を聞き、反射的に身を翻す。

「お待たせしてすみません! 何かご用ですか!」

 振り返った先には制服姿の警察官が一人、肩で息をしながら立っていた。

『もしもし?』と電話の声に問いかけられ、ヒカリはなんとか我に返る。

「ええと、それが、今、こちらに交番の人が戻ってこられて……」

 制服警官に「代わります」と言われ、ヒカリはこれ幸いと受話器を彼に手渡した。

「臼田です。巡回からただいま戻りまして……、はい、はい。……はい。了解いたしました」

 電話相手に軽く一礼、受話器をおろした警察官の臼田は、ヒカリ達を見やるとあらためて「どうしましたか」と問いかけてきた。

 ええと、と息を継ぐヒカリを、茶トラを抱いた腕が押しとどめる。「ここからは任せとけ」と言わんばかりの顔が、臼田のほうに向き直った。

「さきほど、あそこの府道でこの猫を保護したんですが……」

 彼の話を終いまで聞かずに、臼田は「茶々じゃないか!」と一気に顔をほころばせた。

「この猫をご存じなんですか?」

「よく知ってますよ! 近所の人の飼い猫ですよ」

 相好を崩して「よしよしよし」と猫の耳の後ろを掻く様子は、相当の手練れだ。保護して以来ずっと大人しく静かだった茶トラが、覿面にゴロゴロと喉を鳴らし始めている。

「この近くに住んでる方で、もともとこの前をよく通られるのでお話することが多かったんですが、巡回連絡の時に私も猫を飼っているってことを話したら、それからは獣医さんに行く途中にここに立ち寄って、茶々の顔を見せてくれるようになりましてねえ。丁度先月も、ワクチンを受けに行くって言っていて、茶々ってば相変わらずキャリーバッグの中でガクガクって凄く震えてて……」

 猫が可愛くてたまらない、という顔で話し続けていた臼田が、そこで唐突に表情を引き締めた。

「ていうか、ええと、茶々があっちの府道に?」

 眉間を寄せて首をかしげる臼田に、茶々を抱えたままの男が少し食い気味で身を乗り出した。

「何かおかしな点が?」

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