自由への扉 (2)

 ヒカリの背中に、一瞬にして冷や汗がふき出してきた。崖っぷちギリギリの人間を、今の声で変に刺激してしまってやいないだろうか。ここは警察か、消防か、しかるべき機関に連絡をして、それから……。

「自殺じゃねーよ」

 憮然とした声を投げつけて、その男は歩道橋から姿を消した。

 ヒカリは、大慌てで手すりへと駆け寄った。救急車を呼ぼうとポケットのスマホに手を伸ばした、まさにその時、橋から落ちたと思った男が、ひょい、と手すりの向こうに立ち上がった。

「うわあ!」

 驚きの叫びが、ヒカリの口をついて出る。知らず一歩をあとずさったところで、ヒカリは、男が通路の外側にある鋼材の出っ張りに立っていることに気がついた。

 ヒカリがまばたきすることも忘れて立ち尽くしていると、男が悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「猫、抱けるか?」

 見れば、彼は、左手で歩道橋の連子れんじをしっかりと掴む一方で、右手で何やらもこもこした塊を抱えていた。

「だ、抱いたことない、けど……」

 仕方ねーな、と溜め息を吐き出してから、男はヒカリを手招き……いや、手の代わりに顎を引いたから、顎招きとでも言えばいいのだろうか、とにかく近くに来てくれと身振りで訴えかけてきた。

「数秒でいいんで、受け取ってくれ。抱くのが無理だったら、両脇掴んでブラーン、ってしておいてくれたらいいから」

 ヒカリは男の手からおそるおそる茶色の毛玉を持ち上げた。猫は、ブラーンとなるどころかカチンコチンに固まったまま、歩道橋の欄干を通り越す。

 男は左手が自由になるなり、いとも軽々と手すりを乗り越えて歩道橋の上へ戻ってきた。

「自殺じゃねーって言ったろ」

「……あ、いや、その、失礼しました、すみません」

 ヒカリに脇を支えられた茶色のトラ猫は、ただひたすらガタガタと小刻みに震えている。真ん丸に見開かれた目がまるでビー玉のようだ。

「そこんところで、にっちもさっちもいかなくなってぶるぶる震えてたんだよ」

 どんくせー猫だよな、と男が笑って猫の頭を撫でる。その笑顔に既視感を覚えて、思わずヒカリは二、三度まばたきをした。

 彼は、ヒカリよりも少し年上のようだった。ヒカリと同じぐらいの長さの、肩にかかる程度の髪を、首の後ろで軽く結わえている。通った鼻筋に薄い唇。人目を引く派手さこそないが、それなりの人数にそこそこカッコイイと評されるであろう顔立ちだ。

「何? 俺の顔に何かついてる?」

「いや、……どこかで会ったことがある、ような気がして……」

 つい目を細めるヒカリに対して、男は少し大袈裟に眉を跳ね上げてみせた。

「うわ、もしかして逆ナン?」

「まさか!」

 即座にヒカリは首を横に振りまくった。だが、あまり必死に否定しても失礼かもとも思い当たって、けれどこういう軽口にどのように対応すればいいのかわからずに、猫を保持したまま、ただ棒のように突っ立つことしかできない。

 男はというと、ヒカリの態度にまったく頓着する様子もなく、楽しそうに笑いながら彼女の手から猫を引き上げた。馴れた手つきで茶トラを抱え込み、ふさふさの頬や耳の後ろ辺りを荒っぽく撫でまわす。

「まだ震えてんのかよ。お前、一体どこの箱入り娘だ?」

「あなたの猫じゃなかったのか」

「おう」

 そう言って、男は満面の笑みを浮かべた。「前に家で飼っていた猫とよく似てるけどな」

 怖がりなところなんか特にさ、と付け加える男の眉が、次の瞬間、ふ、とひそめられた。

「……血、だ」

「え?」

 思わず身を乗り出したヒカリの視線の先、猫の右前肢の裏に、深みのある赤が付着していた。肉球の周囲の毛も、僅かだが同じ赤色で染まっている。乾ききっていない、まだ新しい血液だ。

 男は、猫をそっと歩道橋の路面におろして、全身をくまなくチェックし始めた。猫が逃げ出さないようにだろう、左手の小指を首輪に引っかけた状態で器用に猫の身体をひっくり返したり転がしたりしているが、猫は依然として目を真ん丸に見開いたまま、男のされるがままになっている。

「……どうやら怪我はしていないようだな」

「喧嘩でもしたのかな?」

「喧嘩相手が血を出したというなら、こいつの爪なんかにも痕跡がありそうなんだがな」

 男が前肢の爪を迫り出させてヒカリに見せた。半透明な三日月の爪に、汚れは一切見あたらない。

「この傷一つ無い足の裏を見る限り、こいつは家飼いの猫に違いない。何よりこの怯えようだ。外に慣れていないんだろう。そんな猫に喧嘩は無理だ」

「そういうものかな」

「ああ。毛並みも綺麗だし、フケも浮いていない。毛も汚れていないから、家を出てからそんなに時間も経っていないと思うんだよな……」

 男の真剣な表情につられて、ヒカリも彼同様に首をひねった。

「じゃあ、それが血だという前提条件が間違っている、とか」

「端のほう、乾きかけている部分の色とか見てみろ。これが生き物の血じゃなかったら、俺は素っ裸でそこの池に飛び込んでもいい」

 これはツッコミ待ちの冗談なのか、それとも彼のセンスが独特すぎるのか。どう反応すればいいのかわからなくて、ヒカリはとりあえず曖昧に頷く。

「残る可能性としては、血を流している他者に触ったか、流れ出た血を踏んだか……」

 そう呟いて、男はそっと立ち上がった。腕に抱えた猫を安心させるように、丸い背中を優しく撫でる一方で、視線だけは厳しくさせ、ぐるりと周囲を見まわしている。

「君、視力は?」

「よいよ」

「どこかに車に轢かれた猫とか転がってないか、一緒に探してくれないか?」

 とんでもない内容の協力要請だったが、ヒカリは素直にそれに従った。ちょうど彼女も、交通事故の可能性を考えていたからだ。

 だが、幸いと言うべきか、見渡す限りそのような哀しい気配はどこにも見当たらない。

「……無いね」

「そうだな、無いな」

 と、大きな溜め息をついた男の肩が、突然ぴくりと震えた。ゆるりと顔を上げ、一段低い声で呟く。

「……救急車も来てないしな」

 考えもしなかった言葉を聞き、ヒカリは目を見開いた。

「まさか!」

「血を流すのは、猫だけじゃない」

 そうして、男はまるで自分に言い聞かせるかのように、もう一度ゆっくりと繰り返した。

「そうだ、猫だけじゃない。そして、現場が外とも限らない」

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