自由への扉 (1)
ああ、すっかり春だなあ。
道路脇のバス停のベンチで、
背後の自販機で買ったブラックコーヒーを喉に流し込みながら、もう一度ヒカリは深呼吸をした。これからのことに思いをはせて目を閉じれば、……ワンルームの床を埋め尽くす段ボール箱の山が瞼の裏に浮かび上がってくる。早いところ小さな棚か何かを買わなければ、いつまで経っても部屋の中が片付かない。あと、机と、椅子と……。
やっぱり誰かに応援を頼んだほうがよかったか、と幾つかの顔を思い浮かべ、ヒカリは派手な溜め息をついた。誰の手伝いもいらない、と大見得を切った以上、自分でなんとかするしかないのだ。
手伝ってあげるよ、と差し出された姉の手を押し戻したのは、紛れもなく自分なのだから。数日前の出来事を思い出し、ヒカリはそっと眉間に皺を寄せた。
* * *
「どうしても一人暮らしをするの?」
引っ越しの荷造りをするヒカリに、姉が心配そうに語りかけてくる。六歳上の姉は大学卒業後に家を出ており、今日はわざわざヒカリの様子を見に帰省してきてくれたのだ。
「家から通えない距離じゃないでしょ? 三回生になって実験が始まったら、さすがに一時間半もかけて通学してらんなくなると思うけど、それまでは実家で楽しておけばいいのに。大変だよ……」
「一人暮らしぐらいできるよ」
姉の気遣いが嬉しくて、ヒカリは敢えて素っ気なく言葉を返す。彼女がヒカリの生活力を不安視しているわけではないことなど、ヒカリには重々わかっていた。思慮深いからこそ心配性な彼女は、ヒカリの健康や安全について気にしてくれているのだろう。
そしてそんなヒカリの胸中などお見通しとばかりに、姉は悪戯っぽい表情で「一人暮らし『ぐらい』だとか、言いきったなー」と微笑んだ。
と、そこに、
「だめよ、いつまでもお姉ちゃん風を吹かして、ヒカちゃんを困らせないで。ヒカちゃんなら大丈夫に決まってるじゃない」
的外れとしか言いようのない、無粋な言葉が背後から投げかけられた。
「やだな、母さん。私は別にヒカリの生活能力を疑ってはいないわよ。私なんかよりもずっとしっかりしてるもん。でも一人だと病気になった時とか大変だし、事件や事故に巻き込まれることだってあるかもだし」
「相変わらず、お姉ちゃんは余計な心配ばっかりね……」
ふう、とこれ見よがしな溜め息に、さしもの姉もムッとした表情を隠せず、声の調子を一段低くした。
「それに、よりによってこんなややこしい時に一人暮らしさせるなんて……。これじゃあまるで――」
「だって、ヒカちゃんが下宿をしたい、って言うから、仕方ないじゃない。きっとヒカちゃんだって、一人で落ち着いて色々考えたいのよ。ねえ、そうでしょ、ヒカちゃん?」
自らを「理解のある母親」と信じて疑わない、無邪気な、それでいて独善的な笑顔が、正面からヒカリに向けられる。
大声で反論したくなる衝動を必死に抑え込んで、ヒカリは静かに目を伏せた、
* * *
『そうでしょ、ヒカちゃん?』
あの声が耳元に甦り、ヒカリは思わず激しく頭を振った。大きく息をついて、乱れた髪を慌てて手櫛で直したのち、缶コーヒーを一気に飲み干す。不愉快なことはさっさと忘れてしまうに限る、と自分に言い聞かせながら。
――だって仕方ないじゃない、か……。全部、私のせいってことか。
そう胸の内で呟いてから、またしてもヒカリは頭を振った。いかんいかん、楽しいこと、楽しいことを考えるんだ、と。
〈心配性〉な姉からは、あれからちょくちょくSNSのダイレクトメッセージで、防犯情報や健康ニュースが送られてくる。比較的身体が丈夫な兄弟の中で、姉だけは季節の変わり目によく風邪をひいていた。就職と同時に始めた一人暮らしは、きっと苦労も多かったに違いない。「余計な心配ばっかり」なんて言うあの人は、そんなことにも気づいていないのだろう……。
「いや、だから、頭を切り替えろって」
声に出して自分で自分にツッコミを入れて、ヒカリは意識を過去から引き剥がした。散らかったままの部屋についてはとりあえず脇においておいて、待ちに待った新生活、大学生活だ。どんな授業があって、どんな先生が教えてくれるのか、新しい友達はできるのか。
やるべきことを確認しようと、ヒカリは頭の中の予定表をめくった。明後日には大学生協主催の新生活説明会がある。事前に購入したノートパソコンや教科書の受け取りも始まるし、工学部主催のオリエンテーリングは五日後だ。合格通知書に同封されていたチラシを見た時はオリエンテーションの誤植かと思ったものだが、なんと本当にオリエンテーリングで間違いなく、学科ごとに指定された日時に集合してキャンパス内のチェックポイントをまわるらしい。受験会場となった校舎と生協の建物しかまだ知らないヒカリには、とても有難いイベントだ。
なんとか気持ちを切り替えることに成功したヒカリは、よし、と気合いを入れ直して立ち上がった。自販機横の空き缶入れに缶を捨て、大きく伸びをする。
中央分離帯を有する片側二車線の大きな道路の両脇には、広い駐車場を備えた飲食店や小売店などの商業施設が並んでいる。車通りの割に周囲に歩行者の姿がほとんど見受けられないのは、今が平日の昼間だからであろうか。
スマホをポケットから取り出し、地図アプリを立ち上げる。線路の北側にあるホームセンターにも買い物に行きたいが、それは買い物リストを作成してからのほうがいいだろう。今日の散策は、途中で見かけたスーパーマーケットで晩御飯だのなんだのを買って終わりにしよう、と一人頷く。
道を渡ろうにも横断歩道まで少し距離があることから、ヒカリは、すぐ傍にある歩道橋を使うことにした。たまには運動しないとな、と、はなうた交じりで階段をのぼりきり、そこでヒカリは思わず「うわっ」と声を上げた。
歩道橋のど真ん中で、一人の男が、手すりを乗り越えようとしていたのだ。
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