無音の響き (5)


 

「餅は餅屋、ってね」

 同じ文化部棟の四階。原田は軽音楽部と書かれた扉を軽くノックした。

 一拍おいて、「どうぞー」と野太い声が奥から響いてくる。

「篠原、いるかー?」

 おう、という返事を待たず原田が扉を開いた。声の主であろう、正面の窓際に立つ男が、にこやかに片手を上げる。

「原田! この間はありがとうな。お陰でほら」そう言って彼は傍らのキーボードに手を伸ばし、ドレミファソ、と音階を奏でた。「このとおり、もうすっかり元どおりだ。ホント助かったよ」

 ありがとう、助かった、と何度も繰り返す声に、原田が照れたように頭を掻く。左手奥の机に座っていたもう一人が、感心したように口を開いた。

「もしかして、修理してくれたっていう工作部の人? 凄いなあ。僕のベースが壊れた時も、頼めるかな」

「部品があればね。依頼は会計通してな」

 背後で感嘆の溜め息を漏らす茉莉に得意げな目配せを投げてから、原田は部屋の中へと歩みを進めた。

「篠原、お前さ、『ふるさと』って弾ける? 『うさぎ追いしー』ってやつ」

「ああ」

 篠原と呼ばれた男は、ちょっぴり得意そうにキーボードに指を走らせた。幾つか音をさまよったのち、やがて訥々と旋律を弾き始める。

「うさぎ美味しいー」

 よく通るバリトンで字余りの歌を歌う篠原に、原田は、「いきなり喰うか」とツッコミを入れてから、ニヤリとヒカリを振り返った。

 どこもかしこも馬鹿ばっかりかよ、とヒカリは目線で原田につき返す。

 

 ド ド ド レーミレ、ミ ミ ファ ソー

 ファ ソ ラ ミーファミ、レ レ シ ドー……

 

「シ、か……」

 弾き手の手元を見つめながら、原田が唸った。オルゴールに欠けていた箇所は「シ」の音だったのだ。

「『ロ』とも言うよね。ハニホヘトイロ、で『ロ』」

「ツェー、デー、エー、エフときて『ハー』かもな」

 本題に入ったからには遠慮は無用、とばかりにキーボードの周りに押し寄せてきたヒカリ達を見て、篠原が目を丸くした。誰? と慌てる彼に、原田が苦笑を浮かべる。

「ちょっとこの子らの調べ物を手伝っててさ」

「へー。君らもしかして一回生? 何学部?」

 律儀に「経済です」と返事をする茉莉を放っておいて、ヒカリは原田に向き直った。これみよがしに尊大な態度で腕組みをし、皮肉を込めて口元を歪ませる。

「さて、迷探偵殿は、これらをどう料理するんだ?」

「急かすなよ。お前、ケツの穴が小さいだけじゃなくて、早ろ……」

「シモネタはもう充分だ」

 光の速さで、ヒカリの肘が原田の鳩尾に入った。腹を抱えて呻く背中にとどめを刺すべく、ヒカリは刺々しい声音を投げつける。

「欠けている音が判明したわけだが、これで謎が解けるのか?」

「お前は? 何か思いつかねーのか?」

 質問に質問で返す不躾さに、ヒカリは眉を大きく跳ね上げた。

「これはアンタが言い出したネタだ」

「じゃあ、お前に何か他のアイデアがあるのか?」

 いつになく静かな眼差しで問いかけられて、さしものヒカリも言葉に詰まってしまった。

「代替案があるってんならともかく、他にいい案もないのに、偉そうに突っかかってくるってのは、どうよ?」

「……それを言うなら、アンタだって充分偉そうな態度じゃないか」

 目元に力を込めて、ヒカリが原田を睨みつける。だが、当の原田は全く怯んだ様子もなく、そればかりか、至極嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。

「な、何だ」

「『アレ』呼ばわりから『アンタ』になったな」

 しまった、とヒカリは目を見開いた。

「ってことは、俺、妖怪から人間に昇格したんだな?」

 そう言って楽しそうに笑う原田の、どこを何で殴りつけてやろうか、とヒカリが考えを巡らせていると、突然オルゴールが鳴り始めた。

 何事かと振り返れば、篠原の横で茉莉が、「ここが一音欠けているんですよー」とか何とか言いながらオルゴールを回していた。

「あれ? ……違うな」

 ぼそり、とこぼされた篠原の声に、ヒカリも原田も一変して真顔になって、彼の傍に駆け寄った。

 二人が口を揃えて「何が」と問うのを見て、茉莉の眉がそっと緩む。

「何が違うんだ?」

 原田の改めての問いに、篠原はついと視線をキーボードに落とした。

「音がね。ほら」

 篠原の指が、先ほどと同じ鍵盤の上を滑る。オルゴールの曲に追いついたところで、彼の言わんとすることをその場の全員が理解した。

 オルゴールの音とキーボードの音が合っていない。

 合奏を諦めて、篠原は同じ高さの音を探し始めた。キーボードの上で指を行ったり来たりさせること数秒、やがてオルゴールとキーボードの音はきれいに重なった。先ほどの不協和音とは打って変わって、見事な二重奏が部屋の空気を震わせる。

 旋律が一巡したところで、どちらからともなく演奏は終わりを迎えた。

「へー、ト長調かあ」

 篠原の呟きに、原田が身を乗り出した。

「どういうことだ?」

「さっき俺が弾いた時には、黒鍵は使わなかっただろ。俺は絶対音感なんて上等なもの持ってないからさ、音と音の音階の差だけ拾って、単純にハ長調でメロディを探したんだ。でも、本当はファにシャープのついたト長調だったんだ」

 ソラシドレミファソ、と篠原が黒鍵を交えて弾いたその音は、何も知らない素人の耳には、まるで「ドレミファソラシド」のように聞こえる。

 と、その時、奥にいたもう一人の軽音楽部員が口を開いた。

「楽譜では、ヘ長調になっているけどね」

「マジ?」

 篠原が机の傍へと向かう。ベース担当と言っていた部員は、手に持った大判の冊子を開いてみせた。

「そのキーボードの付録の楽譜に、載ってるんだよ、『ふるさと』が。ほら」

「本当だ、ヘ長調だ」

 遅れて駆け寄る一同が、篠原の肩越しに楽譜を覗き込んだ。

 ふるさと、とタイトルを冠した五線譜には、フラットが一つだけ、ちょこんと飾りのようについている。

「童謡とか唱歌とかって、ヘ長調が多いと思ってたから、ト長調って聞いて意外に思って」

「でも、ヘからトだと、わざわざ変調するメリットってあまりないよな?」

 ヘはファ、トはソの音名だ。ファを主音とした長調がヘ長調で、ソを主音としたのがト長調である。

「相当音域の限られている楽器なら別だけど、オルゴールだしなあ」

「ギターみたいにコードとかも関係ないもんなあ」

 ぶつぶつ呟くアマチュア演奏家二人の間に、原田が少しだけ遠慮がちに身を割り込ませた。茉莉から受け取ったオルゴールを示しながら、おずおずと問いかける。

「ト長調ということなら、結局欠けているのはどの音なんだ?」

「ファ、だな」

「シャープがついている音か……」

 もう一度オルゴールと同じ音で弾いてみてくれないか、との原田の言葉に、篠原は気前よく頷くと、キーボードの前に戻った。

 

 ソ ソ ソ ラーシラ、シ シ ド レー

 ド レ ミ シードシー、ラ ラ ファ ソー……

 

「じゃあ、今度はシャープを取っ払ってみてくれ」

「いいけど」

 ファ、のところで白鍵を押さえた途端、弾いている本人も含めた全員の眉間に皺が寄った。

「わ、変なの」

「たかが半音で、気色悪くなるものだな」

 顔をしかめてぼやくヒカリ達に、軽音楽部員が苦笑を返す。その横で、原田がただ一人、無言のままじっと立ち尽くしていた。彫像のごとく微動だにせず、難しい顔でおのれの足元を見つめている。

 やがて彼は勢いよく顔を上げると、「サンキュ」とだけ言い残して、そのまま部屋を飛び出していった。

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