無音の響き (4)


「え? 何が? 何が変なの?」

「切断面が滑らかすぎる」

「そのとおり」

 やっと気づいたか、と尊大な態度で一言つけ加えてから、原田が慎重にルーペの位置を調節した。

 画面の中が大きく揺れたかと思うと、今度はその中央に、一本の水平なラインが映し出された。

「問題の歯だけを一本、こう、上に反らせて、切り取ったんだろうな。薄刃のニッパーを使えば、簡単だ」

 なるほど、画面に映るこの線は、上と下の両方から固い刃で挟み切られた痕に違いない。

 原田の台詞を受け、ヒカリは画面からオルゴールへ目を移した。

「つまり、この櫛の歯は、何者かの手によってわざと工具を使って切り取られたと考えていい、ということか」

「そう。ところで松山さん、破片は見つからなかったんだよね?」

 いきなり話を振られた茉莉は、跳ねるように背筋を伸ばした。

「は、はいっ! それはもう、目を皿にしたつもりで探したけど、箱の中にも紙袋の中にも見あたらなくって、どこかに飛んでったかも、って思ってリビング中を隅々まで見てみたけど、やっぱり無くて」

「ということは、やはりこの歯を切り取ったのは、その送り主である可能性が高いな……」

「え、でも、サトル兄ちゃんがなんでそんな……」

 絶句する茉莉の横で、ヒカリは思いつくままに口をひらいた。

「まさか嫌がらせってことはないだろうが……」

 そのあとを受けるようにして、原田が「それか、ある種の挑発行為とか」と顎をさする。

「ネタ振り、きっかけ作り、とか……?」

 顔も知らないサトル兄ちゃんとやらの行動原理を推測するのは難しい。うーん、と考え込んだヒカリは、ふと、茉莉があっけに取られた表情できょろきょろと顔を動かしていることに気がついた。不思議なものを見る目つきで、忙しなくヒカリと原田とを見比べている。

 次の瞬間、ヒカリはハッと我に返った。折れた歯の謎に集中するあまり、ついうっかり原田と屈託のない会話を交わしてしまっていたではないか。慌てて奥歯を噛み締めて、行き場のない腹立たしさを視線に載せて茉莉にぶつける。

 ヒカリのまるっきりの八つ当たりを、とてもイイ笑顔で受け流した茉莉に、原田が「ええと」と水を向けた。

「そもそも、お姉さんと、その『サトル兄ちゃん』ってのは、どういう人でどんな関係なんだ?」

 再び自分のほうに話の矛先が回ってきたことで、茉莉はヒカリ達の観察をやめて姿勢を正す。

「姉ちゃんは……私よりも三歳上で、音大に通ってます。専攻はピアノで、結構腕はいいみたい。見た目もそこそこ美人なんだけど、中身が……中身が……」

 そこまで語って、茉莉はぶるりと身を震わせた。

「……昔、姉妹喧嘩の時にブリタニカ投げつけられたし……、この間は、電車で遭遇した痴漢をボコボコにして駅員に引き渡したって……」

「ボコボコに!?」

 ヒカリが我が耳を疑うのと同じタイミングで、原田も同じく驚きの声を上げる。

「逃げようとした痴漢に足を引っかけて転倒させて、逆上して殴りかかってきたところを鞄で返り討ちにした、って……」

「鞄で?」

 またも異口同音に発せられた問いかけに対し、茉莉は視線を虚空へと向けた。

「レポートのために本を山ほど借りて帰ってきたところだったらしく、めちゃくちゃ重い鞄だった……」

 しばし沈黙があたりを支配する。

 原田が感心したような表情で、ふー、と息を吐き出してから、ニヤリと傍らを見やった。

「……要するに、雛方みたいな性格、と」

「冗談! 私は百科事典を粗末に扱ったりしない」

「ブリタニカじゃなくて! 私の心配をしてよ!」

 話題が逸れた元凶がおのれであることを自覚しているのかいないのか、原田が「まあまあ落ち着いて」と調子のよい態度で茉莉をなだめた。

「で、そのツワモノなお姉さんに、そのサトル氏がいわくありげなプレゼントをした、と」

「姉ちゃんと同い年って言ってたっけ」

「そう。高校までずっと同じ学校でねー。落ち着いた感じの、『これぞお兄ちゃん』ってふうに頼れるカッコイイ兄ちゃんなんだけど、面倒見の良いところにつけ込まれて、姉ちゃんに振りまわされてるって言うか、尻に敷かれてるって言うか、いじめられてるって言うか、虐げられてるって言うか……」

 並びたてられるほどにどんどん穏やさを失っていく言葉の数々に、ヒカリは眉を思いっきりひそめてしまう。

「ちょっと待て、『お互い意識し合ってる二人』じゃなかったのか?」

「世の中には色んな愛のカタチがあるんだよ」

 と、わざとらしく頷く原田に、ヒカリは容赦なく視線を突き刺した。

「知ったふうなことを」

「お子様には解んねーだろうけどなー」

「解ったフリしてボケかます馬鹿に言われたくないね」

「もうっ、サトル兄ちゃんの話、聞くの? 聞かないの!?」

「あ、すまん」

 もしやこれが姉譲り、と思わせる怒声を張り上げる茉莉に対して、二人は声を揃えて姿勢を正した。

「……で。ついこの間、兄ちゃんが、東京に就職が決まったらしくって。姉ちゃんは、もうこっちでピアノの仕事が決まってるし……、どうなるんだろう、どうするのかな、って思ってたら、それから二人とも全然お互いに顔を合わさなくなって……」

 そこで茉莉は、一際大きな溜め息をついた。

「このまま終わってしまうのかな、って矢先に、プレゼントよ。たぶん初めての。袋覗いたら、蓋の閉まりきっていない箱が剥き出しなのよ、つい中身見てしまいたくなるよね!?」

「ノーコメント」

 またも二人の声が揃う。

 いち早くそのことに気づいたヒカリが反射的に原田を睨む。しかし原田はじっと何か考え込んだきり、どうやら周りが目に入っていない様子だ。

 やがて彼は神妙な顔でオルゴールを手に取ると、もう一度ゆっくりハンドルを回し始めた。

 一音欠けたむず痒い旋律が、静かな部屋に流れ出す。

「何の音が折れているんだろうな……」

 原田の呟きを受け、茉莉が少しだけ誇らしげに胸を張った。

「姉ちゃんだったら、すぐにわかるかもだけど」

「もしや、絶対音感ってやつ?」

 ヒカリがそう嘆声を漏らすのとほぼ同時に、原田の口から「なるほど」と呟きが漏れた。

「なら、この欠けている音に秘密がありそうだな」

 もう少し調べてみるか、と言葉を継ぎ、原田が立ち上がる。

「誰か詳しそうな奴に話を聞きに行こう」

「ありがとうございます!」

 ぱあっと表情を明るくする茉莉の横で、ヒカリは小さく鼻を鳴らした。この謎の行方が気になるだけではない、この男との謎解きをうっかり楽しく思ってしまっている自分に気づいてしまったのだ。

 ――こんなことで、胡麻化されたりしないんだからな。

 ヒカリは一人静かに唇を引き結ぶ。

「雛方も来るだろ?」

 アクリルカバーを付け直したオルゴールを手に、原田がニカッとイイ笑みを浮かべた。

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