第60話
「でも、コーヒーは用意しておいてくれたんですね」
戻ったら淹れようと思っていたブランシュは、手間が省けた。エスプレッソマシーンが、今日もパリの各家庭で活躍している頃だろう。やはり朝はこれがないと始まらない。
「起きたらいないからね。あー、やっちゃったーって思ったから。とは言っても、ボタン押しただけだけど」
これなら、機械音痴の自分にもできる、とニコルは自信満々に胸を張る。カップを用意してボタンを押す。間違える要素はない。洗濯物はお湯の温度だったり、洗剤だったりがややこしいので、細かい作業はニコルは苦手なのだ。でもできるのはこれくらい。
「寝不足が原因なのでは? また昨日もいませんでしたけど」
寝坊した理由をブランシュは冷静に分析した。夜寝るのが遅いから、朝起きるのも遅くなる。当然だろう。
一応、ニコルは釈明する。一方的に攻められるのは彼女の流儀に反する。
「爺さんに会ってきたからね。さすがに文句もたくさんあるから」
ギャスパー・タルマ。それが彼女の祖父の名前。世界的な調香師であり、M.O.F、国家最優秀職人章も持ち合わせる人間国宝。そして、その孫には、とあることをお願いしている。それが『クラシックの曲に合わせた香水作り』。提示した曲を連想させる香水を作成すること。その第一弾がブラームス『雨の歌』だった。
「……会ってみる?」
ブランシュは盲信的にギャスパーを崇拝している。ニコルが頼まれた香水作りには、ブランシュが手伝っている。否、クラシックも香水も初心者なニコルに代わり、ブランシュが全て担当している。ゆえに、会うことは可能。権利がある。しかし。
「いえ、全てが終わったら、その時にお会いしてみたいです。会ってしまうと、そこで満足してしまう気がして」
あえて自分に厳しく。ブランシュは憧れだけで終わらせたくはないため、しっかりと自分のやるべきことをやりたいと考えている。そのためには、会うことはご褒美とし、ストイックに香水と向き合う。
やれやれ、とニコルは呆れる。
「考えすぎ。ただの爺さんだって」
そう言われ、少しブランシュはムッとする。たしかに、やっていることは無茶苦茶な気もするが、それでも人生の指標となっている人物。ただのお爺さんなわけがない。
その気配を感じ取り、ニコルは話を変える。
「で、そっちの方はどうなってる?」
そっちの方、とはギャスパー・タルマから課された香水作りを意味する。課されたのはニコルだが、やっているのはブランシュのため、進捗状況はブランシュしかわからない。
今回のテーマは、ドヴォルザーク『新世界より』。
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