第6話 廻る街

 ある休日に十兵衛は印刷した用紙を片手に寝台に寝そべっていた。

「面白いか?」

 退屈そうな逆さの男が問いかける。十兵衛は「面白いよ」とだけ返して一瞥さえよこさない。

 それは十兵衛の友人が寄越した講義資料とノートの写しだった。同専攻の友人は十兵衛が退学さえ視野に入れていることを惜しみ、こうして専攻分野の資料を送付してくれるのだった。

 資料だけでは理解が及ばない点は教授にメールで問いかける。すると事細かに解説を添えて返信をくれる。十兵衛は教授が自身の研究や活動に加えて毎日のようにある講義で忙しいことを理解していた。

 つまるところ十兵衛は大学での人間関係について、かつてないほどに恵まれていると実感していた。


 無言の時間が流れる。

 やがて寝台から起き出した十兵衛は机に向かい、自分なりの解釈をノートにまとめだす。その上での理解のすり合わせを友人間で行い、それでも解消されない疑問を教授にメールでたずねる。休学して以来の週末の日課だった。

 友人から『全然休学してねぇな』と返信のついでに送られてきた際には十兵衛自身、たしかにと納得したものだが、本音で言えば休みたくないのだから仕方がなかった。

「終わったかい?」

 メールの送信を見て逆さの男が呼びかけてくる。放心しながらの返信待ちで生返事を返すと男は更に言葉を続けた。

「なら少し付き合え。行きたい場所がある」

 十兵衛はその言葉に少し驚いた。逆さの男は茶化したり質問したり騒いだりすることはあっても、明確な意思を示すのは珍しかったからだ。

「行きたい場所って?」

「この街を見渡せる所だ。具体的には任せる」

 ちらりと窓の外を確認する。太陽はまだ頂点にすら達していない。時間はいくらでもあった。

「わかったよ。眺めが悪くても文句言うなよ」

 ああ、とだけ返事をした珍しく大人しい男を横目に外出の準備をする。やがて準備も整い二人は家を出た。


 十兵衛の住む街は盆地であり、周囲を山に囲まれている。そして街全体も緩やかに傾斜しており、北に行くほど標高は高い。つまり街を囲む山々の中でも南の山より北の山のほうが街を見渡すには良いということになる。そうなれば自然と今回の目的のためには北に向かうことになり、しかし山登りするほどの準備もないため、山の手前、公園のある小高い丘に十兵衛たちは向かった。

 街の北にある急勾配の坂を登れば池を抱えた公園がある。その公園の南側の隅にある目立たない階段を登るとご丁寧にベンチまで置かれた展望所がある。お世辞にも広いとは言えない、本当に街を眺めるためだけの場所だ。

 十兵衛は到着するなりベンチに腰掛け、一息つく。

「どうだい? 街は見渡せてるだろ」

「ああ、いい場所だ」

 満足げな逆さの男を横目に十兵衛は気づかれないように微かに微笑んだ。滅多に来ることはないが、十兵衛自身この場所を気に入っていたからだ。

 視線を正面に向ければ街の南端近くにあるターミナル駅まで視線が届く。家やビルが所狭しと敷き詰められる中でときおり木々が密集しているのは寺や神社、あるいは公園があるからだと男に説明する。すると男は興味深げに身を乗り出してきたので、それぞれ目立つ場所を指し示して説明を添えた。男はそれを黙って聞き、ときおり相槌を返した。

 しかしやがて説明も尽き、ただ無言で街を見つめだした。片やベンチに腰掛け、もう一方といえば相変わらず逆さで宙に浮いている。視線の向かう先だけは同じだが、他は何もかも違う二人だった。

 そうこうしている間に太陽が頂点に達し、さらに地平に向けて転がり出す。そんな頃にようやく逆さの男が囁くような声でこぼした。

「街は常に動いている。決して止まることなく、動き続けている。それは昼でも夜でも関係ない。いつであろうと、どんな状態であろうと、街は必ず動いている」

 独り言のような微かな声に言葉を返すか迷ったが、十兵衛はそれでも聞き返すことにした。逆さの男が自身の意志を示す珍しい状況に次はないかもしれないと感じたからだった。

「それはなぜ?」

「街が人でできているからだ。人は意図しようとしまいと必ずある方向に向かっている。街を構成する人が常に一定の方向へ進んでいる以上、街もまた動き続けている」

「誰しもが目指す方向? 安定か? あるいは死か?」

「幸福だよ。『今よりもより良い場所』と言ってもいい」

 言い切る男の横顔を盗み見る。その目は一心に眼下の街へと向けられていた。

「贖罪のために苦しみを抱えて生きる者や、他人のために不幸を背負う者だっているだろ」

「いいや、例外なく全ての者がそうだ。罪を償うことも、自己犠牲に身をやつす者も、そうしなければ納得がいかないと考えるからそうする。納得できない生き方には後悔しか残らない。そして後悔は抱えるほど幸福から遠ざかる。ならば後悔しない生き方とは幸福のための生き方と同義だ」

 言い終えて男は一旦目を閉じた。そして一拍の間をおいて開かれた目は十兵衛の方へと向けられた。

「決めたんだろう?」

 何をかは聞かれなかった。しかし十兵衛にはその意味するところが理解できた。

「ああ、決めた」

「後悔はしないか?」

「その道を選ばないことよりはしないと思う」

 十兵衛の言葉に男が微かに笑み、ただ「そうか」と言って頷いた。

 逆さの男は視線を街に戻し、展望所のふちまで前進して言葉を続ける。

「人は誰しも幸福を求めている。いついかなる時も人は幸福に向けて歩を進めている。これは権利でも義務でもない。石が坂を転がり落ちるのと同じ、ごく当たり前の運動だ。そこに違いがあるとすれば、足を踏み出す際の意気込みくらいなものだろう」

 街を見下ろす男の顔はベンチからは見えない。表情の見えない男に向かって十兵衛は言葉を投げた。

「お前もそうなのか?」

「なにがだ?」振り返り、心底不思議そうな表情を見せる。

「幸福に向かっているのかって。人間なんだろ、お前も」

 十兵衛の言葉に逆さの男はさも予想外と言うようなキョトンとした表情を見せた。やがて自嘲するように笑い、言葉を返す。

「ああ、きっとそうだ。私もそうなんだろう」

 大げさな手振りで腕を組んだかと思えば、うんうんと頷く。腕を組むその姿は逆光で影となり、まるで身を強張らせて痙攣しているかのようでもあり、まさしく刑死者のようにも見えた。

 晴天の下に吊られている刑死者。しかし当人は満足げに笑ってさえいる。

 ひどく不釣り合いで不格好でもあるが怖ろしくはない。なんとも不思議な相手だった。

「逆さ吊りなのにな」

「ああ、逆さ吊りなのにだ」

 視線があって笑い合う。

 その後、満足するまで街を眺めてから二人は帰路についた。


 その日の夜は寝付きがよく、寝台に横になるとすぐに記憶が途切れた。夢も見ずに熟睡し、気づけば朝だった。体感時間的には一瞬、目を閉じて開ければ朝だったというような感覚。明るいか暗いかの違いだけかと思いきや、逆さの男の姿は既になかった。

 しかし十兵衛には妙な納得感があった。

 決断したことで昼でも夜でもない黄昏の時間は終わりを迎えたのだ。

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