第5話 夜の帳

 休校することを選んで以来、十兵衛は平日はアルバイトで働いている。市中を縦断する河川の河川敷をのんびり歩いて職場へと向かい、仕事が終わればまたのんびりと川の側を歩いて家に帰るのだ。

 その日もいつも通りにのんびりと家路についていた。河川敷と街路の間には堤防があり河川敷が一段低い。そのため川のせせらぎは近く、車やバイクなどの忙しないものは遠い。仕事終わりとなると日も傾いでいるが、完全に暗くならないうちは川沿いで練習するトランペットやクラリネットなど、様々な楽器が思い思いの音を出していたりする。それらが対岸で小気味良く鳴らされていると疲れた体に染みるように響く。

 見上げれば空は赤く染まりかけている。夜行性のマガモは起き出し、帰路につく人間たちを尻目に忙しなく翼をはためかせ、夜の迫る空へと飛び立っていく。どこへ行くのかと見守っていても彼らは後ろなど顧みることもなく飛び去り、やがて空に浮かぶ点となって見えなくなった。

 やがて、落陽はその姿の大半を地平の彼方へ隠していた。空はもはや暗く、西の空の彼方だけが夕暮れの残滓を残している。夜の帳から逃げるように人々は帰路につき、河川敷にはもはや人の姿はほぼない。稀に見えるのは十兵衛のように何処かへ急ぐ歩行者だけだった。

 さて、街路はともかく河川敷に灯りはなく、月明かりだけが十兵衛の行く先を照らしている。夜目に慣れればそれでも十分な光量だったが、川路には断続的に完全な暗闇が訪れた。川にはいくつもの橋が架かっており川路はその下をくぐるのだ。

 十兵衛は慣れた様子でその暗闇を突き抜けていたが、ある橋の下では思い出したように足を止めた。

「どうかしたのか?」逆さの男が不審げな声を上げる。

 十兵衛はしばらく黙っていたが、やがて闇の帳を破らないように気遣うようなか細い声で応えた。

「むかし、ここに子猫がいたんだ」

 逆さの男はだからなんだと言外に聞くように視線を向けた。

「『拾ってください』の定型句付きさ。でも見つけた時には既に死んでた」

 十兵衛は今でもその様子を覚えていた。ダンボールに添えられた張り紙と、内側に敷かれたタオルケットは、子猫を身勝手に放棄しつつもどこか気遣っているようだった。

「いや、すまない。なんとなく思い出しただけなんだ」

「ならなぜ足を止めた? 誰かに重ねでもしたか?」

 逆さの男の言葉に十兵衛はギクリと身構えた。十兵衛自身は自覚していなかったが、男の指摘が的を射ていたからだった。

 暗闇の何も見えないその場所に視線を落とす。夜の帳の奥にかつての情景が浮かび上がるようだった。


 その遺骸は虫にも獣にも荒さらておらず原型を保っていたが、もはや生きていないことは一目でわかった。

 全身の毛から艶は剥がれ落ち、パサパサに固まっている。四肢は力なく投げ出され、瞳は何も写していない。

 この猫は独りきり、誰に看取られることもなく、いつの間にか死んだのだ。


「誰に重ねたんだ?」

 逆さの男の声で我に返る。そして思案した。孤独な死を迎えた猫は誰を連想させるのか。

 それは我が子に資産を食いつぶされた母かもしれない。あるいは頼れるはずの兄が富を専有して道を外れざるを得なかった弟かもしれない。

あるいは――。

「誰でもないさ。気のせいだ」消え入りそうな声で答えた。

「誤魔化すなよ。母君か? 弟か? あるいは、君自身か?」

 そう、あるいは母と弟のために目の前にある全てを諦めた自分自身か。


 さらさらと川の流れる音がする。

 月明かりさえ届かない夜の闇に沈み、川の位置はわからない。

 記憶では、河川敷と川の間にもまた段差がありその下を流れているはずだった。

「いっそ踏み込んでみるかね? 楽になれるかもしれんぞ」

 逆さの男が言う。堤防は人の背丈より高い、暗闇で受け身も取らずに落ちればあるいは打ち所が悪いということもあり得るだろう。自身の指先さえ見えない暗闇がその安易な発想に真実味を与えていた。

 だが、やがて十兵衛は首を横に振った。

「……楽になるだけだ。放棄して得る楽は嬉しくない。それに怪我も葬式も金がかかるし」

 逆さの男はそうかいとだけ呟いてそれ以上の追求はしなかった。暗闇に紛れてその表情は見えなかったが、不思議と朗らかな表情を浮かべている気がした。そんな思いつきが気に入って十兵衛自身も笑みを浮かべる。

 振り返り、月明かりに照らされた川路に足を踏み出す。

「なにを笑っているんだ?」

 暗闇から脱した十兵衛の表情を見咎めて男が言う。

「さぁな。お前が死神なんじゃないかと思ったのかもしれん」

「それは、否定よりも肯定のほうがしやすそうな想像だ」

 とぼけた答えに十兵衛は思わず吹き出した。月明かりに照らされた河川敷に、ほんの一時、晴れやかな笑い声が響いた。

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