第4話 小鳥の啄み

 地方都市の片隅、マンション街の一角にマンション「グランデ カラテラ」はある。そこの二階の四号室が十兵衛の自宅であり、エレベーターを降りた二人は慣れた足取りで『榊』と表札の掛けられた一室へと向かっていた。見れば空は茜色に染まり、日暮れが近い。昼でも夜でもない半端な時間、逢魔ヶ時。

 チラリと視界の端に意識を寄せると退屈そうな男の顔がある。出会う魔物がこうでは仔細ないなと十兵衛は密かに感じていた。


 204号室の扉を開き、ただいまと小声でつぶやく。母は仕事に出ているはずで、弟は夜まで出かける用事があると言っていた。だから小声で、儀礼的な挨拶だった。

「おかえり」

 しかし居間の方から返事があった。弟の声だった。靴を脱ぎ居間へ向かえば、果たしてそこに弟の姿があった。

「いたのか。早いな」

「頭、痛くてさ。帰ってきた」

「薬は?」

「そこまでじゃないんだ。でも集中できなくてさ」

 父親が亡くなって以来、弟はたまにこういう事があった。

 ぼんやりして何も手につかなくなるのか目の前のことを投げ出してしまうのだ。

「まぁ、のんびりしとけよ」

 十兵衛はあえて主語を濁した。何を、なぜ、いつまで、無言のやり取りが無数に飛び交う。やがて言葉を落とすように弟は「うん」とだけ答えた。

 か細い返事に頷いて十兵衛は自室へ下がる。

「兄ちゃんっ」

 呼びかける声に足を止めた。意を決したような声色とは裏腹に、弟は姿勢もそのまま、視線をよこすことなく続けた。

「大学、やめんの?」

 弟は相も変わらず視線をこちらに向けない。辞めてほしいという意味か、あるいは辞めないでほしいという意味か、その答えは弟の中にすら存在しないだろう。ただ十兵衛は弟が自分を気遣っているように感じた。

「まだわからん」

 そっか、と息をつくような気の抜けた返事があった。

 会話は終わり。弟は再びぼんやりとどこかを見つめている。十兵衛は今度こそ自室へ下がった。


―――――――


 自室の戸を閉めて一息つく。

 すると、待ってましたと言わんばかりに逆さの男が声をかけてきた。

「辞めるのか?」

 なんの遠慮も呵責もないド直球な一言だった。ここまだ無遠慮だといっそ清々しい気さえしてくるが、残念ながら十兵衛はその問いに対する回答を持ち合わせてはいなかった。

「どうかなぁ」

「休んでいるんだろう?」

「休学してはいるな」

 父親が亡くなってからとりあえず期末を乗り越え、長期休みを挟んだ後に、悩んだが休学の申請をしたのだった。

「なぜ休む?」

「色々とギリギリだからさ」

 例えば金銭的にもそうだった。遺産や様々な手当、保険とこれまでの貯金。母親は心配ないよと笑ったが専業主婦を辞めて働きに出ている。単純な試算を十兵衛自身も行ったが明らかにギリギリだった。なにせ大学の話だけでも十兵衛はまだ途上であり、弟に至ってはこれからだった。

「金、かかるよな」

 十兵衛が休学することについて母親は何も言わない。十兵衛に任せているのか、あるいは密かにリタイアを期待しているのか。おそらく前者だろうが、後者ではないのかと囁く疑心もある。

「遺産など喰い潰してしまうがいいさ。親の本懐は子の立身だろう。二匹の小鳥に骨まで啄まれれば古巣で朽ち果てるのも幸福かもしれんだろう」

「親が子を育てるためだけに生きているならそうかもしれない。でも親だって1人の人間さ。子が巣立ってハイ終わりとはいかないよ」

「だが迷っているんだろう?」

 男の言葉に十兵衛は言葉をつまらせた。その通りだったからだ。十兵衛は今、大学を楽しいと感じている。失うとなれば躊躇うほどに。

 入学まではそうではなかった。むしろやりたいこともないのに大学へ行くくらいなら就職したほうがいいのではとも考えていた。そんな彼を大学へ後押ししたのは他でもない父だった。

『大学でやりたいことなんて入ってから考えろ。とにかく飛び込んでこれからどうするか自由に考えてこい。他のことなんぞ気にするな』

 そう言われて、とにかく入れる中で一番良い大学へ入った。それが地元で、なにより実家から近かったことが入学時点では一番嬉しかったことだ。

 それから一年はただ課題をこなすだけだった。二年目の前期に受けた学科外の授業に惹かれて学部を転向し、それ以来水を得た魚のように転向先の学問を貪って楽しんでいたのが彼だった。

 転向したいと伝えたときに微かに笑んだ父の顔を十兵衛は今でも覚えている。しかしその父はもういない。ならば父の言葉を今度は自分が弟に言ってやるべきなのではないかとも十兵衛は考える。

「弟のため、母のためかね。誰に対して心を配ろうとも最後に向き合うのは自分自身だというのに」

「……そうだな」

 机に置いた書類に視線を送る。

 それは奨学金の臨時の申請書だった。消費はするが抑えるという妥協案がそれだった。現実的なラインのように思えたが、しかし残されたものを消費してしまうことに変わりはない。

「親の肉を啄む小鳥か」

 血なまぐさいイメージは妙に鮮明に頭にこびりついた。

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