第3話 忘却の貴賤

 そして空の墓参りからの帰路。

 自宅のあるマンションの手前に老婆が立ち尽くしていた。しばらく動かないかと思えばきょろきょろと顔を振り、時には地面に手をついてもいる。何かを探している様子だった。

 十兵衛がマンションの入り口に近づくと老婆は囁くように言う。

「気をつけてね。指輪を落としてしまって。どうか踏まないように、お願い」

「ええ、気をつけます」

 十兵衛の返事に老婆は安心したように軽く微笑み、また地面へと視線を向けた。その老婆に視線を時折投げかけつつも十兵衛は歩を進める。

 そして十兵衛がマンションの玄関に入ると逆さの男は問うた。

「冷たいな。指輪を探すのを手伝ってやらないのか?」

「手伝えないんだよ。認知症でね、あのお婆さんが指輪を落としたのはもう何十年も前のことだ。見つけようがないけど、ずっと探してる」

「それはそれは御愁傷様な話だ」

「本人も家族も辛い話さ。仕方ないことだけどね」

 玄関の最奥まで歩いた十兵衛は呼び出したエレベーターに乗り、最上階に向かう。

「家族とは何のことだ? 私はあの老婆の話しかしていない。その指輪を真っ先に忘れてしまえば幸福の中にいられただろうに、とな」

「幸福の邪魔になるなら忘れてしまえばいいって……?」

「君も先ほど墓の前で言っただろう? 悲しみにくれて先に進めないことこそ悲しい、と」

 自身の言葉で返されて少し言葉に詰まる。

「……俺が言ったのは“思い出にする”だ。忘れてしまえとは言ってないぞ」

「しかしなんのためにそうするのかと問えば幸福を得るためだろう。あの老婆は思い出にできなかったから今"ああ"している」

 ポーン、とエレベーターが目的の階への到着を知らせる。扉が開いた先にはさらに扉があり、飾られた表札を見るにマンションのオーナー一家が最上階を改築して住んでいると理解できた。

 十兵衛はエレベーターを降り、表札に隣接するインターホンを押した。しばらくして返事があり、用件を伝える。

「204の榊です。お婆さんが……」

 それだけで理解したらしくインターホンの先が慌ただしくなり、やがて住人が玄関から顔を出した。十兵衛を見るなり、いつもありがとうと声をかけ、そのままエレベーターに乗り込む。

 置いていかれた十兵衛たちは最下層まで降りたエレベーターを呼び出し、待ちぼうけとなる。

「君が連れてくれば手間が減ったろうに」

「無理なんだ。当然だけど、知らない人に手を引かれては怖いらしくてね」

「ふむ、そりゃそうだ」

 そう言って逆さの男は黙る。しばしの無言。

 静寂が場を支配する中、十兵衛は男の視線を感じていた。あえて言葉に出さずに先程の会話の続きを待っているのだ。あの老婆は指輪など忘れてしまったほうが幸福なのではないか、と。

 何も答えなければ男も追求はしないだろうこともまたこの静寂が語っていた。しかし忘れてしまえば幸せだとは十兵衛には思えなかった。

「……きっと、指輪は見つけなきゃいけなかったんだ。そうでなくても納得のいく答えを出さなきゃいけなかった」

「納得ねえ。ではあの老婆にはもう難しいのでないか?」

「そうかもしれない。でも何もかも忘れてしまって最後に幸福が残るとは思えないんだ」

「幸福な記憶だけ残れば幸せではないか?」

「そう都合よく忘れられはしないよ。だから答えが必要なんだ。困難や理不尽に直面したときに自分の納得のいく答えが」

 ポーンと軽快な音がなり、エレベーターの扉が開く。乗り込んで今度は二階に向かわせる。

 全身にむず痒くなるような落下感を得ながら、案内板の数字が下っていくのを見つめる。

「どうしても納得することのできない問題があればどうするんだ?」

 逆さなせいでエレベーターの天井に立っているかに見える男が最後に聞いた。

「それは……、忘れてしまうしかないかもしれない。でも、きっとそれは悲しいことだよ」

「悲しいかね?」

「忘れてしまうのは悲しいよ。たとえ幸せになるためだとしても、納得もされずただ忘れ去られるだけの記憶は悲しい」

 エレベーターは二人を乗せて下降する。やがて目的の階へと到着した。

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