第2話 逆さの男
十兵衛の父が飛行機の墜落事故で亡くなったのは四ヶ月ほど前のことだ。突然のことで親族一同は騒然とし、しかし探せども探せども父の遺体は見つからず、誰のものかもわからない肉片だけが積み重なっていく中で、きっとこれのどれかが"そう"なのだと時間が経過するにつれて誰もが諦めていった。
やがて遺体もないまま葬式の日取りが決まり、執り行われた。静かな葬式だった。誰も涙を流さなかったからだ。死んだのが悲しくないのではなく、死んだとは信じられず困惑していたからだ。ともすれば遺影の裏から当の本人が笑って現れてもその場の誰もが受け入れただろう。
しかしそんな珍事はとうとう起こらず、空の骨壷は冷たい墓石の下におさめられてしまった。死んだという実感は結局得られないまま、処理だけが事務的に過ぎ去ってしまったのだ。
とはいえ、たとえ信じられずとも日々を過ごせば欠けてしまった事実は目の前に突きつけられる。それは母がいつも通りに作った夕飯が1人分多かったり、弟が進路表を渡す相手に戸惑ったり、週末に十兵衛の近況を聞く者がいなかったりだった。その度に彼らは胸の奥にぽっかりと空いた虚に対しなすすべもなく身体を震わせた。そうしてそんなことを繰り返すうちに十兵衛はとうとう涙を流した。俯き、涙を流しながら父はもういないのだと十兵衛は受け入れられたのだ。
その男が現れたのはその時だった。
「人の生涯は動き回る影に過ぎぬ、か。しかし最後は華々しく、それこそ原型すらわからぬほど散ったのだからただ消えてなくなる者共よりは派手な影だったのだろうよ」
声に誘われて十兵衛が視線を上げるとこちらを見上げている男と目が合う。いいや、首こそ持ち上げているが男は視線を地に向けている。そう、男は首を持ち上げることで十兵衛を見下ろしているのだ。すなわち男は天に足を向け、上下が逆さまな状態で宙に浮いている。
十兵衛はその男の姿からタロットの吊るされた男を連想した。刑死者、あるいは死刑囚とも呼ばれるものだ。
呆然と見上げる十兵衛に男はさらに言葉を投げる。
「どうした? 父君が死んで悲しいのだろう?なら泣くといい。死人に届くことはなくとも自己満足にはなる」
端的に、酷いことを言うやつだと十兵衛は思った。しかし不思議と腹は立たない。おかしな状況に感覚が麻痺したのか、あるいは不思議と男の言葉に悪意や侮蔑が感じられなかったからか。
「お、お前はなんだ?」
「なに? 誰ではなく、なに? 見ての通り言葉を話し、人の形をしている。であれば人間と呼べるのではないかと思うが?」
「人間は浮かないし、逆さになる意味もない」
「私は浮くし、逆さにもなる。ただそれだけの話だ。意味などいらない。私はそういう人間だ」
逆さの男が堂々と胸を張って言うせいか妙な説得力があった。そのせいか、疑問は尽きなかったが追求しても無駄なのだと十兵衛はすんなりと理解した。
それ以後、逆さの男は常に十兵衛の近くにいた。なにをするでもなく、ただそばにいて言葉を投げかけるだけだった。どこかの民話にこんな妖怪がいたな、というのが十兵衛の率直な感想だった。
しかし意外だったのは逆さの男は他の人間に認識されているらしいということだった。逆さの男を連れて人混みを歩くと人々は男を避けて歩くのだ。すなわち十兵衛のそばには、人混みの中にも関わらず、人ひとり分の誰にも踏まれない地面が現れることになる。
逆さの男が妖怪か幽霊かと考えていた十兵衛はてっきり他の者には認識されないものと考えていたが、気にされないだけで認識されていると分かり思わず言葉をこぼした。
「お前、本当になんなんだ」
呆気にとられた十兵衛を見るのが面白いのか、にまにまと笑いながら逆さの男は答えた。
「はてさて。あるいは全て君が幻覚を見ているだけかもしれないね」
幻覚自らが言うにはあんまりな言葉だったが、困ったことに最有力説なのだった。
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