三話 消えた絵 1

 小学二年生だった八年前。出口のない不思議なプレハブに入り込んでしまった俺を助けてくれた“あの子”。

 あの子にもらったストラップから、「中町クリニック」という文字が浮かび上がってから、二週間が過ぎていた。

 顔も名前も覚えていないあの子は、医者の娘だというクラスメイトの中町遥に違いない。

 けれども、俺は遥ちゃんに確かめることが出来ずにいた。

 三週間ほど前に転入してきた俺は、隣の席になった遥ちゃんに、真っ先にクジラのストラップを見せた。

 だけど遥ちゃんは首を傾げて「見覚えがある気がする」と言っただけだった。俺のことを忘れてしまっているのか。それとも、隠す必要があるのか。

 どちらにしても、「ストラップをくれたのは遥ちゃんだよね?」と尋ねて、肯定されるとは思えない。

 だから俺は、こうして悶々としているのだ――。

「どうした、ぼうっとして」

「うわっ。なんだ、蒼治郎か」

 温かい日差しを浴びながら、中庭のベンチに座っていると、新開蒼治郎が背後から話しかけてきた。大きな図体のくせに気配がないので、よく驚かされる。

「ちょっと考え事」

「ストラップのことか?」

 うっ、するどい。

 しかしストラップの話をすると、持ち主が遥ちゃんだったことも話さなければいけなくなる。ここは話を変えよう。

 考えてみると、短期間の間に事件のようなことが二つ起きて、どちらも蒼治郎が解決した。もしかして、出口のないプレハブからどうやって出たのか、蒼治郎ならわかるかもしれない。

 そう考えて、俺は蒼治郎にプレハブの説明をしてみた。

「そのプレハブに心当たりがある」

「ええっ、本当に?」

 期待値を上回る返事だった。

「プレハブの場所を知ってるの?」

 驚く俺に、蒼治郎は無表情でこくりとうなずいた。

「案内しようか」

「えっと、どうしよう」

 ストラップの持ち主に続いて、プレハブの場所までわかりそうだ。

 遥ちゃんと一緒にプレハブに行けば、八年前のことを思い出してくれるだろうか。

 でも、それでも思い出してくれなかったら……。

 しばらく立ち直れないかもしれない。

 ここにきて、俺は怖気づいてしまった。

「連れて行ってほしいんだけど、ちょっと待って。心の準備が出来てからにしたい」

「心の準備?」

 蒼治郎は首をかしげる。

「ストラップをくれた人の目星はついているんだけど、その人に、どう声をかけていいのか……」

 蒼治郎は意味がわからないとでも言うように眉を寄せた。

 なんと説明しようか迷っていると、遠慮がちな足音が聞こえてきた。

「昴クン、蒼治郎クン」

 舌っ足らずな、独特のイントネーションで声を掛けられる。俺が見下ろすことのできる貴重なクラスメイト、身長百四十八センチの薄井幸子だ。

 俺は身長に拘るあまり、見ただけで人の身長がわかるようになっている。

「あの、お願いが……」

「ん? ごめん、もう一回言って」

 俺は立ち上がり、幸子ちゃんに顔を近づけた。極度の小声で、耳を澄ませないと聞こえない。

「二人に、お願いがあるの」


 文化部の部室棟の一階にある美術部にやって来た。幸子ちゃんが所属するクラブだ。特別棟にある美術室とは別の部屋だった。

 幸子ちゃんが南京錠を開ける。掛金を外してドアを開けてから、錠をスカートのポケットに入れた。

「……ん?」

 その開け方に違和感があったのだけど、理由はわからなかった。

 部屋に入ると、木炭と油絵の具の独特の匂いがする。一番ツンとする匂いは、揮発製油のテレピンだろう。床がベタベタすると思ったら、絵の具類でかなり汚れていた。

 部室棟は旧校舎を使っているので、授業を受けている教室と同じ広さだ。壁際にはメタルラックが設置され、いくつもの石膏像が並んでいた。

 窓際には俺より五センチほど低い棚が置かれていた。窓の下数十センチを塞いでいるものの、鍵は隠れていないので、窓の開閉に支障はない。ただし、カーテンは年中開けっ放しのようだ。この棚にはキャンバスや額が大量に入っている。持ち帰らなかった卒業生の作品かもしれない。

 窓の外を覗いてみると、学校の外周を囲むフェンスが見えた。その奥は住宅街だ。部室棟は学校の敷地の端に位置している。

「これが、文化祭に出展された絵なんだね」

 低い棚の前には、イーゼルに乗せられた絵が、直線上にズラリと並べられている。描かれているのは風景だったり、人物だったりとさまざま。キャンバスの大きさも、使用された画材にも統一性はない。

 ただその中で、絵の乗っていないイーゼルがひとつだけ混ざっていた。

「あたしが出品した絵が、なくなって、いて」

 幸子ちゃんは悲しそうな顔で俯いた。

 幸子ちゃんは文化祭でミッチーこと有馬道隆に注意されてから、丸めていた背を伸ばして薄化粧をし、髪も上げるようになった。相変わらず伊達眼鏡をかけているけれど、充分可愛い。

 それまで幸子ちゃんは、怯えるように背を丸めて、前髪で顔を隠して生活していた。せっかく前向きになった幸子ちゃんの絵を、何者かが盗んだらしい。

「見つけて、ください」

 幸子ちゃんは頭を下げた。


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