二話 剣を失ったスパルタカス 7

 芝居を止めた女生徒は、体育館に並べたパイプ椅子の最前列の客席から立ち上がった。そしてスカートとウェーブのかかった栗色の髪を翻して、ひらりと舞台に上がる。

「あっ、部長さんだ」

 部長さんは猫のような瞳と細い眉を吊り上げて、こめかみに青筋を浮かべていた。遥ちゃんの兄に、手にしている丸めた台本を突きつける。

「中町! 寸止めが出来ないのは目を瞑るとして、開演直前になんで間違えるんだ!」

 どうやら、殺陣の手順を間違えて親友役を斬りつけてしまったようだ。

「苦手なところを返してるんだから、失敗もするさ。だいたい殺陣が長いんだよね。本番では上手くやるよ」

 中町さんは意に介さず、肩をすくめた。

「部長、これ片づけておいて。本番まで休憩するから」

 中町さんは舞台に上がった部長さんに剣を押し付けた。

「遥、遅かったじゃないか! 袖に来てくれ」

 俺たちがいることに気づいていたようだ。中町さんは舞台上から体育館の端にいた妹を呼んで、舞台の袖に入ってしまった。

「こら中町、自分で片づけろといつも言ってるだろう! ……ったく、勝手なんだから。きみ、腹は大丈夫か?」

「前にもやられたから、腹に雑誌をくくりつけてる。それでも痛いけど」

「苦労させているな。きみの斧もついでに片づけてやる。そこっ、もう客入れの時間だから、舞台の幕下ろして!」

 部長さんは親友役の人から斧を受け取ると、中町さんが去った上手の袖に向かいながら指示した。すると舞台の緞帳が下がってくる。

「やだ、お兄ちゃんったら、部活でもあんな態度なのね」

「どうかした?」

 遥ちゃんを見ると、怒ったように瞳をとがらせていた。

「お兄ちゃんは、自分が面倒だと思うことは、小さな用事でも人に押しつけるの。好きなことには人一倍集中するんだけどね。基本的に非を認めないし、今のやりとりだけで周囲に迷惑をかけてるって確信したよ。あとで演劇部のみなさんに謝りに行かなきゃ」

 遥ちゃんはため息をついて、舞台に向かって歩き出した。俺たちも後に続く。

 舞台脇の階段から上がり、大道具や小道具が雑然と置かれている袖に来た。演劇部の道具のせいだろう、普段の体育館の埃っぽい匂いの他に、木やペンキの匂いがする。舞台と違って袖は明かりが点いておらず、薄暗かった。

「お湯を持って来てくれたんだね、助かるよ。そこのたらいの中に入れてくれる?」

 中町さんはタオルを手にしながら、やかんを持っているミッチーに向かって言った。ステンレス製と思われるたらいは床に置いてあって、新品のようにピカピカだ。

 すぐ隣に武器を立てかける場所があり、二十本ほどの槍と、一本ずつ剣と斧があった。この剣と斧は、さっきまで芝居で使われていたものだろう。木で作られているのかプラスティック素材なのかわからないけど、本物の金属のように見えた。

「このやかん、まだ熱くて危ないから、外に置いてくるよ」

 たらいに全てのお湯を注ぎ終わったミッチーは、やかんを持って体育館から出て行った。

「重い鎧を着て動くから、暑いし蒸れるし、嫌になるよね。俺はこの脚本、初めから反対だったんだけどさ」

 中町さんは俺たちに背を向けて、たらいに向かって中腰になった。膝丈まである青いマントが床につく。中町さんは背が高いので、同じマントを俺が付けたら、直立していてもマントが床を擦りそうだ。

 ……ううむ、どうしても思考が身長に寄ってしまう。

 俺は眉間を指で押さえた。因みに中町さんの身長は、百七十九センチ。

「ああ、ごり押しして申し訳なかったな」

 凛としたアルトの声がしたほうに顔を向けると、部長さんが引きつった笑顔を浮かべて、仁王立ちになっていた。

「いやいや、誰も部長には逆らえないからね」

 中町さんは、部長さんに視線だけ送ってにっこりと微笑んだ。

「ここぞとばかりに男も女も半裸にさせる、潤色兼監督ってどうなのかなあ」

 大袈裟に言っているだけだろうけど、俺は「えっ、女性も半裸なの?」とドキリとしてしまった。

「観客の欲しがるものを与えるのが、舞台監督の仕事だ。成長途上にある未成熟な果実のような高校生の肉体。私たちに若さとエネルギー、そして背徳とエロスが共存するのは、ほんの一瞬だ。その輝きを見せずに、なにを舞台で見せるというのかっ!」

 ビシッと部長さんが、丸めた台本を中町さんに突き立てた。

 うわっ、半裸を否定しないどころか、俺たちの身体についておかしな表現をしてる。

 ――どうやら部長さんも、ちょっと変わった人らしい。

「そもそも中町は、鍛えた身体を見せるのが好きだろう」

 ふんと鼻で笑った部長さんは、キュッキュと上履きを鳴らして中町さんに近づき、マントを取り、鎧の両サイドにある留め金を外した。前後にパカリと取れる鎧を、部長さんは両手で受け止める。湿ったTシャツが中町さんの身体に張り付いていた。

「いやあ、軽くなった」

 立ち上がりながら振り返った中町さんがTシャツを脱ぐと、見事に盛り上がった胸筋と六つに割れた腹筋が現れた。

 すごい。腕も太腿も、俺の二倍くらいありそうだ。

「ありがとう、極楽だよ」

 たらいに浸し、湯気の立ったタオルを頬に当てると、中町さんは気持ちよさそうに目を閉じた。この際に、遥ちゃんは中町さんに俺たちを紹介して、芝居の立ち見の許しをもらった。

「お兄ちゃん、お化粧取れちゃうんじゃない?」

 遥ちゃんが尋ねると、中町さんは「大丈夫」と言って、タオルで身体を拭き始めた。

「これくらいじゃドーランは取れないから。メイク直すしな」

「ドーランって?」

「舞台用の化粧品のことよ」

 俺の疑問に、遥ちゃんが答えてくれた。

 そんな話をしていると、ミッチーが舞台袖に戻ってきた。

「遅かったね」

「外にやかんを置いても、知らずに触る人がいるかもしれないだろ。だから、水道水で冷やしてきた」

 さすが気配りのミッチー。

「あれ、ないな」

 そんなことを言いながら、スパルタカスの親友役がウロウロしている。

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