二話 剣を失ったスパルタカス 5

「休憩、だぁ!」

 パーティションの裏で、俺はドッカと椅子に座って伸びをした。疲れた。三時間働きどおしだった。

 Yシャツの中に着ていたTシャツが汗に濡れて気持ち悪いので、予備に持っていたTシャツに替えた。

 とはいえ、俺より疲れているのは、どう考えても表に立っているバトラーやメイドだろう。メニューを聞いて配膳しながら、撮影のリクエストにも笑顔で対応していた。

 ……笑顔ができないメイドとバトラーが一人ずついたけど。それはそれで客は楽しんでいるようだった。

「お疲れ、昴。ここじゃ邪魔になるし、どっかで休まねえ?」

 バトラー服から制服に戻っているミッチーが声をかけてきた。午前中クラスの出し物を担当した者は、午後はフリータイムなのだ。

「涼しければ、どこでもいいって気分」

「じゃあ、お化け屋敷かな」

 俺の心からの叫びを、ミッチーはニヤニヤしながら混ぜ返した。残念ながら、俺はお化けは怖くない。

 そのとき、大きなやかんを持った遥ちゃんが教室を出ようとしているのが視界に入った。遥ちゃんも既に制服だ。ちょっと残念。

「遥ちゃん、やかんなんか持って、どこに行くの?」

「ああ、これ」

 遥ちゃんは周囲に注意しながら振り返る。

「お兄ちゃんに頼まれたの。身体を拭きたいから、お湯を持って来てくれって」

 残暑でまだ暑いのだから、水道水でいいと思うけれど。でも確かに、蒸しタオルで顔を拭くと気持ちがいい。汗をかいた今、温かいタオルで身体を拭くのも悪くないと想像した。

「どこに持って行くの?」

「演劇部だよ。お兄ちゃんは副部長で、今回の演目では主役なんだ」

 遥ちゃんは嬉しそうだ。今朝、やけに演劇部の内部事情に詳しいと思ったけど、兄が演劇部だったのか。

「それ、俺もついて行っていいかな?」

 あの猫目美人の部長に会えるかもしれない。それに、全国区だという演劇部の芝居にも興味がある。

「いいよ。立ち見だったら観劇できると思う。実はお兄ちゃんのお芝居、ちゃんと見たことがなかったの。お湯を持って行ったら観てもいいって言ってたから、一緒に観ようよ」

「やったね! 行く」

 部長に会うチャンスは、意外に早くやってきた。

「ってことでミッチー、俺、遥ちゃんについていくよ」

「じゃあオレも行こうかな。こういう機会でもないと観られそうもないし。蒼治郎も行く?」

 ミッチーは、いつの間にか近くにいた蒼治郎に声をかけた。蒼治郎も制服に戻っている。みんな着替えるの早いな。

「行く。やることがないから、本でも読もうと思っていた」

 蒼治郎は即答した。

 読書ってなんだ。もっと文化祭を楽しめよ。

「幸子はどうする?」

「あ、あたしは、部活に行く。声をかけてくれて、ありがと」

 眼鏡をかけた制服姿の幸子ちゃんは、いつものように俯き気味に答えた。ただし、背筋は伸びているし、化粧と髪は、ミッチーがセットしたままだった。

「美術部に行くのね」

 遥ちゃんの言葉に、幸子ちゃんはうなずいた。

「展示会をしてるの。あたしのも、ある」

 幸子ちゃんは美術部に所属しているようだ。服を作ったり美術作品を作ったり、器用なんだな。

「いけない、早く行かなきゃ冷めちゃう! 熱いお湯を持って来てくれって言われてるのよ」

 慌てる遥ちゃんの手から、ミッチーがヒョイとやかんを取った。 

「オレが持つよ。これ、十リットルくらい入ってるだろ」

「ありがとう、重かったんだ」

 遥ちゃんはにっこりと微笑んだ。

 しまった、俺が持てばよかった。ミッチーは、こういうことが自然にできてしまうところが凄い。

「演目はなに?」

 演劇部が公演するという体育館に向かいながら、遥ちゃんに尋ねる。

「『スパルタカス』だよ」

「スパルタカス……。なんか、歴史で習ったような気がする」

「スパルタクスの反乱と称される、第三次奴隷戦争の指導者の名だ。紀元前七十年代の戦争。スパルタクスはラテン語、スパルタカスは英語の発音」

 俺が思い出そうとしていたら、スラスラと蒼治郎が答えた。

「ローマ軍の奴隷は、過酷な労働や、剣闘士奴隷としてコロシアムで殺し合いを強いられた。そんな情勢の中、スパルタカスを含めた剣闘士奴隷たちが施設から脱走し、ローマ軍と戦えるほど勢力を拡大させる。ローマ軍は手こずるが、最終的には奴隷軍を鎮圧した。スパルタカスはその戦いで戦死したと伝えられている」

「なんでそこまで知ってるの? 歴史オタク? 古代ローマが好き?」

 俺は驚いて蒼治郎に尋ねた。

「教科書に書いてあった」

 俺は軽く眉間にしわを寄せて、蒼治郎を見上げた。

「つまり、教科書に書いてあったことを丸暗記してるってこと?」

「一度読んだものは、基本的に忘れない」

 蒼治郎は表情すら変えず、さも当然という様子だ。

「そんな、まさか」

 俺が笑い飛ばそうとすると、ミッチーはイヤイヤと手と首を振った。

「蒼治郎はこの学校、主席合格だぞ」

 え。

「一学期の学期末、満点だったわよね」

 ええっ!

 遥ちゃんまでそう言うのなら、本当なのだろ。

 暗記だけで満点は取れないだろう。ということは、記憶力がいい上に学力もあるのか。最強か。

「忘れないことが特殊なことだと知ったのは、数年前だ」

 マジか。なんだそのチート能力は!

 俺は淡々と話す蒼治郎をまじまじと見てしまった。顔よし、頭よし、そして、この高身長。それで、欠点は虫嫌いってだけなのだろうか。

 神様は不公平だ! 俺にももっと身長をよこせ!

「昴くん、大丈夫? 顔が赤いけど」

「あはは、なんでもない」

 即座に取り繕った笑顔を遥ちゃんに向けた。俺としたことが、怒りで頭に血が上っていたようだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る