一話 文化祭前夜の窃盗事件 1
ピピピッ。
朝六時を知らせるアラームを止めるために、俺はベッドサイドに置いてあるスマートフォンに腕を伸ばした。ついでにスマホを手にしたまま「うーん」と伸びをする。
「久しぶりに、あの夢を見たな」
名前も顔も覚えていない“あの子”。
ライトに浮かんだ真っ白なワンピースが印象的で、すごく可愛い女の子だった、ような気がする。髪が長かったのか短かったのかさえ思い出せないけど。
だから夢に出てくるあの子は、その時々で、お気に入りのアイドルや女優の容姿に影響を受けていた。
父が銀行員で、特に俺が中学に上がるくらいまでは転勤が多かった。行員の転勤は最短二年と言われているそうだけど、支店が増えただの、トラブルが起きただので、俺はこれまで六回の引っ越しにつき合わされた。
住む場所が変わることは、相当なストレスになる。心が折れそうになっていた頃、あの子と会った。
小学二年生の時は親に気を使って、不満を言い出せずにいた。でも子供ながらに、いや、子供の狭いコミュニティだからこそ、人間関係に疲れて、内心荒れていた。それが徐々に態度に表れ始めていた。
でも、あの子と話をして、俺は変わった。
内容は覚えていないけど、随分と励まされ、勇気づけられた。
あの子に会っていなければ非行に走り、まともな学校生活を送っていなかったかもしれない。そういう意味でも、あの子は恩人だった。
「結局あの部屋から、どうやって出たんだっけな」
不思議なプレハブだった。
六畳以上ある小屋に、窓はともかく、ドアノブがないのは不自然だ。異常といっていいだろう。穴でも開いていればドアノブが壊れて取れてしまったのだと思うけど、そもそもの造りとして、存在しなかったのだ。
誰が、何のために建てたのだろうか。
そして俺とあの子は、どうやってプレハブから出たのだろう。
すっかり忘れてしまった。
「せめてあの子の名前くらい覚えていれば、確かめようもあるのに」
手にしたスマホには、クジラのストラップがぶら下がっている。
八年前のあの夜、俺の家の近くまで、あの子は送ってくれた。
引っ越しを控えていた俺は、もう二度とあの子に会えなくなると思って、別れがたかった。それを察したあの子は、自分のスマホについていたストラップを俺に差し出して、こう言った。
「落ち着いたら会いに来て」
だからこのクジラには、あの子の住所か電話番号が書いてあるのかと思った。
だけど、手の平サイズの丸っこいクジラには、文字も、場所を特定するようなものも、なにも書かれていなかった。その場で確認しなかったことを、今でも後悔している。
もしかしたら、クジラ自体に意味があるのかもしれない。だけどそれは、八年経った今でもわかっていない。
いつかあの子に会えると信じて、クジラはスマホと一緒に、ずっと身に着けている。
あの子はどんな風に成長しているのだろうか。きっと美人になっているに違いない。
「会えたら、いいよな……」
クジラのストラップを改めて見る。
鼻先が平らで、全体的に丸く愛らしいフォルムのそれは、八年持ち歩いているので、鮮やかだったブルーが少し色あせていた。
「よし、勉強するか」
朝六時に起きて、一時間ほど勉強するのが日課だ。あの子は頭が良かった印象があるから、学力を上げることも、あの子に近づく方法だと思って努力していた。
俺は居心地のいいベッドから、思い切って滑り下りた。
「イテッ」
まだ片付けが終わっていない段ボールに、足の小指をぶつけてしまって、涙目になる。なぜいつも当たるのはか弱い小指なんだろう。痛い。
足をぶらぶらさせながら、クローゼットから制服を取り出した。まだ袖を通していない新品だ。
半年ほど前。高校に入学して数か月後、父に転勤の辞令が出た。
引っ越しにうんざりしていたので、その地で一人暮らしをしようと思ったのだけど、転勤先を聞いて考えを改めた。
――行き先は、あの子に会った、あの土地だったのだ。
俺は高校一年の二学期から、新しい学校に編入することになった。
それが、今日だ。
だから、あの夢を見たんだと思う。
この町にはきっと、あの子が住んでいる。
あの子に再会できるに違いない。
そんな期待に、胸を膨らませていた。
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