五話

「なあ、晴乃」

徐に同僚が口を開いた。

「ミケランジェロって知ってるか?」

「ミケランジェロ?」

唐突な話題に一瞬戸惑う晴乃だったが、

「イタリアのルネサンス期の彫刻家だっけ?」

と、はるか昔に学校で習った記憶の引出しを抉じ開ける。

「そう、それそれ」

同僚が首を二回縦に振った。


「ミケランジェロ・ブオナローティって言って、彫刻家でもあり、画家でもあり、建築家でもあり、詩人でもある人なんだ。・・・まぁ、それは良いとして、そのミケランジェロが残した言葉があるんだ」

「ふうん。名言みたいなもの?」

晴乃は訊いた。


「そうそう。で、その名言ってのがさ、

『私は大理石を彫刻する時、着想を持たない。石自体が彫るべき形の極限を見定めているからだ。だから、彫刻を行う私の手は、その形を石の中から取り出してやるだけに過ぎない』

ってわけ」


「・・・へえ、面白いね」



 ゆっくりと頷きながら、晴乃が同僚の言葉を咀嚼、反芻する。

「つまりさ、ミケランジェロは、『極限の形』は考えてから彫るのではなく、すでに石の中に運命として『内在している』と、こう主張したわけだ」

 一通り話し終えた同僚は、再びX・Y・Zを口にした。

「なるほど。歴史に名を残すような人が言うと、すごく説得力があるね」


晴乃は腕を組み、それで、と続ける。

「俺に伝えたかった事というのは?」



「俺が言いたかったのは、」

同僚がワザと間を取る。晴乃は苦笑いを浮かべた。

「モノは考えようだ、ってこと」

「・・・はあ」


晴乃はいまいち釈然としない。そんな彼の様子を察してか、健史先生は話を続けた。

「お前とその彼女の過去、それと彼女自身の過去に何があったのかは知らない。ただ俺は、大事なのは未来だと思っている。人間の織りなす全ての現象が、すでに運命として『内在している』のだとすれば、もはや成るようにしかならない。だったら責めて、運命を前向きに信じ、物事を前向きに捉えて生きていく方が、人生の価値が高まるんじゃね?」

悲観的にならずにな。と、元同僚は補足した。


「・・・なるほど」

健史先生の言いたいことが少しずつ分かってきた。



「過去に起きてしまったことは、どうしたって取り返しがつかない。だったら、未来に目を向けて晴乃が彼女を変えてやれ」

 前向きな意志を以て。と、同僚は話し終えると、グラスの中のX・Y・Zを一気に飲み干した。



 しばらくの間、晴乃と同僚の二人は言葉を交わさなかった。うす暗くも心地の良い店内の空間が、美しきピアノの旋律によって満たされ、晴乃達を優しく包み込んだ。


「ありがとう、健史先生。本当に・・・。それしか言う言葉が見つからない」


 晴乃は同僚に向かって礼を述べた。それは、とても素直な気持ちからの謝辞だった。

「いえいえ。何度も言うけどさ、自分に素直になるのが一番だって」

 かつての同僚は、照れ隠しのためか鼻の下を擦すっていた。



 ところで、と晴乃はふと思いついた顔になる。

「結婚生活は順調?健史先生」

「順調であり、山あり谷ありってカンジです」

「そうですか」

「授かり婚で若くして結婚しちゃったからね。子育ては大変だよ。・・・いや、親って本当にスゲーよ」

「そうですか」

「うちの奥さん、付き合ってる時に語ってくれた夢があってさ」

「へえ。どんな?」

「『あたし、結婚したら子供三人産んで、毎日ダラダラ過ごすのが夢なの』だそうです」

「素敵じゃん。健史先生の奥さんの夢は叶いそう?」

「・・・毎日四苦八苦してるけど、邁進中のハズです」

きっとね。と、かつての同僚は締めくくった。

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