十八話

 ふと気がつくと、いつも間にか信号が変わり、今度は晴乃の左側で車の往来が激しくなっていた。自分の気持ちに素直になれ。元同僚はそう言った。晴乃は腕を組み、考えてみた。

 

 ところが彼は、すぐにその腕を解き、雲一つとない天を仰いだ。

 

 考えるまでもなかった。晴乃の中で分かっていることは、実にシンプルだった。

 これから会う人のことを、まだ好きでいるという事だ。例え、彼女のことをよく知らなくても。初めて彼自身をさらけ出すことのできた彼女のことが。晴乃自身を受け入れ、いつも耳を傾けてくれた彼女のことが。


 理解者とは、相手のことを想い続け、分かろうとする努力を続ける者のことである。自身で定義した相手の特徴を、日々更新を交えながらも、受け入れられる者こそが、理解者である。


 では、最上の理解者とは?


 理解者であり、なお且つ更にその上を行く、最上の真の理解者とは何か。晴乃は、今のこの瞬間、その答えに到達することができたのだった。

 

 

 歩行者用の信号が赤から青に変わる。晴乃は真っ直ぐと前に向かって歩き出した。もはや彼の足取りに迷いはなかった。駅前の交差点を行き交う全ての人間が、それぞれの目的を持ち、目的を果たすためにそれぞれの場所へ。


 彼女と会うのは、実に五年ぶり。早く、彼女に逢いたかった。駅の大きな入口をくぐると、エスカレータが階上へと伸びていた。緊張する気持ちをも認めながら、晴乃はエスカレータへと乗り込み、待ち合わせの改札口へと進む。

 改札の前へと辿り着くと、晴乃は、再び腕時計に目をやった。新幹線の到着予定時刻まで後、二、三分。携帯でも時間を確認した。



「お父さん、ちょっと待って」

 青いパーカーを着た男の子が、父親らしき人物の方へと走っていく。ちょうど晴乃の前を走り去ろうとした時、男の子は何かに躓いて転んでしまった。

「立てるか?」

晴乃が男の子に手を差し出した。

 

 男の子はニコリとしながら頷くと、晴乃の手を取る。どうもありがとう。そう言うと、急いで父親の待つ方へと走り去って行った。

 ちょうどその時、晴乃の頭上で轟音が鳴り響く。新幹線が駅のホームへと到着した音だった。晴乃は腕を組んで、俯き加減になった。第一声は何て声をかけようか。今になってそんなことを悩み出す自分が、少し可笑しかった。


 ふと視線を改札の奥へと向けると、晴乃の方へと向かってくる彼女と目が合った。彼女は黒のニットのワンピースに身を包み、膝から下も、やはり黒のレギンス姿だった。赤のパンプスを履き、赤のストールを首からかけ、右肩にはバッグを抱えている。

 晴乃は、黒に身を包まれる彼女と、色白の肌を持つ彼女とのコンストラクトを、とても懐かしく思った。五年前と何も変わっていない。強いて言えば、少し痩せたくらいだろうか。

 彼は彼女に向かって手を上げていた。相手も、晴乃の存在に気付いたようだ。彼女は改札を通り抜けると、晴乃の方へと真っ直ぐに歩みを進めた。


「よお、」

晴乃は、を呼ぶと、

「久しぶり」

と、笑顔で言った。も笑顔で応じる。

「何か痩せたじゃん。ダイエットしたの?」

「いや、もともとだし」


 彼が、どこか照れくさそうに視線を逸らした。この時、は、自分の胸の奥底から、得体の知れない何かが少しずつ湧きあがってくるのを認めた。言葉を発しようとしたのだけれど、声が、出ない。


どうしたんだろう?


 彼が、戸惑いと心配の混じった顔を浮かべていたようだけれど、の視界は流れ、モザイクがかかったようだった。涙が溢れ出てくる。


どうしてだろう?


こんな事は、予想していない。予感さえもなかった。

それなのに、どうして?


『普通』に、戻れたから?・・・何を言っているのかしら。は至って、『普通』だ。


 最初から。

 生まれた時から。

 小学校の前も。

 その後も。

 それなのに。それなのに。

 

 そして、沈黙。

 彼と、を包む沈黙。

 


 憎むためじゃないでしょ?

 誰かのために今日も笑うの?

 叫び生きろ

 私は生きてる



 そして、沈黙は崩壊した。

「今度は・・・、今度は、あ、あたしが」

嗚咽を漏らしながら、ようやくそれだけ言えた。

「晴乃に、告白します」


一本の太い線が左の頬を伝わる。


「だから・・・、あたしと結婚して下さい」


 彼の前で、は大粒の涙を流していた。彼の前で泣くのは、これが二度目だった。

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