十七話

 遥は腕時計に目をやる。晴乃も反射的にそれに倣ってしまった。社会人というステータスを見に纏うようになったせいだろうか。

 彼女が、何故従姉の話を持ち出してきたのか、その意図はよく分からなかったが、彼女、西野遥は優しい女性であることを改めて感じていた。話し方や素振り、表情から、彼女の内面が窺える。


「ごめん、もうこんな時間だね。なんか最後は重い話になっちゃってごめんなさい。今日はお付き合い頂きまして、どうもありがとうございました」

彼女はペコリとお辞儀した。

「いえいえ。どう致しましてです」

またも晴乃は遥に倣い、お辞儀した。

 それから彼は、静かに口を開く。

「人はきっと・・・」

恥ずかしさを紛らわすためか、空っぽになったはずのグラスの中身を再び飲み干した。

「失ったことにさえ気が付かないまま、生きてるんだよ。ただ、お従姉ねえさんの場合は、それがはっきりとしていて。同期の皆が持ってるような『普通』の感覚みたいなものが失われてしまって。何とか取り戻したいと思っても、どうして良いのか分からない。葛藤しながら、もがきながらも頑張って生きてるんじゃない?」

晴乃の顔を見つめていた遥の瞳が、次第に潤んでいく。


「西野さんは、優しい人なんだね」

晴乃は言い添えた。



 ところが、遥は下を向いたまま俯いてしまった。髪の毛に覆われ、表情が読めない。

「ごめん、何か俺、気に障ること言っちゃった?」

晴乃は慌てて訊いた。彼女は首を横に振る。

「ううん、何でもない」

彼女は顔を上げ、どうもありがとう、と笑顔で言った。


「晴乃ってさ」

「何?」

「大事な事を言おうとする時、間を空けるよね。意識的?」

「・・・え、そうかな?ごめん」

「ふふ。謝らなくて良いよ。晴乃君の特徴をまた一つ学習させて頂きました」

「それとさ、さっきはあたしのこと『遥さん』て呼んだのに、また『西野』さんに戻ったね」

「あ・・・」

「『遥』で良いよ。他の同期も下の名前で呼んでくれてるし」

晴乃と今井ちゃんくらいだよね。あたしを上の名前で呼ぶの。そう言うと、彼女はグラスを手に取り残っていたソーダ割を口へと運んだ。


「じゃあ、今日はもう遅いし帰りましょー! 明日も研修頑張ろうね」

遥が荷物を取り席から立ち上がる。

「了解っす」

晴乃は勢いよく席から立ち上がった。





 晴乃は、駅の近くにあるパーキングにフォレスターを停めた。腕時計に目をやる。新幹線の到着まで後十五分といったところか。彼は、駅に向かって歩き出す。何度も訪れ、見慣れたはずの景色がいつもと変わって見える。

 ポケットの中の携帯が鳴った。アプリでメッセージを受信したようだ。送り主は、学生時代に塾講師のバイトで一緒だった元同僚だった。

 彼とは社会人となった今でも親しく付き合いを続けている。一昨日も一緒にお酒を飲んでいた。肴は終始、今日、これから起こるであろう未来について、だった。



『お前のことだから、きっと緊張してんだろ? とにかく、自分の気持ちに素直になれ』



 緊張が幾らか緩む。仕事の合間を縫ってメッセージを寄こしてくれた元同僚の気持ちが嬉しかった。

 スクランブル交差点の信号がちょうど赤に変わった。晴乃の目の前を無数の車が走り去って行く。彼は、今日、これから会う人物について想いを巡らせた。

 一体自分は、彼女の何を知っているのだろう。自身についての核心を、何も語ることのなかった彼女の何を理解できていたというのか?


 再会目前のさなか、ふとそんな疑問が彼の脳裏をよぎっていた。

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