16年前

 始業のチャイムが鳴る。担任の先生が席に着くよう促すが、教室は未だそこかしこで喋り声が聞こえた。

 朗らかな朝の陽気と小学校。活気で満ちた教室で黛一糸は静かに席に着いていた。少し俯き気味な姿勢で、ただ周りが静かになるまで待っている。だが、しばらくしても教室は静かにならない。

 「コウ君、早く座ってくださいね。それでは朝の会を始めます」

 お調子者が最後に席に着いたのを確認して朝礼が始まった。けど、周りではまだコソコソと喋り声が聞こえる。黛一糸は誰とも喋ることなく、ただ教師のことを見ていた。

 その日の早朝、学校の校門が開いてすぐにそこをくぐり、教室にいち早く入ったにも関わらず、黛一糸はクラスの殆ど誰とも喋らなかった。ただ、続々と児童が登校し空っぽの教室が満たされていく光景を見ていた。

 特にいじめがあったわけではない。黛一糸は入学してすぐにできた友達とゆっくり付き合いが薄くなり、気付けばクラスで特別仲のいい友人の名を挙げることが難しいほど孤立してしまった。

 黛一糸本人もそれに構うことはなかったし、クラスの生徒に悪意があったわけではなかったから、話しかけられれば話す。その程度の関係はあった。

 実際、黛一糸がおはようと挨拶をしたら彼らも笑顔でおはようと返した。

 ただそれ以上でもそれ以下でも、なかった。

 黛一糸は人付き合いを嫌っていたわけではないが、本人も意識していないどこかで彼が家庭内で虐待を受けていたことが、その頃の黛一糸の対人意識になんらかの影響を与えていたのかもしれない。

 

 学校が終わり、黛一糸は少し遠回りして家の前まで辿り着いた。

 黛一糸の家は豪邸と呼んで差し支えないほど大きい。建設会社やその他のビジネスにも手をつけている黛一糸の父はこの辺りでよく知られた資産家である。けれど、黛家の家庭内事情は知られていない。

 日本家屋的趣がある家の前で黛一糸は家を見上げて立っていた。

 黛一糸は朝から今日の母さんの機嫌が悪かったから朝ごはんを作ってもらえなかったことを思い返した。まだ機嫌が悪かったらどうしよう、痛いことをされるかもしれないと思うと、ドアに伸ばす手が震えた。

 意を決して家に入ると、奥からバタバタ足音が聞こえた。咄嗟に身を竦める。でも笑顔を見た瞬間に黛一糸は顔を綻ばせた。

 「あらおかえりなさい。お父さまが出張から帰ってきた時に頂いたクッキーとお茶でも飲む?」

 「ただいま。ありがとう、クッキー食べたいな」

 黛一糸は安心して家に入った。奥から出てきた女性は白いワンピースに薄化粧をしている。一度部屋に帰ってランドセルを置いてからリビングに下りると、そこには黛一糸の父親がいた。

 「ただいま…」

 「ああ、おかえり」

 彼はソファに腰掛けていた。クッキーを口に運びながらテレビを見ていて、チラリと黛一糸の方を見てからまたすぐテレビの方に視線を戻してしまった。

 黛一糸もテーブルの椅子を引いて腰を下ろす。

 和風な外観に比べて、リビングは洋風な物で統一されている。壁には絵画が掛かっていて、テーブルの上の花瓶には花が植っている。

 「はい、クッキーですよ」

 「ありがとう」

 席に着いた黛一糸の前にクッキーが置かれる。

 「美味しい」「それは良かった」黛一糸の漏らした独り言のような言葉に起伏のない声で黛一糸の父親は言った。ほろりと口の中で砕ける卵のような色味のクッキーは、食べてみても卵の風味を強く感じさせた。

 お母さんはどこだろうと黛一糸は部屋を見渡すと、キッチンの方から湯気の立ったティーカップを持ってくるところだった。

 「ありがとう」

 ティーカップを前にして黛一糸は笑顔で感謝を告げる。そして、このように僕とお母さんと父さんの三人で団欒できる時間がずっと続いたら良いのにと思った。

 けれど、黛一糸の腹の痣と、笑顔で黛一糸に向かい合う女性の傷ついた全身はそうならないことを静かに暗示していた。


 その晩、黛一糸は唐突に布団を揺さぶられ、起こされた。

 「はやく起きなさい。起きなきゃぶつわよ」

 明るくなっていた自室で正面の人影をなんだと思い、目のピントを合わせると、正面には怒りを顔に滲ませた母親の姿があった。

 黛一糸の母からは、たばことアルコールの香りがした。家族でたばこもアルコールも母しかしていないからか、黛一糸はこの臭いが嫌いだった。首周りが痒くなるような母の体臭は彼女の悪意を反映したもののように思えた。

 「母さん、どうしたの?」

 「どうしたのじゃないわよ、愚図め」

 黛一糸の言葉でより一層、黛一糸の母の顔が赤くなった。黛一糸はそれとは反比例するみたく顔が青くなる。腹にある最近つけられた青痣もずきりと重く刺さるように痛んだ。

 「あんた、学校で体育の授業休んでるらしいじゃない。その電話が来たのよ。あんたのせいで私に迷惑をかけないで。何様のつもり?」

 言い終わると、耐えきれなくなったのか頬にビンタが飛んできた。顔全体がじんわりと痛み、前歯がぐわりと揺れた。

 黛一糸が体育の授業を休んでいたのは、最近つけられた痣だったりかさぶただったりが他の生徒や先生に見られたくないからであった。以前も先生が母親に黛一糸の体の傷のことを電話で尋ねたことがあったが、その時はそんな傷は服で隠しなさいとかそれとも周りに見せつけて私の立場を悪くする気なのかとヒステリックに喚いたことがあった。それからは、どうすれば傷を隠せるのか考えて七部丈のインナーを夏にも関わらず着たりして隠していたが、最近の体育の授業は水泳なのだ。休む以外には、どうしようもない。

 説明しようとしても聞く耳は持ってもらえないだろうなと黛一糸は思った。主張はさらなる暴力を招くだけ。攻撃をできるだけやり過ごす方法は、無抵抗に受け続けることだ。

 救いだったのは、さっきのビンタで頭がぼんやりしていて母が喚く暴言があまり聞こえておらず、黛一糸の心はあまり傷つかなかったことだ。

 「全部あの女のせいだ。あの女が…」

 暴力の合間に、母親が泣きながら喚いている姿を黛一糸はぼうっと見ていた。

 母が泣き始めれば疲れて寝てくれる可能性が高い。黛一糸はなるべくみぞおちに攻撃が飛んでこないように、腹を下側にし直して折檻が早く終わるのを切に願った。

 

 数日後の事。

 「連れてきてくれてありがとう。お母さん」

 「…大丈夫よ。それにしても混んでるわね…。飲み物いる?」

 「ん。もらう」

 黛一糸はペットボトルを受け取り、口を着けた。甘い味が口に広がり、疲労感も消えていくようだった。

 ある休日、黛一糸は水族館に来ていた。

 家の最寄り駅から電車で数十分の水族館。

 何度か来たことのあるその水族館は休日だからかとても人が多く、チケット売り場の時点で混み合っていた。

 やっとの思いで薄暗い館内に入るも、当然のように館内も人でごった返している。順路を歩く間に、何回も止まる羽目になるものだから、一体ただ立っている時間と歩いている時間どちらの方が長いのかと疑問に思ってしまう。

 黛一糸は前の水槽に目を移す。クラゲがぼんやりと水槽を泳いでいた。ひらひらとした体はもはや生き物には見えず、スライムに近いものだと言われる方が納得できると思った。

 黛一糸はそんなクラゲの様子をぼんやりと見つめていると、横から声がかけられた。

 「ごめんね、一糸。疲れちゃうね」

 「大丈夫だよ。待ってる間にも水槽見てるだけでも楽しいしね」

 実際、それは黛一糸にとって本音だった。前の水槽のクラゲも、入り口近くの鰯の魚群も、永遠と眺めてられるくらい黛一糸にとっては楽しいものだった。黛一糸は水族館の生き物の展示は勿論、閉塞的な、流れがなくこもった感じの独特な空気感すら好きだった。海の底もこんな感じなんだろうかと妄想するだけで、待ち時間は楽しい旅の時間に変わっていた。

 イルカショーは立ち見をする羽目になった。すでに足が棒になったように疲れ切っていた黛一糸は、少しでも座りたいと思っていたが、ショーが始まるとそんなことは気にならなかった。黛一糸は自由に水の中を泳ぎ回るイルカの姿を自分とはまるで違うなと思った。常に母の顔を窺って生きている黛一糸にとって、悠然に水槽でショーをするイルカはとても立派で高潔なものであると感じた。

 ショーが終わりしばらくして、二人は水槽の中のトンネルのような場所を歩いた。そこは大きな水槽の中に筒のような水槽が埋め込まれているような見た目をしていて、中のその筒状の部分を通り抜けることができた。

 中を通ると、そこはさながら海中であるようだった。ガラス越しの海を泳ぐ魚たちに黛一糸は夢中になっていた。

 「楽しい?」「うん、お母さんも楽しい?」微笑んだのを見て黛一糸は手を握る女性と笑いあった。お母さんが嬉しそうで良かったと黛一糸は思った。

 「ここにいると、なんだか嫌なことも全部遠い世界のことみたく思えるわね」

 「どういうこと?」

 「…。一糸も、大人になったら分かるわよ」

 きっと、お母さんも同じように海の中に興味があるんだろうなと黛一糸は思った。

 黛一糸はもう一度、眼前の海の中のような光景を眺めた。

 海は一体どんな輝かしい世界なのだろう。


 その次の日、黛一糸の母はとんでもなく不機嫌だった。朝は当然のようにご飯を作ってくれなかったし黛一糸のおはようは無視した。

 黛一糸が学校から帰って、リビングに下りると唐突に後ろからシャツの襟を掴まれて床に転がされた。倒される時に首が少し締まり喉笛が掠れた音を出したと思うと、頭がフローリングに叩きつけられた。耳を打ったせいで一瞬音が聞こえなくなり、かわりにキーンと甲高い音が聞こえた気がした。

 受け身が取れずに頭を打った黛一糸は痛みに悶えながら、もしかしたら今日死ぬのではないかと思った。最近の母はあまりにも度が過ぎた不機嫌さを醸し出していた。いつも何かに怒りを感じているみたいなピリピリとした緊張感を纏っていたし、よく物に当たり壊していた。最近は今まで大事にしていた皿を床に叩きつけてバラバラに割っていたなと思い返す。

 頭に激痛を抱えながらも、せめても命を守ろうと思い体を縮めた。だが、次の攻撃ははいくら待っても来なかった。

 黛一糸の母親は目の前に立っていた。泣きながら何か譫言のように何かを喋っている。こういう母の様子を何度か黛一糸は見たことがあった。母が自分は知らない事情に悩ませれているのだと黛一糸は悟っていた。

 「ねえ、あなたも私のことを馬鹿にしているんでしょう?」

 「そんなことないよ…母さん」

 その日は一段と酷い様子だったから、黛一糸は痛む後頭部を手でさすりながら母親の様子を心配した。…心配しておかないと本当に殺される気もしていた。

 黛一糸の母は黛一糸の言葉を聞いているのか、分からない様子だった。上半身はフラフラと揺れていて足元もおぼつかない。

 それからギラリと視線を下に向けた。唐突に目があったので黛一糸の肩はびくりと跳ねた。のらりと母は黛一糸と視線を合わせるように屈んだ。母の瞳は底がない暗闇のように黒く、淀んでいた。

 「ねえ、お願いを聞いて。そうしないと、あなたを殺してしまいそうなの」

 「分かった。なんでも言うことを聞くよ」

 「そう。なら、私のお願い、聞いてね」

 黛一糸の母は黛一糸の耳に口を近づけた。


 そうして、黛一糸には平穏が訪れた。母からのお願いを守ることで日常的に振るわれていた暴力がめっきりとなくなった。それにより、家に帰るのが絶望的なものではなくなっていた。

 体に痣が増えないことは、黛一糸の学校生活でも良い影響が出た。

 日常的な暴力からの脱出は、黛一糸を解放的な気分にさせた。腹にはまだ濃い青痣があるが、少なくともこれ以上増えないということはある程度の安心感を感じられた。

 傷が不自然に毎日のように増えていくことを周りの誰かに気づかれれば、それは結果的にさらに傷が増えることに繋がるのは目に見えていた。

 もし仲がいい人がいると日に日に増える痣に気づかれるかもしれない。そういう懸念が、黛一糸を人間関係の構築に対して臆病にさせていた。痣の正体が虐待だとバレたら母はいよいよ自分を殺すかもしれないという危機感は、黛一糸の友人を作ろうという気持ちを折るには十分すぎる絶望だった。

 その絶望が、消えた。安心感や余裕感は、黛一糸のうちに眠っていた社交性を覚醒させた。精神的な圧迫が突如として消えたからだろうが、ふと友達を作りたいと思った。そうして、黛一糸は積極的にクラスメイトに話しかけようとした。

 「いっくん」

 同じクラスの人気者であるコウ君がそう言った。クラスの輪に入ることができるようになってから黛一糸はいっくんという渾名を拝名した。黛一糸は、渾名で呼ばれることを自分の存在を肯定されるように感じた。

 自分の居場所はどこにもないという気持ちが清々しく払拭されていくような感覚は黛一糸を満足させた。朝の会の時間前に一人で席に着いている惨めさを感じることは、もうない。

 母親からのお願いを守ることは寂しいことでもあったが、学校での交流や暴力を受けないことと天秤にかけたら、その約束を守ろうと思うことは彼にとって当たり前であった。


 しばらくした日、黛一糸は友達の何人かとコウ君の家に遊びに誘われた。

 「お邪魔します…」

 友達が先に入っていた後に、おそるおそるといった様子で黛一糸は家に入った。

 「いらっしゃい。遠慮しないで寛いで良いのよ」

 リビングに通されると、コウ君の母はそう言って黛一糸に笑顔を向けた。化粧をしていないコウ君のお母さんを見て、自分の母さんだったら人に会う時には絶対にメイクをするだろうなと黛一糸は思った。

 「お、お願いします」

 友達の家に遊びに行くのが初めてで緊張していた黛一糸は顔を赤くしながら頭を下げた。

 「さ、いっくんここ座って」

 テレビの前に置かれているソファの空いている場所を軽く叩いてコウ君は黛一糸の座る場所を示した。促されるまま、黛一糸はそこに座った。クッションは黛一糸の家の物に比べて固かった。

 コウ君に渡されたゲーム機で友達と一緒にゲームをした。黛一糸はそこで初めてビデオゲームというものをした。

 黛一糸は家の方針でゲーム機などを持っていなかった。そのためゲームの操作は全くの不慣れで下手くそだったが、友達に教えてもらいながらやるゲームは本当に楽しかった。ボタンを押すと連動して画面の景色が変わる。それだけのことで黛一糸の頭にはとてつもない快感が走った。

 キラキラと輝く画面には自分の知らない世界の常識があった。こんなに面白いものを他の家の子はやっているのかと衝撃だった。

 ゲームをしている時に、コウ君の家のテレビは、自分の家にあるテレビとは違い、液晶は小さくて厚いなと黛一糸は思った。けど、ゲーム機がついていたりテレビの下には沢山のアニメのDVDディスクがある。

 リビングも、黛一糸の家に比べて狭くて置かれている物も統一性がなく、乱雑だ。庭には木が生えていないし、狭い家庭菜園があるだけである。

 けど、ここの方が居心地がいいと黛一糸は思った。

 黛一糸の家は何というか、本当に必要なものしか置いていないのだ。そこはただの住む場所としての機能しかなくてそれ以上の充実はない。

 ここはそうではなくて、生活をより彩らせるための娯楽だったり意図で溢れているように黛一糸は感じた。この家は住むための場所であるのは勿論だが、それを土台として様々な好きな物であったり快適な物を上に重ねていくみたいだと思った。人の趣味が詰め込まれた宝箱、とも言えるかもしれない。

 それはそのまま、黛一糸の家族と他の家族の違いを浮き彫りにしているように思えた。黛一糸の家族はバラバラだった。

 黛家は、全員が家の中でも住み分けをしている。普段はお互いがお互いになるべく関わらないようにしている。普段は黛一糸に暴力をふるう母ですら、黛一糸をどこか怖がっているみたいだ。そして、黛一糸と母の歪な関係を父は無視する。なぜなら、住み分けているから。

 母の約束を黛一糸が聞いてそれを守ってからは、それがまた顕著になった。もう、母は暴力は振るわない。そして、自分たちはゆっくりと他人に近づいていると黛一糸は感じていた。

 このリビングみたく雑然として各々の好みが混ざり合っているのが、普通の家族なのだろう。


 それから、しばらくしたある日、黛一糸の親戚の女性が亡くなった。死因は崖から海に身を投げた自殺だった。

 黛一糸の家族全員で葬式にも参加した。着慣れないスーツを着て、黛一糸は式に参加した。式の間、黛一糸はただ呆然としていた。

 黛一糸は死というのを何度も意識する機会があった。それはフローリングに頭から叩きつけられた時だったり、無抵抗なみぞおちに何度も拳を飛ばされて酸欠で失神した時もそうだった。

 けど、本当に死んだことはない。

 つい最近まで彼女は元気だったはずだった。けど、死んだ。

 黛一糸は人は何か大事にしているものが欠けてしまったら、すぐに死ねてしまうのだと思った。生きる上で辛いことはあまりに多い。それを耐えて生きていくために自分の大切なものや、未来への希望を大事に抱えて人は生きている。それが消えてしまった時人はきっと、死ぬ。

 じゃあ、僕の命は一体何にぶら下がっているのだろうか?

 黛一糸は暴力を振るわれ、暴言を吐かれる度に、本当に自分が価値のない人間であると思ってきた。普段はそこまで悲観していないが、自分をサンドバックみたく怒りのはけ口にされると自分は生き物ではないのではないのではないかと思ってしまう。そう考えると、黛一糸は無性に死にたくなる。

 死にたくなるような時僕は何に希望を見出して、何が大事だから死なないのだろう。

 式は何事もなく終わった。穏やかに粛々と進められた葬式の間、黛一糸はずっと疑問に頭を埋め尽くされていた。


 黛一糸のクラスはその日の体育で校庭の外周を走らされていた。前をクラスのみんなが横切って行く中、黛一糸は少し離れたところに座り込んでいた。

 「いっくんどうしたの?」

 コウ君が黛一糸の横に腰を下ろす。

 「いや、ちょっと気分が悪くて」

 「えー、やばいじゃん。保健室行ったら?」

 コウ君が背中を揺する。コウ君にはおそらく悪意はないが、黛一糸はより気持ち悪くなってくる。

 体育の時間中、黛一糸は鋭い陽光にやられて校庭の隅で座り込んでいた。だらだら流れる汗を服が吸ってびちゃびちゃになっていて、肌に纏わりつくような感覚がとても不快だった。

 「おーい、コウ君、いっくんサボっちゃダメでしょう」

 担任の先生が校庭を横断するようにしてこちらに走ってくる。

 「いっくん、具合悪いって言ってます」

 コウ君はとても大きい声で担任の先生にそう言った。あまりの声量に近くにいる黛一糸はもう意識を手放してしまいそうになった。

 「そういうことなら先に言いなさい」

 先生は黛一糸の様子を確認して「熱中症かしらね」と呟いて、彼を背中におぶった。黛一糸は恥ずかしかったが、そんなことを言っている場合でもないと理解していた。背中から下ろしてもらったとしても、またその場に座り込むだけだ。

 「みんな、サボらないで走ってね。水分補給は忘れないように」

 大きい声で先生はみんなに言った。いっくんより大きいくらいの声量だが、黛一糸をきちんと気遣って直接に声を浴びせなかったため、意識は刈り取られないで済んだ。

 外周を走る児童は先生の方をそれぞれの位置から見て、はーいと行儀よく返事をするがみんなの興味の対象は間違いなく黛一糸だった。視線を背中に受けながら黛一糸はおぶられたまま校舎に入り、保健室に運ばれた。

 担任の先生は保健室の先生に事情を説明して、黛一糸を任せるとまたグラウンドに戻っていった。それから保健室の先生は彼に椅子を勧めた。

 スポーツ飲料をもらい、蘇ったような心地がした。保健室の冷蔵庫には何が入っているのだろうと疑問だったがそうか、こういう時のために用意されているのだなと納得する。

 スポーツ飲料の入っていた空になった紙コップを前のテーブルに置くと、体の汗を拭き取られ熱を測らされた。熱はなく、軽い脱水症状だと言われてまた水分をもらってからベッドで横になるように促された。保健室の先生に早退するか聞かれたが黛一糸は固辞した。早退するということは母親が迎えにくることを意味する。昼間に学校に来る羽目になった母親は絶対に、不機嫌になると確信していた。迷惑をかけてはならない。

 脱水症状独特の風邪みたいな倦怠感で黛一糸は起き上がるのすら億劫に思った。それと、保健室の空気はやや冷たく感じられ、白い布団の中で手足を丸めこめるようにして体を縮めなるべく体を温かくしようとした。

 そうしている間、彼はまたしてもあの葬式の日のことを思い返していた。

 あの日は驚きが大きくてただ呆然としていた。だが、時間が経って事態を飲み込めてくると、漠然とした感情が固まって大きな悲しみになっていった。そして、その全貌が知れるにつれて、より悲しい気持ちになる。潰されるみたいに黛一糸は体を丸めた。

 そうやって、しばらくベッドで丸まっているとチャイムがなった。給食の時間になったようだった。保健室の先生が体調が良さそうだったら教室に帰っても良いと言ったが、なんとなくまだ体の調子が優れない気がした。そう伝えると先生が黛一糸の分の給食を持ってきてくれた。保健室の先生は普段職員室でご飯を食べるらしいが、その日は黛一糸と一緒に保健室で食事をしてくれた。保健室の先生は自分で作ったという弁当を食べていて、綺麗な卵焼きは目の前にある給食より美味しそうだと黛一糸は思った。

 給食を食べ終わる頃、コウ君が保健室に来てくれた。

 「いっくん、大丈夫?」

 ベッドに腰掛ける黛一糸の横にコウ君は椅子に座った。ベッドの周りは布で仕切られていて、二人だけの空間になっていた

 「うん、大分気分は良くなってきた。もう平気」

 「そっか良かった」コウ君は純粋な笑顔で黛一糸に向き合った。そして、コウ君は黛一糸が入った布団を見た。どうやら腹の辺りが気になるようだった。

 「コウくん、どうしたの?」

 「いやさ、前から気になってたんだけどいっくん体に怪我あるじゃん? どうしてかなって思って」

 心臓が跳ねるように思った。黛一糸はコウ君が自分の秘密に勘付いているとは思ってもみなかった。

 「…気づいてたんだ」

 「夏でもわざわざ長袖の服を中に着てるからさ。ちょっと変だなって思って」

 なんで? というみたいに首をかしげながらコウ君はそう言った。

 黛一糸は無意識に腹のあたりを触っていた。痣が手に触れるがもうあまり痛くはない。だが、痛む。痛くないはずなのにズキリと鈍く刺さる。あの日の母の怒り具合はとんでもなかった。その時のことを思い出し、痛む。

 「どうして隠してるの?」

 「いや、あんまり痛くはないんだ。ただ心配されたくなくて…」

 本当にただ純粋に黛一糸にコウ君は疑問をぶつけてくる。

 「痛い時はみんなに知ってもらった方がいいんじゃないの? 俺がみんなに言ってあげようか?」

 「やめて!」

 コウ君の言葉を掻き消すみたいに黛一糸は強くそう言った。コウ君はびっくりしたみたいな顔をする。

 「大丈夫?」

 外から保健室の先生がそう言いながら、ベッドの周りの布を分けて入ってきた。

 「…いやなんでもないです」

 「…」

 「そう、なら良いけど」と先生は布を戻して、行った。椅子がぎしりと鳴った音がしたから、もとの場所に座り直したんだろう。

 「体のことは言わないで欲しいんだ。お願い」

 黛一糸は懇願した。また、あの暴力が帰ってくると考えると恐ろしくてしょうがなかった。

 「…分かった。誰にも言わない。内緒にする。けど何かあったら相談してね。なんでもするから…」

 コウ君はそう言って、布を分けて外に出た。保健室の先生が「もう良いの?」と聞いて、コウ君は「大丈夫です」と明るく言ったのが聞こえた。コウ君は多分、傷ついていた。コウくんが善意で言ってくれた言葉を怒鳴るように否定したことは黛一糸にとっても辛いことだった。


 学校が終わり、家に帰る。

 「ただいまー」

 「お帰りなさい」

 リビングの方から声がする。黛一糸の母の声だった。玄関までは迎えに来てくれない。

 自分の部屋に帰り荷物を置いてから、リビングに下りる。黛一糸の母はテレビを見ている。黛一糸がリビングに入ったのに気づいたはずだが視線もくれない。冷蔵庫の前に立ち、自分の分の麦茶を入れる。もう、お母さんは紅茶を入れてくれないんだなと黛一糸はまた悲しく思う。

 黛一糸は自分の部屋に戻り麦茶の入ったコップを机に置き、ベッドの上に寝転んだ。

 黛一糸は母の約束に従うことで、平穏な生活を手に入れた。けど、その平穏は母の気が変わった瞬間にまた前のような地獄に戻るということも分かっていた。僕ら家族の間に何かが生まれるだけで、きっとバランスを失いその苛立ちを母は自分にぶつける。

 黛一糸はこの束の間の危うい平穏を手に入れるために、母との約束を守った。そのため、母は上機嫌だし暴力を振るわれることもなくなった。そして、バラバラの三人は家族からどんどん離れた場所に向かっている気がする。

 暴力がなくなることで黛一糸は学校での関係ができた。失ってしまった関係を埋めるように学校で友達を作った。でも、その約束を守ることが本当に自分にとって良いことだったのか。それを黛一糸は最近ずっと考え続けている。

 「お母さんとまた水族館に行きたい…」

 もう、その願いは絶対に叶わない。そう思うと、とても切なくなる。

 僕は何のために生きているんだろう?

 最近黛一糸がずっと考えている問いだった。この平穏を少しでも延命させるため? 友達と仲良くするため? 何を自分は欲しい?

 欲しいものはもしかしたら、コウ君の家族のような関係なのかもしれないと黛一糸は思った。家族全員がお互いの生活に踏み込んで影響しあっているような関係は彼は羨ましいと思っていた。いつか、自分たちもそうなれるのだろうか。

 黛一糸はそんなことを考えながらベッドのシートに包まれていると、ゆっくり瞼が重くなってきた。暑い空気と冷たいシートが心地良くて、寝てしまいそうになる。

 でも、黛一糸はすぐに目を覚ました。それは母が階段を上がる音に気づいたからだった。恐怖が湧き出てくる。また暴力を振るわれるのだろうか。何か不都合なことをしただろうかと咄嗟に必死で考えるも何も思いつかなかった。

 足音は黛一糸の部屋の先に続いた。しばらくガサガサと物をあさる音がして、それからまた部屋の前を歩いて下の階に母は戻っていった。結局、黛一糸の部屋のドアは開かなかった。

 それを確認すると、黛一糸は安心した。服の中はべったり汗をかいていて呼吸も荒っぽくなっていた。

 黛一糸は冷や汗を腕で拭う時、しばらく母からの暴力がなくなっていても、体には母への恐怖と痣が刻み込まれていることに気づいた。昔から受けてきた痛みは、うたた寝すら許さない程に体に深く痣として残っているし、暴力をふるわなくなっても母には甘えようとは思えなかった。

 そして、自分の家は決して変わらないことにも、気づいた。

 母が黛一糸に優しくしたことは一度としてないし、自分にとって母はただの恐怖の象徴だった。何があっても自分たちが普通の家族らしくなることはない。コウ君の家を羨んでも、それを黛一糸が得ることはないと彼自身が感覚でその時分かってしまった。

 あの約束で、母は母の目障りなものを遠ざけた。そして、母にとってはきっと僕も邪魔な存在なんだろう。いつか、また暴力は始まるはずだ。黛一糸はそう考えた。

 そして、黛一糸にとっても母は憎い存在だとその時初めて自覚した。

 それに気づくと、色々な感情が黛一糸の内から湧き出てきた。今まで受けてきた暴力に対する身を焼くような憎悪や自分を愛さないことに対する悲しさ。家庭内でも学校でも居場所がないことへの考えないようにしていた強い孤独感。

 様々な感情が入り混じるそのカオスの中に、母への愛は一切、なかった。

 湧いてきた感情の中にある復讐心に最早、逆らう理由なんてなかった。


 とある早朝、まだ街は眠っていて草木のさざめきと崖の下からの潮音だけが聞こえる。

 黛一糸は母親の遺体を詰めたコンクリートを海に流し終えて、ただ呆然と海を眺めていた。

 コウ君は草むらにごろりと寝転がって、呻いた。

 「疲れたー。眠いしお腹もすいたー」

 「コウ君、大丈夫?」

 「まぁ、大丈夫。流石に学校は休もうと思うけど」

 「え、コウ君学校休むの? だめだよ行かなきゃ」

 「ええー、もう動けないー」

 コウ君は駄々をこねるようにそう言ってから、コーラを飲んだ。

 人を殺した後だというのに黛一糸は晴れやかな気持ちだった。心のわだかまりが消えて行くのが心地よくて、疲労感すらあまり覚えなかった。

 黛一糸は大きく息を吐いた。諸悪の根源である母の抹殺は二晩かけて行われたから体にはどうしても疲労が蓄積していた。

 黛一糸はコウ君にだけ母殺害の計画を話した。すると協力するどころか、コウ君は計画に改良まで施してくれた。

 父が出張の夜のうちに母を殺し、そのまま遺体を後ろの林の中にでも捨てようと思っていたがコウ君は「それじゃ、すぐに遺体が発見されるし、犯人であることもバレる」と言い、計画の組み直しを提案した。

 そして実行の日、つまり、一昨日の夕方、母の飲み物に睡眠薬を入れて眠らせ、ブルーシートに眠った母親を包んでコウ君と二人で家の裏の林に運んだ。林に入ると、母が起きる前にと血があまり出ないようにブルーシートとビニール袋を使いつつ静かに母を殺した。その時黛一糸は宿願を達成した。

 そこからは隠蔽工作だった。

 コウ君は林に埋めるのではダメだと言い、海に捨てることに決めた。コウ君は黛一糸に、彼の家が所有する工場から酸性の液体を持ってくることを指示した。そんなものはないと言いたい所だったが、とりあえず探してみると普通に見つかったので驚いた。

 目に染みると聞いてたのでゴーグルも忘れずして、タンクに入っていた塩酸を慎重に別の塩酸でも溶けないボトルに幾つか入れ替えた。

 母の死体の臓器の内容物などは海に落とした時ガスが溜まらないように取り除き、塩酸を母の死体にかけていく。肌がすぐに爛れ、汚い濁った液体が周りに広がり、とんでもない異臭に僕は顔を顰めながら、失敗したんじゃないかとコウ君に聞いたが「まぁ、初めてだから仕方ないよ」とあまり意に介さずにコウ君は作業を続けた。汚れたブルーシートを何度も入れ替えながら、ある程度まで死体の肌が焼けた頃、黛一糸達はその作業を諦めた。

 「無理だね。これ」

 欲を言えば、これである程度処理できないかと思っていたが、塩酸程度では肉など溶かしきれないことが分かった。仕方ないからそこは妥協しようということになった。

 それから、黛一糸達は事前に父の工場からとってきたセメントをコンクリートにして、母の亡骸の上から流し込んでいった。すでに原型を失いつつはあったが、その時黛一糸は人がただの物になる瞬間を見た気がした。

 そして、一日かけてコンクリートをその場で固まらせた。次の日の夜、また林の中で黛一糸とコウ君は落ち合った。遂に遺体を捨てるためだった。

 持ち運べるように、コンクリートは薄めにしたがやはり重かった。母の遺体、というより母だった物を紐に括りつけ、林から数十メートルの崖まで二人で引っ張り、崖から落とした。あまり距離はなかったが、黛一糸の手のひらは紐が強く食い込んだため赤くなった。

 コンクリートを落とすと、その場所に大きな水柱が上がったと思うと、そのまま灰色のオブジェクトは見えなくなった。こうして、遺体は完全に黛一糸達の手から離れた。

 せめて、美しい海の中で眠れ…。

 黛一糸は心の中で吐いた。同情なんて、なかった。自業自得だと思った。 

 黛一糸はふと気になったことを口にした。

 「バレる可能性、あるかな。僕らが殺したって」

 「え? うーん、どうだろ、運次第じゃない?」

 「適当だなぁ」

 コウ君は特になんとも思ってなさそうだったから、黛一糸は呆れて肩を落とした。コウくんはうつ伏せのまま、続けた。

 「海に捨てても消えるわけじゃないからさ。いつかはバレるかもね」

 「そっか」黛一糸はそう聞いてどこか安心していた。間違いだったとは思っていないが、世間一般では殺人は大罪だ。事情があったとしても、罪であることには変わりはないだろう。なら、いつかは自分は裁かれるべきだとも思っていた。

 「コウ君は、どうしてこんなこと手伝ってくれたの?」黛一糸が聞く。「ん? いや、そりゃ、いっくんのためだよ」コウ君はそう答えた。

 コウ君のそれは真実半分偽り半分といった所だった。実際は人殺しの予行練習をしてみたいと思っていたのが主だった。

 コウ君…渡宏樹はその時も頭の中で今回の反省をしていた。塩酸程度では人は溶かせないのか。それに、今回は何とか運べたけどコンクリートは中々一人で運べる物じゃないな。なら、せめてあの計画を実行に移すのは高校生くらいになって、機材を買い揃えてから…渡宏樹の中の殺人衝動が沸々と燃えていた。彼は将来の計画が待ちきれないと言わんばかりに舌舐めずりをした。

 そんな渡宏樹だったが、今まで気になっていた事を黛一糸に聞き忘れていたことに気づいた。

 「どうしてお母さんを殺したの?」

 「復讐」

 黛一糸はきっぱりと言って、ペットボトルを海に投げ捨てた。

 渡宏樹はそれを聞いて訳知り顔になった。黛一糸の体の痣は母から虐待を受けていたものだと確信したからだった。でも、それは黛一糸の考えとは少し違っていた。黛一糸は心の中で呟く。

 お母さん、僕らを虐げていたあの女を殺したよ。


 黛一糸の家にはお手伝いをしている綾という人がいた。黛一糸の産まれた頃から家にいて、黛一糸の面倒をよく焼いていてくれた。

 いつも優しい人だった。黛一糸を色んな所に連れて行ってくれたし、家の中で唯一、きちんと慈愛を持って愛してくれる存在だった。黛一糸は綾をいつの日かお母さんと呼んでいた。呼ぶとその女性は困った顔をしてしまうから二人っきりの時にしか呼べなかったけど。

 そして綾は黛一糸と同じで日常的に黛一糸の母…静からの暴行を受けていた。静は綾を酷く嫌っていた。

 二人で暴力を受けるから、自ずと絆は強くなっていった。お互いがお互いを支え合って二人で辛い生活に耐えていた。

 そんなある日、黛一糸は静からとある約束を持ちかけられた。

 「あの女を無視しなさい。もしできたらあなたにはもう暴力を振るわないから」

 黛一糸はそれに従うことにした。綾と喋れないのは辛いけど暴力を日常的に受ける生活を耐えるには、とっくに限界だった。

 黛一糸が無視をするようになると、綾は最初ひどく驚いたようだった。黛一糸も心が痛んだがそれを徹底した。黛一糸に話しかけようとするのを無視し、部屋に鍵をしたりと綾を遠ざけた。黛一糸はこれ以上体に痣ができないよう自分の体を守ろうと必死だった。

 そして、綾は自殺した。

 黛一糸は葬式で知ったが綾は黛一糸の母の旧姓と同じ苗字をしていた。血縁上で母と綾は従姉妹同士であった。

 お手伝いのその女性、綾は黛一糸を愛していた。体にいくら傷をつけられようと黛一糸の近くにいようとした。だが、黛一糸は綾を無視した。彼女には居場所がなくなったように感じただろう。彼女に対しての暴力は続いていたからだ。黛一糸は自分が助かるために、綾を代わりにしたような物だった。

 綾は事情があり、もう実家に戻る事はできなかったし、今から結婚しようにも年齢や体の傷に関しても結婚の障害となることは分かりきっていた。

 後に黛一糸は父に、母とお手伝いの女性の関係について問い詰めた。長く口を閉ざしていたが、彼は渋々こう答えた。

 「お前の本当の母親は静ではなく、綾だ」

 黛一糸の父はこの辺りでは有名な資産家で、縁談を持ちかけられ婚約したのが静だった。だが、若気の至りで彼は親戚との集まりで顔を合わせた綾に手を出してしまった。そして、彼女は彼との子供を身籠ってしまった。

 この事を外には隠そうと思った黛一糸の父は、綾に子供を産ませてから養子としてその子を自分の手元に置く事を考えた。それが黛一糸だった。

 当然これを静は良く思わなかった。結婚前にそんなことが発覚したものだから、婚約不履行で訴えようとも思ったが、そう伝えると黛一糸の父は泣きながら静に謝った。「何とかこれを公にしないでほしい」と懇願するのを見ながら静はこれから結婚する男を明確に見下した。

 結局、裁判所に訴えることはなく、そのまま静は結婚して養子にまだ赤ん坊だった黛一糸を迎え入れることになった。でも、家族になったからといって静は一糸を愛するなんてことはなく、寧ろずっと邪魔な存在だと思っていた。

 でも、もっと煩わしい存在だったのは綾だった。綾は自分の子を自分の手で育てたいと主張した。無償で家事など何でもすると主張する綾を黛一糸の父は断りきれず、気づけば綾は家に入り浸り、家政婦のような事をしだした。

 静はいつも気が狂いそうだった。婚約者が別の女と肌を重ねたという屈辱に加えて、その女が今も自分達の家に入りびっている。一糸と綾が微笑ましく喋るのは、まさに普通の母子であるようだった。実際に血縁的にもその通りなのだが。

 綾は自分の本当の子である一糸を愛した。一糸との接し方に困っていた静ではなく、当然、一糸も綾に懐いた。そこに静の付け入る場所はなかった。一糸と綾は他者が入る事を許さない二人だけの世界を作り出していた。それは静が結婚前に妄想した幸せな家族像そのものであるように思えた。

 静は家における自分の立ち位置にずっと迷っていた。夫に、自分に、夫の不倫相手に、不倫相手の息子。誰の目から見ても明らかに歪んでいる家庭は、静の理想像とはあまりに隔絶した物だった。

 自分はこの家に必要な存在なのか? 自分はこの家にいない方がいいのではないだろうか? 静がそう思わない日はないほどだった。

 静には頼るところがなかった。夫は綾と静どちらにも負い目があったため、どちらの言い分も聞くが、どちらかに肩入れすることはなかった。二人の水面下での諍いに彼は知らないふりを決め込んでいた。

 逆に、静が割り切って自分も不倫をするくらいの心持ちになれたら、そこまで拗れなかったろうに静は根は真面目な女だった。自分が不貞を行うなど、決して自分自身が許さなかった。

 それでも、ストレスは際限なく溜まっていく。そのフラストレーションを吐き出す方法は、こんな目に合わせた綾と一糸に対して当たることしかなかった。彼女はいつもそれに罪悪感を抱えつつ、綾が文句を言わないことも相まって、それを止めることはできなかった。

 もし、一糸と綾どちらかが一回でも歯向かうことがあればそうはならなかったかもしれないが…。

 それも、もう終わった話だ。どうしようもない。

 黛一糸は全てを語り俯いていた父を見ながら、そう思った。

 やるせない気持ちだった。綾と静、どちらの母にも黛一糸は同情していた。そして父には、どうしようもなく失望した。

 静は綾を家から追い出すために、黛一糸に綾を無視するように言ったのだった。綾が一糸に無視されれば、家の雑用に執着することもないだろうと予想してのことだった。

 けれど、綾は自殺した。家から追い出されたとしても、どこかに帰る場所や精神的な拠り所があったのなら、そちらに戻るだけで済んだのかもしれない。

 でも、綾にとっての生きる意味は黛一糸そのものだった。それを失った時、綾は生きる意味を失って死んでしまったのだった。

 黛一糸は自分自身の存在が家のバグであると思った。自分が生を受けたから、二人の母の人生は歪んだ。自分は産まれた瞬間から、父の罪を背負わされて産まれてきたのであり、その罰は母二人の死をもって償うことになってしまったと彼は思った。

 黛一糸は父も殺してしまおうかと考えた。そして、汚れた自分の命も自分の手で終わらせてしまおうと。

 けれど、それはできなかった。父は彼に残った唯一の肉親だった。どんなに父に失望してもその認識は変えられなかった。それと、やはり静を殺したことへの後悔も湧いてきた。黛一糸と綾を苦しめた静もまた、家族内での関係で苦しんでいたのだから、もしかしたらきちんと話し合えたら分かり合えたかもしれないと思えてきた。

 でも、もう遅い。終わった話だ。彼女の遺体は灰色の檻に囚われ、海の底に溶けた。

 僕は、汚れている。黛一糸はそう思っている。

 父が理性を踏み倒し、欲望に傾いた結果、出来たものが僕だ。

 僕の存在は生まれる前から人の心を傷つけていた。僕は誰かにとっては、望まれない命だったのかもしれない。

 けれど、僕を愛してくれる人もいた。他でもない綾だ。きっと、僕の存在が綾の人生を辛く、厳しい茨の道にした。それでも、綾は僕のことを息子として、愛してくれた。

 愛とは何だろう?

 僕にもいつか愛する人ができるのだろうか。綾が自分にしたように、僕も誰かに自分の身を切ってでも尽くすことができるのだろうか。分からない。少なくとも今は。

 でも、父親のような行いだけは許してはならない。

 僕は、汚れた命なのかもしれない。その分、関わる人に誠実でないとならない。人一倍、人に真摯に向き合わないといけない。

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