5年前⑰

 あの試合から、五日過ぎた。そして、その間にも色々なことがあった。

 まず、月曜日。放課後に錦にファミレスに呼び出された。

 「最近、変だよ。鈴鹿」

 向かい合って第一声がそれだった。

 「そうかな」

 「そうだよ」

 錦と僕はテーブルのフライドポテトを二人でつまんでいた。錦は僕の目を見ながら言った。

 「別にインターハイで負けて、落ち込んでるってわけでもないだろ?」

 「いや、インターハイで負けて、落ち込んでる」

 僕はめんどくさくなってそう答えた。ついでに頭の中でインターハイ県予選一回戦だと訂正した。

 錦はうざそうに頭を掻いた。

 「お前、なんか赤石のこと分かったんじゃないか?」

 「違うよ」そう答えながらも、当たりだった。僕は頭の中で錦に拍手していた。おめでとうございます。大当たりです。ビンゴ賞です。

 そんなこと、言えるわけないから僕はポテトに手を伸ばして、言い訳を考えていた。

 「いや、ホントに試合で負けた事がショックでさ。三年真面目に部活やって、これかよ! みたいな」

 結局言い訳は思いつかなかったからこれで通すことにした。少し途中から笑ってしまったけど。

 錦は真面目にしろみたいな感じで僕を睨んだ。流石に茶化しすぎたか。

 「…そうか。まぁ、なんか悩み事あったらいつでも言ってくれよ」

 錦は諦めたのか、溜息みたいにそう言ってその話は終わった。

 ふざけた回答で茶化しといてあれだと思うけど、僕はションボリした錦を見て罪悪感を覚えた。心なしか、普段より錦がヒョロリとして見えた。

 本当は僕だって錦に全部話してしまいたかった。でも、それは絶対にしてはならない。

 錦が警察に通報するとかそういう問題ではない。錦は優しすぎる。

 僕が全部を錦に話したとして、僕がそれでも「警察には言わないでほしい」と言ったら錦は警察に対して口を噤むかもしれない。そして、僕と一緒に悩んでしまうのかもしれない。

 錦は正義感が強いが、僕の主張も汲もうと努力してくれそうな気もする。最悪の場合、錦も僕と同じように板挟みになって葛藤させることになるかもしれない。もう錦を困らせたくなかった。

 錦と別れて帰りに駅の近くへ行くと、赤石の母親が駅から出る人に「お願いします」と言いながらビラを配っていた。

 「お願いしまーす。あら、鈴鹿くん?」

 「こんばんは。赤石…和真君のお母さん」

 返事をしながら、ビラを受け取った。

 「鈴鹿君、学校帰り?」

 「ええ。ちょっと友達とご飯も食べてきました」

 そう言いながら、僕は受け取ったビラに目を落とした。

 『行方不明 赤石和真を探しています』

 「…」

 そこには、大きくそう書いてあった。赤石の写真も中央に貼られている。

 「…まだ、見つかってないからさ。警察もあんまり真面目に取り合ってくれないし自分で動かないとって思って」

 赤石母は眉を落として言った。声が枯れていて、今日だけでも何時間もこうやって声掛けをしていたのだと思った。

 「…警察はどうして相手してくれないんですか?」

 「家出だと思ってるみたいね。ほら、高校生の家出の場合は一応捜索してくれるけど、事件性があると思ってないからあんまり本腰入れてくれないんだと思う」

 赤石母は僕に説明しつつも、「お願いしまーす」と言いながらビラを配っていた。

 僕はもう一度ビラを見た。きちんとした、よく情報の入っているビラだった。

 赤石母はビラを自分で作り、少しでも赤石の情報が集まるようにと思いながらこうやってずっとビラを配っているのだろう。それに、カラー写真が入ったそのビラは、おそらく印刷に結構な金額がかかっている。

 僕はそれを徒労だと知っている。赤石の情報が集まることはないし、仮に集まったとしてもそれは生前のものだ。もう彼は生きていないから。

 そうやって成果が得られない仕事に従事し続けている赤石母がかわいそうだと思った。

 「…いつまで、ビラを配る気ですか?」

 「ん、どういう事?」

 赤石母が不思議そうに聞くと僕は口ごもった。ふと、黛の名前を出してしまいそうになった。

 「こうやってビラを配り続けても、もし成果が出なかったらいつ諦めるんですか?」

 そう言った時、赤石母はもしかしたら怒るかもしれないと思った。でも、僕もそれを望んでいた。殴られれば、多少は秘密にしているという罪に対しての報いとなるのではないかと思った。

 けれども、赤石母の答えは予想と違って大人だった。

 「和真が見つかるまで、続けるわよ」

 そう言って、赤石母はまた誰かにビラを配った。

 見つかるまで、続ける。確かに、親ならそうするかもしれない。愛情を注ぐ子のためなら成果が出なくても、少しの望みにかけてこうやって来る日も来る日もビラを配り続けることができるだろう。

 「僕にもビラを配らせてもらえませんか?」

 「え?」

 「そこにビラ入ってるんですよね。少し分けてください」

 僕は赤石母の足元にあるトートバッグから、ほぼ強奪するみたいにビラをもらった。それから駅の入口の反対側に歩いた。特に深く考えずに体が勝手に動いていた。

 「お願いしまーす。人を探していまーす」

 僕は赤石母から少し離れた位置でそう言ってビラを配り出した。

 「お願いしまーす。お願いしまーす。お願いしまーす」

 そう言いながら僕はビラを配りつづけていると、ふとした時にビラの中の赤石と目が合った。チャラついた茶髪の男の横には大きな字で『行方不明』と書いてある。僕はその探している人がもうこの世にいないことを知っているのに、こうやって人探しのビラを配っていることは不思議なことだと思った。でも、そうせざるを得なかった。

 罪滅ぼしをしているつもりだった。赤石母がこれから延々と成果のでない仕事に従事していく事についての、罪滅ぼし。僕が黛が赤石を殺したと言えば、赤石母は仕事から解放される筈なのに、そうしないことへの僕が自分に課した罰だった。

 本当にこれで償いになっているとは思っていなかった。あくまで自己満足に過ぎない行為であって、これはエゴだと自覚していた。けれど、そうしないでここを離れるのも僕にはできなかった。

 「お願いしまーす。お願いしまーす。お願いしまーす」

 ずっとそう言いながら配っていると頭が混乱してきた。僕は何をお願いしているんだろうか。赤石のことを知っているのに隠している僕への許しだろうか?

 「お願いしまーす。お願いしまーす。お願いしまーす」

 許してくださーい。許してくださーい。無力な僕のことを許してくださーい。

 しばらくそうやってビラを配り続けると、ビラを受け取った高齢の女性が言った。

 「暑い中大変だねえ」

 「え? ああ、そうですね」

 確かに、この季節の夜に大声を出し続けるのは辛い。汗がシャツに染みていた。

 女性はビラを指さして言った。

 「写真のこの男の子、友達かい?」

 「ええ、学校の友達なんです。行方不明で」

 「そうかい。怖いねぇ、最近失踪事件とかもあるし。何か分かったこととかあったらこの電話番号に言えば良いの?」

 「はい、是非お願いします」

 そう言いながらも、僕は分かることなんてないだろうと思っていた。というか、このビラ配り自体が成果が出ない仕事だと分かっていた。それでも、こうしないといけない気がしていた。

 これは、罪滅ぼしであるのと同時に、儀式だった。赤石の死を秘密にするという僕の罪を、僕が赤石を探すビラを配るという行為はより罪深くしていた。

 僕は赤石母がビラを配り終えて帰る時までそうやってビラを配っていた。帰る時にはもう時間は二十二時くらいになっていて、駅の人の出入りもまばらになっていた。

 「…ありがとう、鈴鹿君。もう大丈夫」

 帰る時、赤石母は僕に目元を赤くしてそう言った。僕が赤石のことを心から心配に思ってビラを配るのを手伝ったのだと思い、感謝しているだと分かった。

 「いえ、僕も和真君のことが心配なので当然です」

 僕は自分がこんなにすらすら嘘がつけるのにも驚いていた。周りにどう思われるかを、ここに来て僕はまだ意識しているらしい。

 家に帰りながら、僕は改めて赤石のことを考えていた。

 僕が赤石のことを本当に思っているなら赤石母に事実を伝えるだろう。そうしたら、赤石母は絶望するだろうか。そして、僕を憎むのだろうか。どうして、すぐに知らせなかったのかと。

 僕は赤石母に感謝されたが、それは勘違いだ。僕は赤石のために手伝ったわけでも赤石母のためでもなくて、自分のためにビラを配ったのだから。実際に僕は何も褒められることはしていない。

 僕は僕の嘘が露呈するのが怖くて仕方がなかった。

 そして水曜日、放課後に僕は警察官の渡宏樹氏に学校前で声をかけられた。

 「やぁ、久しぶり」

 「…はい、久しぶりです。渡さん」

 校門前の渡を見かけた時、無視して通り過ぎようとしたら、追いかけられ止められた。

 「なんか、荒んだ顔してるね。大丈夫?」

 「いや、何でも」

 ヘラヘラとしている渡の顔をつい殴りそうになる。無神経そうな顔は僕を挑発しているみたいだった。

 「今日はどうしたんです?」

 「いや、ちょっとね。まだ赤石君は見つかっていないわけだから聞き込みって感じかな。なんかその後、聞いたこととかないかな?」

 渡の言ったことを聞いて、ふむと、考える素振りだけした。

 「いえ、特に何も。無事だと良いんですが」

 「…そっか」

 渡と目がばっちり合った。若々しい見た目だ。ともすれば、十代だと思えるような風貌をしている。

 僕はさっさと歩き去りたかった。いらないことを言う前にこの場から離れたかった。

 「…帰っても?」

 「ああ、うん。構わないよ。ごめんね、止めちゃって」

 許可を得たから僕は半回転して背を向けようとしたが、ふと思いついたことを言ってみることにした。

 「そういえば、最近連続失踪事件ありますよね。まだそれと赤石の件、関係あると思います?」

 「あ、ああ。俺は確率はあると思ってるよ」渡は帰ると思っていた僕に話しかけられて驚いたようだった。

 「そうですか。実はあれ、僕が誘拐しまくってるんですよ。それでコンクリートにつめて海に流したりしてるんです」 

 渡の顔が驚いたように強張った。

 そうだ。普通は殺人は忌避されるべきことだよなと僕は再確認した。

 「何をし」「嘘ですよ。じゃあ、さよなら」渡の声を遮るようにして僕はそう言い、渡に背を向けた。

 背中に訝しげに僕を見る渡の視線を感じていた。

 もしかしたら、僕は怪しまれたかもしれない。でも、別に良かった。

 そろそろ僕らは終わるような、そんな気がしていた。



 何か、漠然とした不安みたいなのがずっとあって、それが僕に何かしなくてはならないという気にさせる。けど、また別の部分には、どうせもう取り返しがつかない、僕は愚図なのだから何もしない方がいいと考えている部分もある。

 そうして、ひたすらに将来に怯えてそれをなんとかしないとならないと思いつつも、動くことが怖くて何もできないという矛盾を孕んだ思考に陥った。

 そして僕は今日、部屋のベッドで腐っている。学校にも行かずに、部屋でダラダラとスマホをいじっていた。所謂、登校拒否というやつだ。

 カーテンを閉めきり部屋を暗くすると、頭の中を色々なことが駆け巡る。不安なことだったり、嫌なことだったりが頭の中で沸々と湧いてくる。鬱々とした気分が僕の心を蝕み、ベッドから動けなくなっていた。

 目元がザラザラしていて、粉っぽい。今日もまた寝ている間に泣いていたらしい。


 高校生が平日の昼間に街に繰り出すというのは、そこはかとない居心地の悪さを感じることであると知った。

 なんというか、誰かと目が合う度にお前は場違いだ、早く学校に行けと思われているような気がしてくる。

 今日は学校に行くにはあまりに遅い時間に起きた。一日、寝て過ごそうかと思ったが、このままでは良くないとも分かっていた。実は昨日も同様の理由で学校をサボっていた。

 今日は来週以降に学校に戻るために、とりあえず家から出ようと思ったわけだ。

 そして、僕は入ったカフェでコーヒーカップを傾けながらやっぱり家から出ないほうが良かったかもなと思った。昼過ぎのチェーンのカフェは思いの外、賑わっていた。空いていた窓際のカウンター席は椅子が固く、尻が痛む。

 店内で流れているジャズは周りの席の話し声に遮られ、ハッキリと聞こえない。雑音が妙に腹立たしく感じたから足元のバッグからイヤホンを取り出し、耳に嵌めた。

 耳に流れるのは、かのベートーヴェンの有名なクラシック楽曲だ。肌を震わせるような脅迫的な第一楽章が始まる。絶望に打ちひしがれているのが、音から想起されるような旋律だった。

 そして、第四楽章。旋律は、最初とは打って変わり能天気なものになった。絶望など微塵も感じさせない。第一楽章が嵐が吹き荒れる、大災害みたいなのに対して、第四楽章は凪いだ空の下、朗らかにピクニックをしているみたいだ。さえずる小鳥達の姿さえ浮かんでくる。

 聞いた話によると、ベートーヴェンは耳が聞こえなかったそうだ。音楽家でありながら耳が聞こえないなんていうのが、どれほどの苦痛なのかは僕では想像しかねるが、それこそ絶望とか、失望とか、無力感とかが胸を蝕み、張り裂けそうにするだろうということは分かる。

 今の僕も同じだ。絶望に苛まれ、深い底に沈んでいる。このまま、この深い場所で心が壊死して動けなくなってしまいそうだ。

 けど、ベートーヴェンの曲は転調する。世界が華やかに色づき、ふと深海に光が差したように生き返る。

 それが人生なのだろうか? どんな状況でも光を掴むことはできるのだろうか?

 友人は死に、幼馴染が傷つくのを見過ごし、尊敬していた人は人殺しになったという状況なのに? もう敗勢濃厚だ。白旗を振りたいし、負けましたと頭を下げたい。

 この先の人生でも、きっと僕は何度も後悔することになる。大事なタイミングでボールを取りこぼすみたいに。

 人生は絶望のパートと希望のパートがしっかり分かれているのだろうか。今の絶望に耐えきれば、その先には幸せが待っているのだろうか。そうは思えない。今だって深い絶望の中でもカフェでゆったりとするくらいの幸せは残っている。椅子は固くて尻が痛いから、絶望も入っているが。

 きっとこれからも絶望は積み重なっていく。小さな幸せで沸き続ける絶望に耐えながら、知らないふりをして心に蓋をしながら、生きていく。

 けど、いつか底が見えない程満たされた絶望は、少しの希望ではどうしようもなくなってしまう。輝く一滴の雫じゃ、濁った海の底を照らすまでもなく、溶けて絆される。

 コーヒーにミルクを入れると、まったりした味が口に広がる。少し入れすぎた。黒かったコーヒーは、もうかなり白みを帯びた茶色になっている。変わってしまった色はもう戻せない。歪んでしまった関係が戻らないみたいに。

 絶望は積み重なる。一つが、軽くなることもあるだろうが更に、その上にまた積まれていく。ふと気づくと、僕を溺れさせるほどに絶望が纏わりつき、やがて光すら見えない程、深く沈み込ませるのだろう。

 きっとそういうのが運命だよと、僕はベートーヴェンに言ってやりたかった。

 

 カフェから出て、しばらく町をうろついた。

 正直、カフェを出た時点でもう帰りたい気分になっていたがこのまま家に帰っても、鬱々とした気分は晴れるどころか増していたので、より家に引きこもる事になることは分かっていた。どこかで気分転換しないとならない。全てベートーヴェンのせいである。

 まだ六月だというのに馬鹿みたいに外は暑い。

 カフェから出て、太陽から逃れるように北へ歩く。

 大通りの横には、飲食店が並んでいる。車の音や横の飲食店から漏れ出てくる香りが別々に雑然とした情報になって脳に入ってくる。お腹が空いてきた。けど、何が食べたいのかよく分からない。適当にさっきのカフェで食べれば良かったと思った。

 飲食店を見ては、今何を食べたいか考える。何件か通り過ぎて結局ラーメン屋に入った。

 さっぱりとしたラーメンを食べ終えて、店を出た。お腹に空きがないくらいの満腹で、これ以上の音とかの情報が入ってくるだけでも気持ち悪い気がした。情報酔いする気がした。

 騒音もうるさい色の広告もない住宅街に続く道に逸れた。

 大通りとは打って変わり、住宅街は物静かだった。僕が歩く音と、時々横を通る車の音、遠くに聞こえる子供の声。ああ、そういえば近くには小学校があると思い出す。

 この道は子供の頃に歩いたことがあった。ていうか、走り抜けていた。何人かの友達と鬼ごっこで、この道のアスファルトを高く鳴らした。今思えば相当危ない。

 僕の家はこの辺りではないし、学区が違うから家から近い小学校に通っていた。当時、色々な場所の道路を使って鬼ごっこをするのが僕らのクラスの男子の中で流行っていたのだ。その一環でわざわざここまで歩いてきて鬼ごっこをしていた。再度重ねていうが、相当危ない。

 やや懐かしい気持ちに浸るも、なんの変哲もない普通の住宅街であるため、特段見るものもなく、結局空を見ながら歩いていた。青くて、眩しい。

 こんな爽やかな空の下、健康な若者は学校にいるのが普通だろう。普通に授業を受けて昼休みは友達とご飯を食べたりして静かに日常の幸せを噛み締めているのだ。それに対し、僕は住宅街を浮かない顔で無粋な暑さを与えてくる夏という季節と地球温暖化を憎みながら歩いている。魚介のさっぱりとしたスープを吸ったというのに、心はギトギトと油が纏わりついているようだった。不愉快極まりない。

 空を見上げながら、ぼうっと歩いた。空には雲一つない。一面に澄んだ青のみが広がっている。

 心地の良い晴れ渡った空を見て、青には魔力があるのだと思った。空や海とかはずっと眺めていれるような、人を引き寄せる力がある。

 空も海もちっぽけな人間からは全貌が掴めない程、巨大だ。

 空で言うと、空の果て、成層圏を超えた先には果てしない量の星々が光を放っている、天然のプラネタリウムがほぼ無限と言えるほど広がっている。果たして宇宙人と呼ばれる存在がいるのかは僕には分からないが、研究者によっては、いない方がおかしいとまで言い切るのだ。きっと、何百何千と僕らが一生触れ合わない、見ることすら叶わない生物がこの宇宙にはいるのだろう。宇宙には圧倒的な不可思議が内包されている。いや、むしろその不思議の中に地球は包まれていることになる。きっと僕という存在は宇宙からすると、あまりに小さく、また無知蒙昧なものに過ぎない。だからこそ、ミステリーの塊みたいな宇宙に無意識に惹かれ、焦がれるのかもしれない。

 海もそうだ。人類が海の地形まで把握できている範囲はとても少ないらしい。地球上に占める海の割合が多いのに対し、わかっていることはあまりに少ない。海の表面の美しい青の果てには深海。光が届かないそこには宇宙のように暗くて広大な未知の世界が広がっている。空も海も外から見える美しい青の果てには、暗黒の未知が潜んでいるのだ。

 ふと視線を空から下げると、横に小さな公園があることに気づく。なんとなしに入ってみる。古びた団地の横にあり団地同様、一つ置いてあるベンチは年季が入っているように見える。

 その公園はもしかしたら、公園とは言わないのではないかと思うほど小さかった。駐車場の横に、ベンチとブランコと砂場だけがある。周りに仕切りとかはなくどこからでも入れるから、ここはもしかしたら場所が空いていたからブランコと砂場とベンチを置いてみただけなのかもしれない。

 砂を被ったベンチに腰掛ける。公園と呼ばれるか分からないその広場は、ちょうど団地が影になっていて日陰だった。駐車場を見ると車が少ないし、ベランダを見るとあまり洗濯物がかかっていないからあまり人が住んでいないのだと推測できる。

 ベンチに深く座って目を瞑った。

 今頃、黛はどうしているのだろう?

 きっと、普通に学校にいて、授業を受けている。そして、もしかしたら放課後は引退した部活にも顔を出したりしているのかもしれない。

 あの試合の後、黛は僕ら部員たちを前にして話していたことを思い出す。

 「今まで、みんなありがとう。俺は部長として出来る限り頑張ったつもりだったけど、多分至らない部分もあったと思う。それでも、みんなが各々支えてくれたから、ここまでやってこれた。俺たち三年はもう部活から退くけどこれからも頑張ってください。本当にありがとうございました」

 最後には黛は涙ぐんでいた。皆も神妙な顔つきで黛を見ていた。しんみりした雰囲気のまま、顧問が話を引き継いだ。

 僕はどこか冷めた気持ちでそれを見ていた。

 「三年生はこれで引退だが、今までよく頑張ってくれた」

 この場になんで、赤石がいないんだろうって思った。

 「ずっと頑張ってるみんなの姿を見て、俺も頑張ろうって思ったことも今まで何回もあるんだ」

 どうして、僕はここにいるんだろうって思った。

 「確かに試合には負けたけど、ここにみんなと立てたことにだって、俺にとっては価値があったんだ。俺は顧問だけど、みんなと一緒に戦ってるつもりだったから」

 みんなに赤石は含まれてないのかよ。

 「まぁ、強いて言うなら、もうこれで三年生と部活で会う機会がないのは寂しいけど」

 ああ、そういえば。

 「今までしてきた努力はこれからの人生にも絶対財産になると思うから」

 晴子は元気にしているのだろうか。

 「三年生はこれから大学行ったりとか、まぁ色々あると思うけどここで三年間頑張ったことを忘れないでほしい」

 チラリと黛の顔を見ると、黛は涙を目に浮かべつつ、満足そうな顔をしていいた。僕は目を伏せた。なんだか前の光景を見たくなかった。

 「これからも二年生と一年生はバッチリしごいてやるから覚悟しろよ」

 顧問が笑いながら言い、「えー」と後輩たちが不平を言うのが聞こえる。なんだか、幸せそうな雰囲気が癇に障った。

 なんでみんなが普通に笑えているのか理解できなかった。ここにいない赤石のことを思って、不憫に思ったりしないのだろうか。

 思わないのかもしれない。みんなは赤石の失踪の行方を結局知らない。みんな何かあったのかもしれないとは思っているが、その確証もない。死んでるかもしれないし、死んでないかもしれない。シュレディンガーの赤石だ。

 でも、黛が普通に幸せそうに笑っているのはどうなのだろう。

 黛にとっては、赤石や僕はどんな印象なんだろう。取るに足らないただの知り合いにすぎないのだろうか。だから赤石が死んでも、というか殺しても何も心を病まないのか? 普通は人を殺したとしたら、赤の他人でも多少の良心の呵責がありそうなものだが。

 僕は黛の何を知っているんだろう。

 もう何もかも分からなくなっていた。

 赤石が浮気したのも、それを興味半分で調べようとした僕も、赤石を殺した黛も全部。

 自分の中を構成する自信とか価値観とかが壊れたみたいだった。見えているものが全部間違いだったみたいな感覚だ。今まで見てきたものは、それこそ海や空の青さだけを見ていてその本質は見ていなかったかのような。

 僕にとっての黛は、なんでもできる優等生で誰とでも分け隔てなく接する優しくて、尊敬できる人間だった。

 でも、実際の黛は僕の思っていた人間ではなかった。

 黛は赤石を殺して、それでも普通の顔をして生きていられる人間だった。僕にとっての黛は殺人なんて絶対に許さないはずだった。

 黛が言うには、赤石をどうしても許せなかったと言うことらしいが僕には全くもってその感覚が理解できない。浮気が許せる許せないの話じゃない。罪の大小の話だ。浮気の罰が死だなんて、狂っている。浮気より、殺しはよっぽど忌避されるべきことだ。

 黛の内奥にあるものは、破滅した倫理観だった。

 それの餌食になった赤石が可哀想だと思った。友人に殺され、部活の後輩にはあまり心配されていない。警察が赤石の行方を捜査している筈だが、黛は未だに捕まっていない。まだ、黛の犯行はバレていないのだろう。

 赤石の無念を晴らすには、やはり警察に伝えるべきなのだろうか。法に委ねて黛に然るべき罰を与えてもらうべきなのだろうか。

 きっと、それが社会的には正しいだろう。でも、それは僕にはできなかった。

 黛が仮に警察に捕まって、赤石が殺されたと世間にバレたらのことを考えると怖かった。僕が考えることではないのかもしれないのかもしれないけど、黛が社会からバッシングを受けたり、赤石が死んだことが世の中に知れ渡ったり、また物知り顔のコメンテーターが若者を一括りにして抽象的な批判をするのを僕は嫌だと思った。僕の友人が世間から注目されたり、また好き勝手に世間話のネタにされるのが我慢ならなかった。

 それは紛れもない僕の本心だった。でも、心のどこかで黛が罪を償わされるのを願ってもいた。そうすれば、僕の心の陰りにも、とりあえずは区切りをつけられる気がしたから。

 そう、僕は区切りをつけたかったんだ。赤石の浮気疑惑を聞いた時も、赤石の失踪を調査しようとした時も、僕は自分の中での納得できる落とし所を見つけようとしていた。僕は自分が知らないうちに何かが終わってしまうことを怖がった。全部、知っていたかった。僕は心配事をふとした時に蒸し返してしまうから、心配事を思い返す度に胸が苦しかった。僕は理解者で、何かをしてあげたいと思っていた。

 でも、全部のことは僕を蚊帳の外にして進んでいた。僕が知るのは決まって、全部終わってからだった。

 いつもタイミングを逃しては、後悔している。それが常だった。自分の不甲斐なさに涙が出てきた。

 辺りは、まだ明るい。ここに座って、何分経ったかは分からないがそう時間も経っていないだろう。

 ベンチに座って顔を伏せながら、泣いた。何に対して泣いているんだろう。分からなかった。

 もう、僕らの関係は元には戻らない。晴子に合わせる顔もないし、赤石は死んだ。

 もう、タイミングを逃してはならない。何かしなければならない。今度はボールを取りこぼさないようにしないと。砂場で、漫然と泥団子を作り続けるわけにはいかない

 僕は何をするべきなんだろう。赤石、黛、晴子と僕にとって最善の落とし所はどこにあるんだろう。

 唇を噛んで、声を殺した。下を向いていると頬に涙はボロボロ流れ、やがて顎から落ちた。涙が足元の土を湿らせて、そこだけ黒くした。

 そうやって泣きながら考えて、僕は一つの解決方法を思いついた。

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