5年前⑯

 梅雨のせいで、ここのところずっと雨続きだ。

 最近は家を出る時傘を手放せないし、朝起きるとまず体がじっとりしていて嫌になるし、何かと触る部分が湿っていたりして気持ち悪い。

 天気が悪いものだから、気持ちもすっかり晴れない。バスケのプレイも復調せず、ずっと酷いコンディションだ。最近はミニゲームの時にボールが回ってくることも少なくなった気がする。ボールを持っては奪われていたのだから当然ではあるとも思うけど。

 早いもので試験が終わってから、さらに一週間が過ぎて今日がインターハイ県予選初日である。

 朝、現地会場で松陰高校バスケ部は集合した。会場はあまり新しくはなく、こぢんまりとした印象を受けるが、中に入るとかなり広いことが分かる。

 去年も、この会場で開催されたので、ここに来るのも大体一年ぶりになる。

 うちの学校は早速一回戦の第一試合だったため、すぐに試合となった。

 僕は今、コート脇でストレッチしている。もしかしたら直前でスタメンから外されるかもしれないと思っていたがそんなことはなかった。正直、今の状況でまともに試合ができるか分からないから外してもらえた方が良かった気もするのだが。

 主審の笛で整列。両チームがコートに一列に並び向かい合う。うちのユニフォームは白の上下の服に中央に「SHOUIN」とあり、番号がプリントされている。正面の相手チームを見ると上白下赤のユニフォームに、これまた中央に高校名があった。

 「今まで僕らは精一杯頑張った。自分を信じて頑張ろう」

 試合前に黛が言っていたことを思い出す。僕に対してだけ言ったわけでもなく、チームメイトの前で言っていたことだ。黛の言葉を聞くと、みんな引き締まる。ここが成果を出す時だとみんなが肌で理解する。辛かった練習も今日のためにあったのだと。それだけに僕の場違い感が凄いと思った。今の僕は確かにできる限りはやろうとは思っているが、なんというか、そこまで闘志がない。ただやるからには頑張ってみよう程度のモチベーションだった。

 顧問が「行くぞ、松陰!」と強く声を出して僕らをコートに送り出す。僕らも「応!」と強く答えてコートの中に入った。一人腑抜けた返事をした奴がいたが、よく聞くと僕だった。

 コートに入り、ポジションに着く。

 コートに入ると僕でも驚いたことがあった。それはさっきとは違い、ここで勝ちたいという純粋な気持ちが頭に湧いて来ていたからだった。

 コートの空気は選手の緊張で濃いものになっている。選手各々の闘気や焦りが体から抜け出しているのか空気が間違いなくコート外とは違う。ゲームの開始時間に近づくにつれ、空気中の闘気のようなものの密度は濃くなり僕を息苦しくさせる。それは、僕に恐怖に近いような興奮を覚えさせた。

 肌がパチパチと震える。これは、緊張? それとも歓びだろうか? 

 試合が始まる前には、必ず僕はこの感覚を味わう。試合が怖くて、楽しみで仕方がないみたいな感覚が僕は好きだった。

 興奮する頭の中の冷めた客観的な一部は試合というのは残酷だと思った。それは、上から降り注ぐ照明だったり、周りにたくさんの観客がいるということもそうだ。天井にぶら下がる照明からは熱すら感じるくらいの光が振り下ろされる。それはプレイヤーの動きを周りに曝け出し、周りの人はそれだけで僕らのことを評価する。今までの努力とか関係なく、この試合の点数が冷酷に僕らの価値を評価される。

 緊張で凝り固まっている指をほぐすみたく、閉じたり開いたりする。それから足をぶらぶらと振り回した。意味はない動きだけど、なんだか不要な緊張が消えた気がした。

 視界が暗転する。目を閉じたから当然だ。すると、さっきまでの熱を帯びた光とは反対に、爽やかな風が体を吹き抜けた。遠くに聞こえる夕方の時報。学校の体育館の埃っぽい空気を感じる。涼しい風を顔に受ける。人の多いここで涼しい風が吹くことなどない筈なのに。

 僕は胸一杯に風を吸い込んだ。その時嗅いだ風の香りは確かに海の香りだった。よし、集中できてる。

 試合開始のブザーが、今鳴る。

 

 試合中、僕は久しぶりに普通にプレイできていた。むしろ冴えていた。

 無理に攻め込まず、冷静に。でも、貪欲に。

 試合は既に最終クオーター。三点差でこちらが勝っている。時間はよく分からないが、あまり時間は残っていないはず。でも、バスケの点差は一瞬でひっくり返る。油断できない。

 「鈴鹿先輩!」

 後輩がパスしたボールが僕の手に収まった。ちょうど、ハーフラインくらいの場所だった。

 息を大きく吸い込んで、吐く。同時に足をグッと踏み込み、ボールを地面に叩きつける。パスはせず、自分で駆ける。

 一人をそのまま抜くと、相手チーム全員が目を剥いた。前からすぐプレスに来るのを見て、僕はシュートに見せかけてパスをする。ボールが弾み、パスを受け取った二年生はボールを睨みつけるみたいにしてから、すぐにシュートを打った。打ったシュートはリングに弾かれ、僅かにずれて入らない。

 リバウンドは相手が取った。競り負けた黛は着地が上手くいかずコケた。

 「うおっ!」黛が倒れて呻いたのと同じように僕も心の中で悲鳴を上げた。

 相手方のベンチが湧く。

 「行くぞ、カウンター!」ボールを持った相手選手が言った。来ないで、カウンター! と僕は懇願した。 

 僕は体を反転させ、走った。僕の横を相手が投げたパスが切り裂く。パスは綺麗に選手の手に収まった。まずいと思った。うちのチームはだいぶ前のめりになっていて、守備が整っていなかった。僕も必死で戻るが、僕がゴールに着く前にあっさり相手チームはレイアップでネットを揺らした。

 これが、良くなかった。

 点を取られたとて、まだ一点分こちらが有利であると考えれば良いのだ。実際僕らもそう思ってたし、相手もまだこのままでは負けることは変わりないことは分かっていただろう。だが、やはりこちらはどうしても動揺してしまった部分はあったんだろう。

 そして、リズムが崩れたこちらのチームは、それから一分くらいしてすぐに失点した。コートの中盤で、あまりにお粗末なパスミスをした。遅いパスが空中で掻っ攫われ、そのまま失点。

 相手方のベンチが一層、湧く。

 「落ち着いてけ。もう一本」

 黛がドリブルをしながらもう片方の手で指を上に突き立て、言った。

 相手チームが湧き上がり、うちのチームは唐突に負けが濃厚になる。でも、まだ一点差。逆転できる状況だ。まだ試合は終わってない。

 チラリとタイマーを見る。あと三十秒。おそらく、ラストゲーム。

 「優希!」

 黛がパスを僕に送る。その時、いい位置に走り込んだ後輩と目が合う。選手と選手が入り混じる間にパスを通した。ほら、行け。

 パスを受け取った後輩はドリブルで進む。僕ら全員最後の攻撃だと理解していた。ゴール前に僕らは殺到する。

 走っている間、なんだか時間がゆっくり流れているように感じた。眩しい照明、肌に張り付くユニフォーム、守りきれと叫ぶ声、気合い入れろまだいけるという声。走馬灯みたいだと思った。もっとも今際の際でもないし、何かを思い出したりした訳でもないのだが。頭の中で色々なことが交錯するような感覚だった。

 ボールを持った後輩はプレスをかけられつつ、スリーポイントのラインから打った。ボールはゴールに掠らず、落ちる。けど、落ちた球を取ったのは黛だった。攻めは終わらない。

 敵に触られないよう、黛は後ろに倒れ込むようにしながらシュートを打った。誰もその球は触れない。ボールの描くなだらかな放物線が、高く上がる。  

 「行け…」僕は呟いていた。

 時間が止まったみたいだった。誰もがボールの行方を目で追い、一瞬コートの誰もが動きを止めた。ボールの縫い目が回転するのだけが時間が普通に流れていることを教えていた。

 呼吸を忘れて、ボールを見ていた。

 だから、リングに弾かれて真横に飛んだボールが僕の方に来てもキャッチできなかったのだろうか。

 「うおっ」目の前に飛んできた球に驚いて、咄嗟に手で弾くみたいになってしまった。弾かれたボールは僕の頭上を通って、タッチラインを割る。

 「ああ…」

 試合終了のブザーが鳴る。観客もフィールドのプレイヤーでさえ、拍子抜けするような、つまらない終わり方。

 敵チームの歓喜の声が聞こえる。確かに、あっちからすると残り数分で逆転勝ちをしたのだから当然だろう。

 僕らのチームは呆然と立ち尽くしていた。残り数分で逆転負けをしたのだからそうなるのは、自明だ。

 心のどこかでこの試合は貰ったと思っていた。とりあえず、一回戦は突破できると。

 審判がチームを互いに向かい合わせた。礼のタイミングで観客席から拍手が聞こえてきた。何に対する拍手だよと心の中で毒を吐く。僕のせいで負けたわけじゃないのは分かっていた。けど、僕が試合の興を削いだのだとみんなが思っている気がした。終わり良かったら全て良しなら、終わりを悪くした者は戦犯だ。

 ふと、脳裏によぎったのは、この三年間のこと。この試合で三年間の部活が終わりだということを意識したからかもしれない。

 部活に入ってから赤石と黛と出会った。先輩は厳しかったし、練習はハードだったから同じ時期に入った一年生の二人がすぐに来なくなった。僕自身、部活を辞めたいと思ったこともあった。それも結構な回数。けど、赤石と黛がいたから、続けられた。

 今、この場に赤石がいないことが信じられなかった。僕にとって、黛と赤石がいるのがバスケ部だった。後輩もいるけど、やっぱり僕にとってはあの二人が僕にとっての部の全てだった。

 ベンチに戻る時、頬に涙が伝った。赤石がいないことが悲しいのか、試合に負けたことが悔しかったのか、何で泣いているのかは分からなかった。

 

 

 

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