5年前⑮
翌日の寝覚めは最悪だった。
朝、目覚ましに起こされたが、どうにも学校に行く気が湧かず横になったままでいると、そのまま二度寝してしまい結局起きたのは十時過ぎだった。
目が覚めてスマホの液晶を突っつくと、画面に大きく時刻が出てしばし硬直した。とっくに登校しなければならない時間を過ぎた時間が表示されていた。硬直から解放されるとベッドから跳ね上がった。起こしてくれよと母を呪ったが、母が仕事で家を出る前にそろそろ起きないとまずいと一応言ってくれていたことを思い出し、溜飲を下げた。
顔を洗う時首元が少し赤らんでいた。シャツの襟を少し持ち上げて隠せないか試すが無理だった。多分バレないだろうと思い直し、そのまま家を出た。
学校に着く頃にはもう十一時を過ぎていた。授業中の教室に入る時、教師に遅刻理由を伝えて教室に入った。寝坊ですと言った時、クラスのどこからか笑い声が聞こえた。僕は誰が笑ったのかも見ずに席に着いた。
席に着いて、バッグから教科書を取り出す。黒板を見ようと、教壇の方に目を遣ると黛が視界に入った。ノートを机に広げて普通に授業を受けている。あんなことを告白した次の日とは思えないほどに自然体だった。
僕は授業中、ずっとなんだか集中できなかった。たくさん寝たのに、まだ寝不足みたいなそういう気怠さを感じていた。
黒板を見ようとすると、毎回黛が視界に入った。その度、咄嗟に目を背けたくなる。黛を見ると、教室にはいない赤石と晴子をどうしても思い出してしまう。そして、僕はどうしようも無い感情に呑まれてしまう。悲しさ、居心地の悪さ、憤り。色々な感情が混ざり合い、ただただ絶望としか表現できないような所まで堕ちる。
そこでは、外で起こるあらゆる現象が遠いことのように感じる。授業も、窓の外から注ぐ光も、横から聞こえる小さな話し声も、どこか別次元のことのように感じる。僕だけこの教室から、この世界から、一人きりの遠い場所にいるみたいだった。
授業が終わり、教科書をバッグに入れようとすると前から声をかけられた。
「おはよう優希。寝坊?」
声をかけていたのは、黛一糸だった。
「う、おはよう。うん…寝坊…」
僕は信じられないくらい尻すぼみになった返事をした。心臓の音が外に聞こえるんじゃないかと思うくらいうるさかった。
「見て、俺さっきの返されたテスト九十点だった」
黛は僕に無邪気に笑った。その時、黛は普通に僕に喋りかけただけなんだと悟った。ただの友達に喋りかけるのにストレスなんか、ない。
「うん…凄いな。やっぱり、流石だね」
そんなことを言いながら、僕は黛が何か考えているのではないかと思えてならなかった。でもそんな裏の意図なんて物は見えてこなかった。黛は本当にただ友人に喋りかけるみたいに僕に向かい合っていた。
それからも、休み時間が終わるまで僕と黛は喋った。けど、僕の考えていることは全く別だった。
黛一糸とは、どんな人間なんだろう?
終礼の前、原田が僕が来ていなかった時間のテストの返却もしてくれた。これで、全部のテストが返却されたことになる。予想通り全部の教科で推薦には響かない程度に取れていて、ひとまず安心する。
終礼が終わると、放課後になる。そして、部活がある。
あまり深く考えずに、部室に歩を進める。黛のことを考えたら、行きたくなくなるのは分かりきっていた。そして、一度休んでしまうと、もう行かなくなってしまうような予感があった。だから、行かなくてはいけないと必死に校門へと足を向けたくなるのを堪えて、体育館に向かった。
考えないよう努めても、どうしても頭の片隅に黛がずっとあった。昨日のことがずっと頭の中で再生され続けていた。水族館でイルカに夢中になっていた黛とカフェで人を殺したことを淡々と告白する黛がどうしても、同一人物だとは思えなかった。そしてあのカフェで感じた恐怖がいまだに薄れずに、むしろ時間が経って、より深みを増していた。
今日の授業中の黛はあまりに自然体すぎた。僕がおかしいのかと疑うほどに、黛一糸は変わらなかった。いつも通りに僕に接し、また他の人にも接していた。それがまた僕の恐怖を煽った。
部室に着きドアを開ける。中を見渡すも、まだ誰もいなかった。
埃臭い部室の匂いを嗅ぐ。赤石がよくしていたワックスの香りはもう少しも残っていない。赤石がもうここに戻ってくることもない。…黛が殺したから。
運動着に着替えてから、体育館に移動する。クーラーのかかっていない体育館はなんだか全体的に床がベタベタと湿っているように感じられる。キュ、キュと、どこか水っぽい音を鳴らしながら、一人でバスケットコートまで歩いた。
薄暗い体育館の上の方の窓からテラテラと陽差しが入ってくる。陽の中に入ると全身が暖かくなる。僕はそのままそこで立っていた。
しばらくして、黛が後輩と体育館に一緒に入ってきた。そして、普通に僕に喋りかけてきた。
その日の部活中、僕は本当に絶不調だった。
手が絡まるし、足も絡まる。ドリブルをすればボールがふきとぶし、シュートも外れる。自分の体じゃないみたいだった。黛一糸が視界に入る度に頭が真っ白になって、体も止まってしまうのだ。
「集中しろよ。鈴鹿」
ミニゲームの休憩の間、小さくない声で顧問はそう言った。僕が練習中に注意されることなんてなかったら、自分でも驚いた。顧問は部活の空気が緩んでいる時に気を引き締めさせるためにみんなの前で喝を入れることはあった。けど、誰か個人に何かを言うことはそうなかった。背中で後輩の視線が集まるのを感じる。
「…すいません」
僕は自分で想像するよりも小さくて弱々しい声でそう答えた。後輩の誰かがくすくす笑っていた。僕は惨めな気分になった。
今までは黛ほどではないにしろ後輩にある程度慕われていたのを感じていたのに、今はなんだか、舐められている。ミスを連発してばかりで、口数も少なくなった僕を後輩が馬鹿にするのは当然な気もするが。
部活が終わり、制服に着替えて部室を出ようとすると、黛が「あ、俺も一緒に帰る」と言った。本当は拒否したかったけど、断る言い訳も思いつかず、僕らは一緒に帰路に着いた。
「雨、やばいな」
「うん…」
強い横殴りの雨だった。さっきまで降っていなかったのに土砂降りだった。僕は雨の向きに合わせて傘を傾けて歩いた。それでも、傘から漏れる雨がズボンの裾を濡らしている。
二人で帰り道を歩く。雨が打ちつけられる音が大きくて、海の塩っぽい匂いと雨の日特有の木の根とか土っぽい匂いが混ざった感じの空気で気持ちが悪かった。
けど、横に黛がいるのが一番精神的不可になっているのは間違いなかった。信じられないくらい居心地が悪い。
「ごめんな、優希…」
豪雨の中、黛はそう言った。
「え?」
「いや、優希今日すごい思い悩んでるみたいだから。俺のやった事で心を痛めてるんだったら申し訳ないなって思って。別に優希を巻き込んだりはしないから安心してくれ。これは俺の問題だから」
いや、違う。そう僕は言いたかったけど、出たのは「ああ」みたいな曖昧な返事だった。
僕はお前が何者なのか分からなくて、怖いんだよ。
僕は黛一糸が分からなくなっていた。黛一糸にとって、友人を殺すことはどのくらいのことなんだろう。少なくとも、僕は友人を殺すなんて想像もしたくない。
駅の前で黛と別れる。黛は僕に「またね」と声をかけた。僕もオウムみたいに「またね」と返した。なるべく物を考えたくなかった。
家の最寄り駅に着き、また傘を差して細い道を歩いた。
横の車道を車が通る度、道路に溜まった水が持ち上がり落ちる音が聞こえる。バシャバシャと横から音がして、既に濡れている僕のスニーカに水を被せて靴下にじっとり染み込ませた。別に濡れること自体は嫌だと思わなかったが、やはり足が重くなって歩きづらくなるのは不快だった。
前から来る車のハイビームに目を細める。目を細めたタイミングで風がぐいっと唐突に強く吹いた。離さないようにハンドルを強く持ち続けたために、折りたたみ傘がひっくり返った。間髪入れず、無抵抗の顔面に雨が容赦なく降り注いできた。
しばらく僕は傘を元に戻さずに、そこで立ち尽くしていた。
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