5年前⑭

 僕らはそれから水族館を出て黛が好きだという、近くの古民家カフェに入った。テーブル越しに向かい合う黛がメニューを指差しながら、店員に言った。

 「季節のフルーツのタルトと、ダージリンで」

 「かしこまりました」

 「あ、同じ奴でお願いします」

 僕は黛の注文をそのまま頼むと、女性店員は「かしこまりました。少しお待ちください」と言ってテーブルを離れた。

 「なかなかいい店だろ?」

 黛の言葉を聞いて、僕は店を見渡した。

 店には、なかなか年季の入っていそうな木の柱、縁側から覗く松の木、それに普通のカフェではまずあり得ない土足厳禁の床の畳、それに反して、畳の上には西洋感を隠せていないテーブルが置かれている。古民家の見た目でも、ここは立派なカフェであると主張しているようだった。

 すうと玄関で履き替えたスリッパの間に風が入った。縁側の小さく開いた窓から入ってきた風は涼しかった。

 僕は短く、「良い店だね」とだけ言った。もっと気の利いたことを言いたかったけどとてもそんな言葉が思いつくほど安定した精神状態ではなかった。

 「さてと、何を話そうか」

 しばらくお互い無言でいると、黛はへにょりと眉尻を落としながらそう言った。僕は背筋に汗が流れるのを感じた。聞きたいことは一杯あったけど、思考がまとまらなくて僕は何も喋れなかった。黛と対面することが、こうも気まずく感じるのは初めてだった。

 気まずい沈黙の中で先に黛が口を開いた。

 「あ、そういえばさ。ちょっと聞きたいんだけど」

 「ん?」

 「なんか、俺が和馬を殺した根拠とかは別にあるの?」

 最後らへんは声のボリュームをだいぶ抑えていたが静かな店内では僕だけにしっかりその声は聞こえた。

 殺したなんていう響きが黛の口から出たことにたじろぎつつも、パリパリと乾いた口を動かして答えた。

 「…別に根拠ってことでもないよ。赤石の携帯の電話の履歴を調べてもらって、やっぱり十七時前と二十時前に黛の電話番号と通話してたから。でも、絶対に黛が犯人とは思わなかったよ。ただ喋りたくなっただけかもしれないし」

 焦っていてどうでもいいフォローをしてしまっていた。

 僕が赤石母に調べてもらった携帯の電話履歴の確認は、仮に十七時前に黛と赤石が会ったのだったら、待ち合わせのために連絡をしていると思ったから頼んだ。

 だけど、正直十七時前ならともかく、二十時前に連絡をしていることが分かった時点でなんとなく黛が失踪に関わっているとは思っていた。

 殺人ではなくとも、匿っているという可能性もないわけではなかった。それに失踪の手助けのために、二人で会ったという場合もないわけではない。

 だけど、匿うにしろ失踪にしろ赤石が生きてさえいるのなら、何かしらの痕跡は残るんじゃないかと思った。やはり、ここまで情報が集まらないのは赤石が亡き者になるしかないのではないかと僕は考えた。

 「ああ、なるほど流石だね」

 黛は参ったみたいな顔をするが、あまり深刻に捉えてなさそうに見えた。黛の表情は飄々としていて自然態だった。別に強がっているわけでもなく、本当に教室で授業を受ける黛とそう変わらなかった。黛の様子は周りでお茶を啜る中年女性達同様、カフェに来て寛いでいるだけみたいに見える。

 僕は目の前にある水が入ったグラスを口に近づける。グラスを上に持ち上げると、氷が入ったグラスの水面がびっくりするくらい揺れていて、僕の体の震えに気づいた。

 「優希、大丈夫か? 具合が悪そうだ」

 黛が僕の顔をテーブル越しに覗き込んで言った。「へ?」と間抜けな声を出して僕は顔を上げる。僕の額にはぶつぶつと汗が浮かんでいて、顔を上げた時に一滴下に溢れて、畳に染みるのが見えた。

 「ああ、大丈夫だよ」

 「本当に、今日は休んでまた今度話そうか」

 「いや、いい。…平気だよ」

 また今度だなんて、悪い冗談としか思えなかった。今日を逃したら、僕はもうこの話題に怖くて触れることができないのは分かっていた。

 というか、本当に黛は何も動揺していないらしい。僕の心配をするほど余裕もあるようだし、彼は驚くほどに冷静だった。

 僕はおしぼりを顔にかけた。あったかいおしぼりが顔に乗って、鼻の中に蒸気が広がるのを感じる。

 冷えてきたおしぼりを顔から取り、テーブルに置いた。ようやく、黛と話す心構えができてきた。僕は黛から目線を逸らさず言った。

 「あの、聞きたいことあるんだけど良いかな」

 「どうぞ、自分のペースで」元より黛は僕が質問するまで待ってくれていた。

 僕も騒がしい心臓の鼓動を静かにしようとしながら、黛に言った。

 「どうして、赤石を殺したんだ?」

 僕は黛の表情の一瞬の機微も逃さないよう見ていたが、全く変わった様子は見れなかった。少し間があったような、それか一瞬だったような、とにかく黛は変わらない凛とした表情で答えた。

 「考え方の違いだ」

 「考え方の違い…?」

 「和真の白井に対する誠意の欠けた対応というのかな。どうしても俺には許せなかったんだ」

 そう言った黛の顔には一瞬強張りが生じて、声色は尖っていた。僕は息を呑んだ。

 僕は正直、もう少し具体的なことを言って欲しいとも思った。けど、なんとなく黛はそれに触れてほしくなさそうな気がした。

 考え方の違い。そんなことで黛は赤石を殺したのか? 何が何だか分かんないが、黛はそれほどまでに赤石に許せなかったのか? 赤石を殺してしまうほどに。

 僕が口を開こうとすると、横から店員が来た。目の前に、ダージリンティーとブルーベリーがのったタルトが置かれた。

 黛はティーカップに口を付けた。すっかり話を切り出すタイミングを逃した僕は仕方なくお茶を啜った。

 口の中でほんのりと紅茶が香る。心地の良い香りで緊張が途切れかかるが、前の黛を見ると、口の中の紅茶が渋みが増して目が覚めるようだった。

 「一体、赤石と何があったんだ?」

 「ただ…和馬に対してどうしようもなく失望しただけだよ」

 「失望って…」

 黛はティーカップをソーサーの上において目を伏せた。小さく肩が揺れたのを見て、僕は黛が怒っているのが分かった。

 「俺はあの日和馬を公園に呼び出したんだ。浮気の話は聞いていたから、直接会って、どういうことか説明しろって言った。そうしたら、あいつは白井に飽きたからそうしたと言った。今はもう白井のことをうざいとしか思ってないって。笑いながら言いやがった。それで俺はあいつを許せなくなった」

 黛は不快な物を吐き捨てるようにそう言った。それを聞いて、僕も頭に血が上った。公園で赤石と別れたことを伝えた晴子が泣いていたのを思い出す。晴子をなんだと思っているんだ。

 晴子は明るくてあまり嫌なことも引きずらないが、かと言って傷つかないわけではない。内心では普通に傷ついている。赤石が無神経でデリカシーがないのは知っていても、そんなことを言うのは許せない。

 けど、それでも、

 なんで、黛が赤石を殺す必要があるんだ?

 だって、晴子がかわいそうだからって赤石を殺すなんて、流石に馬鹿げている。これが晴子本人だったら、まだ分かるが。

 黛がタルトの縁をフォークで垂直に切り落とし、ブルーベリーの乗った部分と一緒に口に含む。僕はまだタルトに口を付けず、熱気で揺れる紅茶の水面を見ていた。

 しばらくして、黛はフォークを置いた。見計らって僕は質問した。

 「赤石を…どういうふうに殺したんだ?」

 「コンクリートに詰めて沈めたんだよ。海に」

 即答だった。紅茶のティーカップを持ち上げながら、なんでもないように黛はそう言った。

 僕は途端に体が冷えたように感じた。唐突に標高の高い山に放り出されたみたいに、空気が重くて酸素が浅くなったようにも感じた。

 明確な殺し方を聞いて、より実感が湧いたのかもしれない。そんなことをさも当然のように言ってしまう黛に恐怖したからかもしれない。いずれにしても、僕の心臓は痛いほどに脈打って、とても平静を保てそうになかった。

 「うちの家は建築会社だけどさ。作業で使う簡単な化学製品は自前で作ってるんだ。それを業者向けに売ったりもしてる。だからさ、本当は良くないんだけどコンクリートとか、簡単に取ってこれちゃうんだ。だから…」

 黛はそこで言うのをやめてしまった。黛に萎縮しきっていて顔を下げていた僕が話を聞いていないと思ったのかもしれない。

 黛の家が会社を持っていることは僕も知っていた。駅の先にある豪邸が黛の家である。不可能ではないのだろう。

 でも、信じられない。信じたくなかった。

 赤石は殺された。黛の手によって。その情報が頭の中で延々と交錯する。頭の中でくるくるとそれが回り続けるが、なんというか腑に落ちないというか納得できなくて、それが速度を落として回転を止めることはなかった。

 これがもし、別の誰かだったらまだ良かったのだろう。けど、よりにもよって黛がやったのだ。僕が尊敬していた友人の黛一糸が。

 訳が分からなくて、僕は言った。

 「…警察に捕まらない訳ないじゃん。そんな事するなんて馬鹿みたいだ」

 「俺は捕まる捕まらないでやる事を決めてないからね。俺がしないといけないと思ったからしただけだよ」

 「…本当に捕まったとしても、同じことが言えるの?」

 「言えるさ」

 黛は僕より上に視線を据えてはっきりそう言った。その目には絶対にそうだという確信があった。

 何も腑に落ちていない僕は口をもごもごさせながら何を言おうか考えていた。頭の中の思考はあまり具体的にはならず、形にはならなかった。

 「まぁ、大丈夫。優希のことは巻き込まないよ」

 そこから、僕は言おうとしていた言葉もどこかに飛んで行ってしまった。黛にこの件には関わるなと言われた気がしていた。



 僕は家に帰り、着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。ポケットからスマホを取り出し、赤石のラインを見返すと、未だに既読の付かない僕のメッセージが目に入る。そして、もうそれには既読は付かない。

 父が帰ってきてから夕食を家族と食べた。あまり箸が進まない僕を見て母が僕の様子を心配して具合を聞いてきた。僕はお腹が痛いと言って、ご飯を残して部屋に引っ込んだ。

 視界が滲んできたから、鏡を見る。僕は泣いていた。赤石も僕にとっては、黛と同じくらいの親友だった。前から赤石がもうこの世にはいない事を覚悟していた。そして、そのたびに胸が詰まって呼吸が難しくなった。今は、もっと苦しい。

 ふと、赤石はどうやって死んだのか気になった。コンクリートに埋められるのは流石に死んだ後からだし、体を溶かすのも、やはり死んだ後だろう。

 どうやって殺したのかは分からないが、なんとなく首を絞めたのではないかと思った。黛がナイフで刺したり、鈍器で思いっきり殴ったりするより首を絞める方がなんとなく僕にとっては想像しやすかった。目の裏に、赤石のくるくるとした髪の毛が黛の手に触れながら、黛は文字通り今その息の根を止めようと指先に力を込める姿を映し出した。

 それから僕は鏡に映る自分の首を見た。首は神経、血管、筋肉が詰まっている重要な器官だ。だけど、Tシャツから覗く首は、あまりにも貧弱で脆そうだった。

 僕は鏡の前で自分の首に手をかけて、絞めた。痛いし、苦しい。

 「っご…、は、は」

 顔はどんどん青ざめ、涙がボロボロ流れた。喉が潰れるみたいな音と、笑ったみたいな音が混ざって、口から溢れた。

 いよいよ苦しくなったので、手を離す。別に死にたいわけではなかった。ぐいと目元を拭い鏡を見ると、絞めた首元は赤くなり、目の下は涙が通った道ができていて、無理やり拭ったから髪にまで涙が付いていた。

 血走った目を瞑って、ベッドに倒れる。体がマットレスに沈む。

 目を閉じると、僕はコンクリートに詰められて、海に沈んでいった赤石の様子を思い浮かべた。ちょうど僕がベッドに沈むように、赤石は海の底へと沈み続けているのだろうか。

 深い海の底、周りを鉛色の檻に囲まれて独りきり。周りに蠢く魚や海藻に囲まれる中に、かつて人だった物質がある。

 夏の緩い海に浸かったコンクリートに水が染み込み、内側の肉体は腐臭と海水の香りが混ざったおぞましい物になる。誰もが目を背けるような凄惨で汚くて醜いものだ。

 赤石のチャラついた髪にはコンクリートが纏わりついて、彼の口には体の栓を締めるようにコンクリートの蓋が嵌まり続ける。

 赤石は死んだ後汚され続けて、永遠に小さな箱に閉じ込められ、自由になることはない。あまりに残酷な仕打ちじゃないだろうか。

 寝る時部屋の電気を消して、部屋が真っ暗にすると、きっと赤石も今何も見えない暗いところにいるのだなと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る