5年前⑪
次の日の朝起きると、じんわりと嫌な寝汗をかいていた。一度はそのまま上に肌着を着て学校に行こうとしたが、運動もしていないのにぴっちりと肌にくっつく感覚が気持ち悪くてシャワーを浴びてから学校に登校した。
シャワーに入ったこともあって、教室に入るのは朝礼ギリギリになってしまった。
教室を見回しながら席まで歩くが、晴子はまだ学校に顔を出していないようだった。
朝礼からの、一時間目。
授業が始まってから、筆箱と教科書をバッグから取り出す。筆箱から適当に筆記用具を取り出すと、昨日カフェで忘れ物として渡されたボールペンが目に入る。名前のシールを指でなぞる。
「…渡せなかったな」
僕は小さく、独りごちた。
その日は体育館で全校集会があった。全部活の壮行会も兼ねられられていて、各部活の主将がこれから控えるインターハイなどに対する意気込みなどを舞台上で語る。
そういえば、朝のホームルームの後に黛が原田に話しかけられていた。…まぁ、おおよそ予想はできる。
おそらく、伝達ミスか何かで今日まで全校生徒の前で話すことの説明がされてなかったりしたのだろう。今日の休み時間、黛は何かをノートに書いていた。きっと、台本。
黛は半日で話す用意はできたのだろうか。そう思いつつも僕は部長ではないので、普通に体育館の床に体育座りをしていた。
それでも今日から準備を始めても、黛ならきっと問題ないということも僕は分かっている。
「バスケ部部長兼主将の黛一糸です」
手渡されたマイクを口に近づけて、黛はそう言ってから僕の方に少し視線を寄越した気がした。
僕も黛を見ていた。壇上にたつ黛を見て、黛の美的な雰囲気は、このように前に立つことで引き立つと思った。黛は目の辺りが普段より緊張しているのか、強張った感じがあった。それでも、力が入った表情は何か人を惹きつけてやまない、カリスマ的な雰囲気を感じさせた。何か底の知れない強い輝きが間違いなく、舞台下の僕ら全校生徒の視線を釘付けにしていた。
「僕らバスケ部は去年のこの時期、インターハイ県大会では二回戦で敗退してしまいました。あの時の悔しさをバネに、この一年バスケ部一同、練習に励んできました。大会では応援したり支えてくれる皆様や家族、友達に感謝しつつ、全力で戦ってきます。ぜひ、応援してください」
力強く言い切った黛に大きな拍手がされる。黛はふっと息をついて横の別の部活の主将にマイクを手渡した。
それから何事もなく壮行会が終わり、全校集会恒例の校長の長いお話が始まった。京都の古い僧の話を例に出して部活に励む生徒を鼓舞していたが、殆ど聞いていなかった。もしかしたら古い僧の話だとかは前の全校集会の話だったのかもしれない。そのくらい、聞いてなかった。
全校集会が終わり教室に帰ると、そのまま終礼をし帰宅になった。
僕はなるべく早く帰ろうと思い、終礼が終わり次第すぐに下の昇降口に向かったが、もう人でごった返していた。
やっとのことで下駄箱に辿り着き、外に出る。校門から先に人が列を作っているのも知っているが、ひとまずは昇降口ほどの人口の密集ではなくなって安心する。
校門を潜り、丘道に入ると既に足を遅めないといけなくなった。前にはたくさんの生徒がいて抜かすことも難しいし、そもそも順番通りに歩けという雰囲気もあった。
国道に入ると人口密度もあってか、とても暑かった。途中で少し休憩しようと思い、国道から外れて自然公園でベンチに腰掛けた。
公園はかなり広く、開けた広場と小さな丘がある。広場には走り回る子供だったり、レジャーシートを広げてサンドイッチを食べている母子もいる。そして小さな丘の上には東屋があり、そこからは海がよく見える。
僕は広場から少し離れたベンチに腰掛けていた。広場にもベンチはあるが、日光を直接浴びるのを避けて木陰にあるベンチに座った。周りの木を見ると学校の丘に生えている桜とは違い、海の近くに生えている木という感じの風情があるものだ。下に視線を移すと名前の書いた札があり、クロマツと書いてあった。
頭上に涼しい風が吹き木がザワザワと音を立てる。空を仰いでみると雲の流れが速く、上の方では風が強いのが分かる。日向で、人で密集していた場所では気づかなかったが今日は風が涼しくて心地がいい。
ベンチに座りゆったりとしていると、僕は無性に晴子と喋りたくなった。涼しい風を体に受けて、ただ何もせず時間を過ごすようなことは久しぶりだった。もしかしたら、子供の頃に僕が晴子と一緒に近所のあの公園で過ごした時以来かもしれない。
小学生くらいになると公園でただ泥団子を作るようなこともなくなった。公園で遊ぶならおにごっこだったりサッカーをしていた。中学生になるとそもそも外で遊んだりすることはなくなったし。
晴子と話したい。でも、僕は晴子ととても話せるような状況じゃなかった。今、胸に渦巻いている不安を解消しないと晴子と話すことなんてできない。
僕は胸にあるものを吐き出すようにして、爽やかな空気を取り込もうとした。すると、涼しい空気と一緒に鼻に海の匂いが入ってきた。
自然と僕は丘の方を見ていた。東屋には人はいない。誘われるように僕は丘の上へと歩いていた。丘の上に着くと、一段と大きな風が吹きシャツの袖がブワリと揺れる。
涼風に加えて、ほのかな潮の香りがする。中々登るのに時間がかかるのもあって、そこそこ丘の頂上は高い。丘の上からは海が一望できた。
東屋のベンチに腰掛け、海を眺める。海を視界に収めると、また海が香った気がした。
高校の窓から見るより海が近い。海よりもっと近くには海浜公園だったり、住宅もあるのだがそれも気にならないほどに視界いっぱいに海が広がっている。空には雲が速く流れていて、海の表面は太陽の光を反射して輝いていた。
僕は無心でそんな海を眺め続けていた。
何分、そうしていたのだろう。携帯の連絡がかかってきて、僕は我に帰った。慌ててスマホの画面を見る。相手の電話番号は赤石母からだった。
「…」
体が固まった。緊張しているのが胸の鼓動で分かる。冷や汗が体に流れる。背筋が冷えてそこに風が入り込み体を震えさせた。
この連絡で恐らく僕が昨日した質問の答えが示されるのだろう。赤石の携帯電話の通話履歴。それが僕が立てた憶測の証明を支えるものだ。
質問の答えがどうであっても、それで何かが確定する訳ではなかった。電話の履歴をもらっても、それだけだと僕の憶測は根拠にかけていて、推測の域をでない。だけど、この要素が無いと僕の憶測は成り立たない。
この推測は僕にとって、いや僕らにとって、とても酷く辛いものだからできれば心の奥底で蓋をしてしまいたい気持ちもある。
でも、一度燻ってしまった不安は大きく、もはや知らないふりはできない。だから、僕はその確認をする必要があるのだ。
「はい、鈴鹿です」
意を決して、僕は電話を取った。
土曜日、僕は錦と一緒にファミレスで勉強していた。
目の前の錦がテーブルの真ん中にあるポテトを口に運んだ。細長い錦はゴボウとしばしば言われているが、ポテトとも似ているなと思った。ポテトは太ってそうな印象があるけど。
「鈴鹿、そろそろ夕飯頼むか?」
「ん、そうだね」
腕時計に目をやると時間は十九時くらいになっていた。来た時が昼過ぎだったから四五時間くらいはここで勉強していたことになる。周りを見ると、来た時よりも多くの人で席が埋まっていた。
錦はじっと僕を見た。僕は目をそらした。
「鈴鹿体調悪いのか?」
「いや、そんなことないよ」
「だって、二人で食べようって言ったポテトも全然食べないし。ちょっと顔色も悪いぞ。帰った方がいいんじゃないか?」
錦と目を合わすと、錦は不安そうな顔をしていた。いつもこいつは僕のことを心配しているなと思って、少し面白く思う。
「体は、大丈夫だよ。それに来週からテストだからもっと、勉強しないとな。それより、飯決めよう」
僕は話を打ち切るように、タブレットを手に取って注文を決め始めた。錦も納得がいかなそうではあったが、紙のメニュー表を開いた。
外はすっかり夜になり、暗くなっている。外ではこれだけ暗かったら、人の表情とかは分からなくなってしまうだろう。だったら僕の顔色とかも分からなくしてくれれば良いのにと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます