5年前⑥

 定期テスト一週間前に一日がっつり勉強に勤しめる日があれば、学生は当然のように勉強をするものだ。

 ましてや、三年生。成績の上下に一喜一憂し、まるばつの数に過剰すぎる程に神経質になるものだ。

 だが、僕はこの土日、ほとんど勉強をしなかった。

 土曜日はベッドから起き上がるのすら億劫で、スマホを弄って一日を過ごした。

 日曜日に、これでは駄目だと自分を鼓舞し、体を起こして図書館に向かった。図書館の自習席には同じく定期テストの勉強をしているのであろう学生や、定期テストなどは知らないと言わんばかりに受験参考書を開く者もいた。

 僕は奥の新聞紙を読んでいた老人の席の横に腰掛けた。

 ひたすら苦手な数学の演習をしようと思い、テキストをバッグから取り出す。教科書を開いて問題を解き始めるが、全く分からなかった。どこから分からないのかの究明もしなくては、ならないらしい。

 結局、二時間もしないうちにテキストをバッグに戻し、席を立ってしまった。数学は自分が果たして内容を分かっているのかすら、分からなかった。

 図書館を出て家に帰ると、僕はベッドに倒れ込んだ。

 ふとした時に晴子のことが脳裏によぎった。すると、胸がキュッと縮むような心地がした。後悔が胸を締め付けて、何も手に付かなくなってしまう。

 そして、終わらない自己嫌悪に陥る。

 とても、勉強などに集中できるような状況ではなかった。


 そして月曜日、晴子はまた学校に来なかった。

 それで、赤石はというと、普通に学校に来ていた。鼻の絆創膏がなくなったからか、僕から見て少し元気になっているように見えた。

 朝礼の数分前に後ろのドアを開けて入った赤石は明らかにクラス中から注目されていた。

 休み時間に赤石に喋りかけようか悩んでいると、クラスの男子数人から赤石と晴子のことについて聞かれた。僕は赤石のことも考えて、曖昧に答えた。赤石に悪いことを言い過ぎると良くないと思っていた。

 それからも赤石本人に聞くのは憚られるのか、僕に聞きにくる事が何度かあり、その度に適当に濁しつつ答えていたが、面倒になって休み時間は机に突っ伏して寝たふりをするようになった。

 薄々気づいていた事だが、土日を挟んで、赤石の浮気の件はタブーではなくなっていた。先週の金曜日は話題にするのも憚られる雰囲気があったのに、今は遠慮なく好奇の目を向けられている。

 驚くべきは赤石にも直接聞いている奴等が数人はいることだ。

 僕は寝たふりをしたまま赤石達の話に耳を傾けた。

 「お前やばいな」「彼女かわいそー」「やめてくれよ。もう反省したって」

 みんな笑いながら話しているのが聞こえてくる。赤石も、笑っていた。

 赤石は僕の想像以上に、みんなにもう受け入れられていた。晴子との事が笑い話に昇華されるくらいに。

 僕は嫌な、鬱々とした感情を覚えた。

 先週は孤立してる赤石に同情していたのに、普通そうにしているのも気に入らなかった。孤立してるのは可哀想だけど、もっと深刻そうな顔をしていてくれ。晴子があんなに傷ついてるのに、お前は幸せそうだな。もっと、この世から消えたそうな顔をしててくれ。そう思った。

 自分のそんな感情すら、嫌いだった。



 下校する頃には、すっかり赤石に喋りかけようと思っていた気力も失せてしまった。

 学校から続く坂を下りながら、いつかまた赤石と普通に喋れる日が来るのだろうかと思っていた。

 横には黛がいた。終礼後に黛が一緒に帰ろうと僕に声をかけて、僕は黛と帰路についていた。だけど、僕らの間に会話はなかった。なにか、黛が話を切り出そうとしているのだと僕は思ったが、あえて気づかないふりをしていた。

 テスト期間で全部の部活が停止になったことで通学路は学生達で溢れていた。この列は国道から駅まで続いていることを今までの経験で僕は知っている。普段なら二十分くらいで着く駅にこの一週間は三十分近くかかることも知っている。先を考えると思わず溜息を吐いた。

 丘から、国道まで下りる。今までの丘道には頭上に木があった。そのため開けた国道に入ると、木に遮られていた太陽光が頭に降り注いでくる。この紫外線にこれから十分以上も晒されるんだから日焼けは避けられない。

 予想通り、田舎の広い国道には我が松陰高校の学生が大群を成して歩いていた。僕はいつも日が沈んでからの国道を歩くものだから、この光景は、もはや異世界のようだ。

 海の匂いとじんわりと滲んだ汗の匂いが鼻にかかって、気持ちが悪い。

 僕は水を口に含まないと熱中症になる気がして、片手には麦茶のペットボトル、もう片方にはハンカチを持って度々汗を拭いつつ、暑さと必死に格闘していた。

 長い隊列のどこからか、舌打ちが聞こえてきた。皆内心、この行列に辟易しているのだった。

 騒がしい中で、その声だけがはっきりと聞こえた。

 「優希は和馬の浮気のこと知ってるのか?」

 ペットボトルを傾ける僕に、黛はそう言った。黛の方に振り向くと、彼もこっちをまっすぐ見ていた。

 黛が知っていることについては、もはや驚かなかった。クラスの中で普通に話題にされているんだし、知らない訳がないだろうと思っていた。つまり、僕があの場の証人であることも知っているのだろう。

 「まぁ、少しは」

 「和馬は本当に浮気してたのか?」

 僕は空になったペットボトルのキャップを閉めた。

 僕は学校でも、この手の質問をされては適当に流していた。表現は曖昧に、結論も不透明にする事で、なんとか質問する奴を遠ざけたかったから。

 僕の顔を見ている黛の首に汗が流れた。見惚れていたのか、黛の汗が顎から喉仏を伝って、シャツに染み込むまでを僕は観察していた。

 綺麗な物が僕を見ていた。黛の目は吸い込まれそうな程、澄んでいた。海のように深く、入り込んだものをどこまでも吸い落としてしまいそうな目だ。

 だからだろうか。

 「してたよ」

 僕は極めて簡潔に、踏み込んだことを口に出していた。

 黛の目が揺れる。海の水面が揺れたみたいだと思った。

 「そっか」

 黛はもう、こっちを見ていなかった。


 その夜、夢を見た。あの日の夢であることはすぐに分かった。

 晴子が赤石を殴り続けて、錦が晴子を引き剥がす。

 晴子が去って、赤石もその場をよろよろと去っていく。

 錦は呆然と空を仰ぎながら、歩いていく。

 それからも、砂浜で時間は流れる。潮が満ちて、引く。朝が来て、そして夜に沈んだ。

 どのくらい時間が過ぎたのだろう。

 夜の海だった。青年が浅瀬を歩いていた。膝くらいまでズボンをまくり、水平線の奥を見据えるように、遠くを見ながら歩いている。何もかも飲み込みそうな黒い海は、星のない黒い空と同化し全てを覆い尽くすほどの、大きな黒い物体に見える。

 僕は、ずっと砂浜で泥団子を作り続けていた。晴子が赤石を殴っている時から、青年が浅瀬を歩いている間も、ずっと。

 周りで起きていることに、恐ろしく鈍感に。

 きっと、何が起こったのか知るのは全て終わってからなのだろう。

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