5年前④
「では、始めてください」
教室がザワザワしだした。それからしばらくして僕が首を教壇から目の前に戻し、僕らは向かいあった。
「よろしく。晴子」
晴子は仏頂面で頷いた。
赤石の放課後の尾行を始めて数日。その日は英語の授業はランダムで教師が班を作ってから、ディスカションをする授業だった。
英語の教師は佐々木という僕らの学年の主任の男であり、しばしばこのような形の授業をすることがあった。ポリシーは英語は喋らなきゃ意味がないとの事。
特徴的な広い額にはクーラーの下にも関わらず、汗が浮いている。
クーラーをもってしても暑い日だったが、僕はクリアファイルを扇ぎ、顔を冷やしていたため快適だった。
しかし、状況は突如として変わった。
授業が開始し、教師はクラス中を見まわすようにしながら、
「山田さんは川波くんと。椎名くんは早川くんと」
というふうに、適当に2人1組を作る。
佐々木曰く、普段喋らない人と喋ることでクラスの団結を深めることが目的だそうだ。団結が深まっているかは知らない。
「森山さんは五十嵐さんと。白井さんは鈴鹿くんと」
瞬間、僕の背筋に寒気が走った。白井?
僕の窓際の席の近くに椅子を引きずってきた晴子は席に座ると、すぐ窓の外に意識を飛ばしていた。
僕は晴子に話しかけた。
「なんか、しばらく僕達喋ってないよね」
「そうだね」晴子は淡白に一言そう言った。
教室ではそこかしこで英語が、そして全く関係のない雑談が聞こえる。
「…最近、部活終わりも赤石を迎えにこないよね。なんかあったの?」
「…別に。定期テストの勉強で忙しくて」
僕は結構踏み込んだ質問をしたつもりだったが、晴子は受け流した。
僕は晴子とは最近あまり話せていなかった。僕が赤石の浮気調査をしている手前、晴子と話しづらかったのもある。それにしても、晴子の様子はおかしかった。僕以外とも話す時のテンションが明らかに低くなっていて、休み時間はしばしば誰とも喋らずに視線を宙にさまよわせているのを見た。
もう赤石と別れたのでないかとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。赤石と晴子が別れたという話も聞かなかったし、赤石の様子も全く変わらなかった。
赤石がもう晴子に対する愛情がなくなっていたとしても、彼女と別れて多少なりとも落ち込んだりしないというのも考えられなかった。彼の場合、なんなら自分から「別れた」とも言ってきそうだとも思うし。
それはそれとして、今は授業中だった。気を取り直してディスカッションをしなければならない。
ディスカッションの課題は『高校生の海外留学をするべきか否か」についてだった。僕が賛成派で晴子が反対派になり、ディスカッションをすることになった。
「えっと…I think that more high school students should study abroad because…」
私はもっと高校生は海外留学するべきだと思う。なぜなら…。
僕は早速そこで次の言葉に詰まった。そもそも、僕が留学したことがないのに留学のメリットなんか分かるわけがない。ペラペラ喋ったとしても、「留学したことないのに分かったようなことを言うな」と言う感じもする。
「…because they grow their abilities of communicating 」
…なぜなら、彼らはコミュニケーションの能力を成長させることができるからです。
なるほど留学に行かなかったら、ここまで人と喋ることができない人間になってしまうのかと僕は納得した。なんとなく最近気まずくて晴子と喋りづらいと思っていた僕は、今になって留学に行きたくなっていた。
それからも、僕は時々単語を調べつつ拙い英語で、晴子は程々に流暢な英語でディスカッションを行った。
ディスカッション中、チラチラと晴子の顔を伺った。晴子は窓から入ってくる光に眉毛が輝き、元の容姿がそこそこに整っていることもあって、どこか儚げなものを覚えた。
ディスカッションが終わり、晴子は小さく「じゃ…」と言って席を立って、元の席に戻った。正直、ほぼ音と言った方が良いくらい小さい声だったため、全く別のことを言ったのかもしれない。僕に放った言葉だったのかすら微妙なところだ。
儚げ。ともすれば、美しい印象を与える言葉だ。しかし、僕にとっての晴子の印象はそんなものじゃない。儚げなんてものからは一番無縁だった筈だ。触れたら壊れそうなんて表現は彼女には合わない。
晴子は活発で、僕のことをすぐ叩いて、殴る。そんな彼女が僕に対して、殴ることはなく、なんなら喋るのを避けるような態度を取るのは考えられないことだった。
彼女がこうなった理由ははっきりしている。赤石の浮気疑惑だ。
僕への態度とは裏腹に、赤石にはとても女子らしい雰囲気の晴子は、赤石と直接会話するのを避けているのかもしれない。僕に問い詰めたりする時、対話の先に手が出そうな晴子だが、その実、彼女はとても繊細なのだ。こればっかりは幼馴染の僕だからこそ分かることだが、彼女は結構傷つきやすいところがある。そんな繊細で、ナイーブな晴子は赤石に問い詰めたりもせず、ただ不安な思いをしているのかもしれない。
だが、そんな思いを抱えていても表に出さないのが晴子だった筈だ。少なくとも僕らがある程度大きくなってからは。
やはり、僕が二人の間に入った方が良いのだろうか。二人の友達として、僕が彼らの緩衝材になって…。
頭を振った。いやいや、ばかばかしい。僕は苦笑した。
この一件は僕は関わらないと決めた筈だ。もう僕が悩むことは何一つとして、無い。
僕は傍観者。ただ外野から楽しむだけだ。
満天の星がかかった夜だった。
その日は部活が長引き終わるのは遅かった。そして、また僕と錦はすっかり暗くなった丘の坂を下りつつ、赤石を尾行していた。
浮気調査を続けて一週間ほど経った頃で、すっかり小慣れたというか、緊張もなく歩く。「なんか、ストーキングに慣れるのも複雑だな」と横から言う錦の言葉に、僕も渋い顔をした。
国道に出る前の一行を見てしばらくして、僕らも国道へ出る。置いていかれないために小走りで、されど、静かに。
小さい小道に逸れた赤石の背中を見つけ、速度を落として尾行を続ける。
街灯しか照らすものがない暗い住宅街。一週間通り続けたこの道は横に用水路があり、とくとくと水が流れる音が聞こえてくる。逆に、それ以外一切何も聞こえないくらい静かで、今少しでも声を出したら、すぐに赤石に気づかれそうだと思う。
おやと思ったのは、赤石がスマートフォンをいじりながら普段、家に帰る道から逸れた時だ。
錦と目を見合わせる。
錦は目を大きくして、口元を綻ばせていた。
「まさか」錦もそう思ったに違いない。
膝が震えていたのを見た時、僕は自分が楽しんでいることに気づいた。赤石が浮気をしないでいてほしいと思いつつも、いざ調査の成果が出るかもしれないとなると、興奮が抑えられない。
両側の家から暖色系の光が窓から溢れていて、ふと見えた錦の横顔は光を受けて頬の肉がてらてら光っていることを加味しても、露骨に興奮が滲み出ていた。
「やばいって、やばいって」
僕らは二人とも阿呆みたく同じことを言っていた。
こそこそ忍び足をしながら民家のカレーの匂いを嗅いでいる中に、ツンと鼻を刺す匂いを感じた。海が近い。
狭い道を抜けると、途端に視界が広がり、防波堤に沿った道が目の前に現れる。
交差点がないところだが、赤石は左右を確認するそぶりをしてから、横断する。僕らも早く駆け抜けて、追いつきたいところを抑えて、横断した赤石を見送ってからしばらく待ってから渡った。とはいっても、赤石がどこに行こうとしているかは、ほとんど分かりきっていた。
赤石は砂浜を歩いていた。
僕らは海浜公園の駐車場に停めてあった、車の影に隠れ、中腰の姿勢になり赤石の姿を確認した。
赤石の少し奥に広がる海は、夜をそのまま固めたみたく黒々としていて、昼間の光はこの黒い世界に吸い込まれたのではないかと思った。
「何か、探してる?」
「そんな感じだよな」
赤石はスマホを片手にしばしば操作しつつ、辺りを見回していた。
僕らは流石に、砂浜に出ると遮蔽物がなく赤石からこちらが見えてしまうから、かなり遠巻きに様子を窺っていた。
「あれ、誰かいる!」
錦は実況しているみたいになっていた。
赤石は片手を上げて、その誰かに歩み寄った。
その誰かの顔を見ようとするも、辺りは暗くて顔も見えないし、あまりに遠いためそもそも男女の区別もできなかった。
「間違いない。女だよ。鈴鹿」
震えた声で錦は言った。錦はスマホのカメラを使って、あの人物を見ていた。僕は歯痒い思いで必死に目を細めていたのをやめて、大人しくスマホの液晶をつついた。
果たして、そこに映っていたのは間違いなく女だった。相変わらず暗くて顔は見えないが、赤石と比較すると身長の差とかがよく分かる。
二人の影は親しげに会話していた。距離もかなり近い。
僕らは、得体の知れない興奮を覚えていた。人の秘密を暴くことで感じた、胸の蠢き。赤石が隠していた裏の面、僕がどうしても聞けなかった事、今まで抱えていた疑問は、今、ここで結果が出されていた。
僕は声を上擦らせながら言った。
「写真撮るか? あれ」
「いや、暗いしフラッシュ焚いたらバレるわ」
「てゆか、あれ黒か?」
「分からん。多分黒!」
錦は口の端から唾を飛ばしながら言った。僕らは声を小さく保ちながら、喋っていたが、会話の節々から高揚感が溢れ出ていた。お互いトーンを保って、喋るのが難しい。
部活終わりに拭った汗も、また制服にじんわりと滲んでいる。二人を拡大しているスマホを持つ手は震えて、頭がジーンと、のぼせたような熱を持っていた。
そして、二つの影はより距離を縮め、絡む。お互いの手を後ろに回し合って、キスをした。
僕らはついに抑えられずに、咳をするように笑ってしまった。錦も僕も蹲って、口を手で塞ぎつつ、笑い声を抑えようとする。膝をつける時、まずいと思い、液晶の明かりを一応消しておく。幸い、二人は気づかなかったのか、そのまま長いキスを楽しんでいた。
赤石と女は、しばらくキスを続けていた。赤石は二回りほど小さい女の肩や腰などに円を描くようにして手を動かし、ハグをし、女は赤石の肩にしがみつくようにしている。
星空を背景にして、海岸で短い逢瀬を楽しんでいるといったら、なんだか聞こえは良いし、ドラマチックな気もするが、浮気なのが何より滑稽だ。僕は口を窄めるみたいにして、笑いを噛み殺しながら、二人の逢瀬を無粋にも観察し続けた。錦は未だ蹲りつつ腹を抑えて、笑いを堪えていた。
目が夜に慣れてきたのか、夜の海岸をさっきよりは見れるようになったくらいに、僕は視界の端に人影が動いたのを見た。それは立ち上がり、そして海岸の方へと歩いていく。
僕は驚いて、その人物を見た。砂浜の赤石達ほど遠くないので、性別は分かった。いや、誰かも分かった。そして、信じたくなかった。
「まずい」
さっきまでの興奮が嘘みたいに引いていた。声が震える。
なんでここにいる? まさか、あいつも調査? てか、僕の後ろにいたってことは僕らのことも見えていた?
さっきまで蹲っていた錦も気づけば彼女を見ていた。
「白井?」
赤石の彼女で、僕の幼馴染の白井晴子が海岸を歩いていた。
あまりにも自然に、ただ散歩で海岸を歩いているのかのように。けど、きっとそうじゃない。
長い髪を揺らしながら、制服姿で赤石と女の方へ歩く。
赤石は歩いてくる晴子に気づいたようで、女の腰に回していた手を外し、大声で弁明する。
「いや、誤解だ!」
前後はあまり聞こえなかったが、確かにそう赤石が言った。ここにきて誤解はないだろと思いつつ、僕は呆然と見つめていた。それは錦も同じだった。
「おい、まずくないか」
「ああ…」
錦が言った言葉にはそうとしか返せない。まずいに決まってる。
浮気相手の女はキョロキョロと赤石と晴子の顔を見返した。赤石がこっちに聞こえるくらいの声で叫ぶ。
「晴子、違うんだ!!」
何が違うんだよと僕は内心で思った。
「え、ええ?」
浮気女の方は慌てているみたいだった。
晴子は歩き、赤石の前で止まった。
そして、思いっきり赤石の顔を殴った。
赤石は砂浜に頭から落ちた。転んだ赤石に、晴子はすぐにマウントを取る形で馬乗りになり、殴る。
唾を飲み込む。
ゴッ、ゴッと赤石の顔と晴子の拳がぶつかる音が遠くから聞こえる。人から出る音とは思えないほど、無機質で規則的な音は木魚を思わせた。
殴られる赤石の側で、浮気女は金切り声のような叫び声をあげる。錦は砂浜を走って、止めに行った。
僕は呆然と駐車場で膝をついていた。地獄みたいな海岸から視線を逸らす。空を仰ぐと、星が綺麗で視線を落とすのも億劫になった。
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