5年前②
「あ」
翌日、駅のホームで晴子と目が合った。
今日は体育館で朝練ができなかったから僕は久しぶりに遅めの電車に乗った。
僕が少し驚いて声を出すと、晴子も似たような反応をした。
「おはよう」
「うん、おはよう」
言いながら僕は晴子の横に並ぶ。
晴子とは朝練がある時は朝会うことはない。…盲点だった。駅で会うとは。
昨日の話を聞いて、晴子にどう接そうか僕は迷っていた。
昨日の話。錦がラーメン屋で言った言葉。赤石、浮気してるらしいよ。
あの時はすんなりと受け入れたのに、後になってかなり深刻な問題な気がしてきた。赤石の彼女は僕の幼馴染の晴子で、赤石をまだ全然好きそうだった。全く末期のカップルみたく険悪な雰囲気は放っていなかった。
赤石の気持ちが浮ついて、その浮気の被害を被っているはずの、僕の幼馴染の顔を見ると、なんだかいたたまれない気持ちになる。
「ねえ、優希」
「ん?」
「いや、何でもない」
黙っていた僕に話かけてきた晴子だったが、結局口を噤んでそっぽを向いてしまった。
朝の駅のホームには田舎町の駅とはいえど、スーツ姿の会社員や学生が多く混み合っていた。
屋根の隙間からのぞく陽光は眩しく、チラチラと僕の目を刺激する。
僕は文庫本を取り出し、晴子はツイッターをスクロールし始めた。
僕は活字の上に視線を流すが、どうも頭の中では、赤石の浮気の件が大部分を占めていて、小説の内容が頭に入る余地はないようだった。
僕は一ページも読まずにバッグに本を戻した。そしてそんな事をする間も赤石の軽薄そうな顔が頭に浮かんでいた。
赤石の浮気の件はまだ疑惑の段階だ。本人というか晴子に伝えていいほど根拠はない。
そもそも、昨日錦に聞いたのも噂の域を出ていない。
出回っている噂を聞いた錦が僕に話したという噂の横流しみたいなものだ。どこから湧いた噂かも想像できない。
伝言ゲームは得てして元の形を失うものだ。そもそもの噂からの原型もないのかもしれない。実際にはただ女の子と遊びに行っていたのを見られただけなのかもしれない。
そもそも、誰かがふざけて言った戯言かもしれない。赤石はいかにも軽薄そうな容姿に、それに見合った軽薄さを持ち合わせている。口は軽いし、なんというか言動の一つ一つがデリカシーを欠いている。彼にとってはただ喋っているだけでも、なんか空気がピリつく時があるのだ。
だから、赤石に良い印象を持っていない奴は少なからずいるのを知っている。実際、そういう陰口を聞いたこともある。だから、その陰口の一つが噂となって外に出たとしてもおかしくなかった。
いや、僕にとって噂が本当かどうかは、この際どうでも良かった。
僕が今意識しているのは、この噂を晴子に伝えたほうが良いのか、否かだった。
幼馴染の義理で一応知らせておくのが良いのか? 噂が結局根も葉もない嘘だった場合、僕が晴子を不必要に傷つけたことにならないか? この噂を伝えたら、僕に対しても何か不都合が出る可能性がないか?
そんなことを考えながら、僕は横目で晴子を見た。
画面をスクロールする彼女は、幼馴染の目から見ても可愛らしかった。体の線は細くモデルみたいで、まつ毛は長く顔は小さい。メイクをしていないはずなのに肌はきめ細かく、凪いだ水面のような透明感がある。もっとも、僕からすると毒舌で憎まれ口の多い女子だが。
思い返すと、あの二人が彼氏彼女の関係になったのは僕経由で知り合ったからだった。晴子の幼馴染の僕、赤石と部活が一緒だった僕。共通の知り合いの僕がいたから二人は話すようになった。
『そういえば、晴子と付き合い始めたわ』
『えええ!!』
バスケの練習前に言った赤石の言葉に僕は腰を抜かした。
『え、なんかめっちゃ驚くじゃん』
『いやだって、晴子だろ? え、早くない?』
『まぁ、うん。早いかも』
『ええ? どうやったの?』
『いや、デート誘って…』
『デート誘って』
『普通に付き合おうって言ったらイケた』
『イケたかぁ』
僕は動揺したが、なんとか、受け入れ始めていた。中学の時も晴子は普通に彼氏がいた時期もあったから、別に彼氏ができた事自体にはそこまで、驚いていたわけではなかった。まぁ、でも、びっくりしていた。
『晴子の何が好きだったの?』
『好きなところかぁ』
赤石は少し顔を赤らめた。チャラ男感のある赤石の顔に朱色が差した事に凄い違和感を持ったのを覚えている。
『顔かな』
『顔かぁ』
この赤石の答えは、しっかりとチャラ男感があって、なぜか安心した。
赤石はモデルのような見た目の晴子に一目惚れしたらしい。それから僕の知らぬ間に、かなりしつこいアプローチをしたらしい。
そして、面食いだった晴子もまた、顔面だけは整っている赤石にコロリと落ちた。
こんな事で二人は出会って二週間程度で付き合い始めた。
僕は二人が付き合い始めた当初は毎日、指を折って何日で別れるか数えていた。すぐに別れると思っていた。
それでも二人は二年付き合っている。正直、かなり意外な結果だ。
だって、そうだろう。熱しやすいものは冷めやすいと相場が決まっているのだ。
僕は、赤石が浮気していて欲しくないと思う。…毎日指を折っていた僕が言うのは何だが。
僕は赤石と晴子のどちらとも仲がいいから、どうせなら喧嘩なんかしないで欲しいというのが正直なところだ。赤石が熱しやすく、冷めづらくあってほしい。
カン、カン、カン、カン
踏切がなる。電車が遠くに見える。
僕はそこで、とりあえず赤石に聞いてみようと思った。なあ、おまえ浮気してるって聞いたんだけど本当? いやいや、そんなわけないじゃんと赤石が答えて終わりだ。僕の懸念は無駄だということになり、無事終わる。そうしよう。
画面のスクロールをやめて、スマホをブレザーのポケットに入れつつ、晴子が口を開いた。
「ねぇ、優希」
「ん?」
「和馬が浮気してるかもしれない」
電車がフシューと情けない空気音を出しながらドアを開ける。
僕はへー、やっぱりそうかと思いながら、晴子のブレザーのポケットから覗くスマホが落ちそうな事を心配した。
晴子が噂を知っていることに驚いたのは、電車に乗ってから文庫本を取り出した時だった。赤石の浮気疑惑が自然すぎて反応が遅れてしまった。
「おまえ浮気してんの?」
数学の授業中、口の中でボソッと呟いた。
呟く、というより、囁く、だったかもしれないその音は教師が黒板にチョークを当てる音に飲まれ、消失した。
窓際の教壇に近い場所の僕の席から、ほぼ対極線の位置にいる赤石に放った言葉だった。
電車に乗り込んでから、晴子は特に何も言わなかった。
それから、学校に行ったまでの記憶がないのだ。とにかく気まずい時間だったことは分かる。挙動不審だったかもしれないくらい動揺していたのは確かだ。
晴子はどこから噂を知ったのだろうか。
晴子にその噂を伝えた人間はそもそも善意からの行動で噂を伝えたのだろうか。ただ単に面白がって言ったのかもしれない。あんたの彼氏、浮気してるよと言って慌てる様を楽しんだのだったら、晴子は悔しい思いをしたかもしれない。あくまで、仮定に過ぎない相手に怒りをぶつけてみる。
けれど、僕が本当に怒っているのは僕自身に対してなのかもしれなかった。僕の発言で晴子が怒るとか悲しむとか、そういう気持ちにさせてしまうのが怖くて無意識に逃げていたように感じる。
僕は何をするべきだったのだろうか。電車でとりあえず傷心しているはずの晴子を慰めるくらいはしても良かったんじゃないのか。なぜ、動揺して何も言えなかったのだろう。僕より晴子の方が動揺しているはずなのに。
僕は何でそうなんだろうか。昔から、本当に大事なタイミングで不必要な事を長々考えて、結局動くのは全てが手遅れになってからだ。
目を窓の外に向ける。
学校から見える海浜公園の奥では青い空と海が交わり巨大な青の塊みたいになっていた。少し頭を下げると、グラウンドがあり体育の授業をしているクラスが見えた。男子生徒達が一つのボールに群がり、足が絡み合うようにして、蹴り合っている。試合は一部のサッカー経験者を除いて、ほぼ未経験のようでグダグダだった。
ある時、ボールが蹴り出せれ、コート外に出た。試合の熱は一時的に下がり、休戦状態になる。黒板に目を移す。板書を一切取っていなかったことに気づき、急いで取る。
「黒板半分消していいか?」
数学の教師が僕らに確認を取る。こういう時に自分一人が主張するのは難しいと思う。僕は急いでノートを取るが、教師は気づかない。発言しない者に権利は無いということだろうか。教師はクラスから返事がないことを肯定と受け取ったようで、ボードに黒板消しを滑らせ、授業を進めた。
僕は中途半端に写しきれなかったノートを見て、その部分を飛ばして、それ以降のノートを取るのも変だなと思い、シャープペンシルを置いた。
外からボールがゴールに入ったことを喜ぶ叫び声が聞こえてきた。
グラウンドで行われる試合にもチームがあるわけだが、点を決めたチームも取られたチームも皆一様に笑顔だった。
僕は今も直接自分に関係ないことで頭を悩ませているというのに、そんな憂いすら一笑に付すかのような、気に障る笑顔だ。僕は名前も知らない後輩達に理不尽が過ぎる怒りをぶつけた。点が取られようものなら乱闘になりそうなぐらいのピリピリ感であれば良いのに。
そんなどうでも良いことを考えていると、いつのまにか授業は終わっていた。昼休みの時間になり、クラスに騒がしさが戻る。
僕は普段、赤石と黛などと一緒に昼ごはんを食べることが多い。だが、今日はそれは避けたかった。言わずもがな、赤石と顔を合わせるのが気まずかったからだ。
逃げるように教室から出る。
昼休みの廊下は人で溢れていた。僕は人の間を縫って、行くあてもなく弁当を持って廊下を歩いた。三階、二階、一階、また三階、このように本当に目的もなく校舎を徘徊した。
二階の科学室の前の窓からグラウンドを見下ろす。そろそろどこかで弁当を食べなくてはならない。階段を下り、中庭に出ようとする。
「何やってんの、鈴鹿」
声をかけられ、振り向くと、空のダンボール箱を長い腕で胸の前に抱えた錦が階段の上に立っていた。
「そっちこそ。飯はもう食ったの?」
時間は昼休みが半分程過ぎた頃合い。弁当を食べきるには早く、ただ校内を徘徊するには長過ぎる時間だった。
「んー? まだなんだよね。さっき化学の実験の授業だったんだけど、寝てたらバレちゃってね。全班の実験の片付けをやらされた上、今課題の提出用のノート入れまで持たされてるってわけ」
錦がへらりと笑いながら説明した。化学の実験中に寝るやつなんているのか。また一つ賢くなった。
「はぁ、災難だったな」思ってもないことを言った。
「おお、鈴鹿は分かってくれるか! どうしても眠たくてさ。クラスのみんなは自業自得だって言うから俺がおかしいのかと思った」
「自業自得だ。馬鹿」
「おい」
錦が心底、心外そうに言う。
「まぁ、いいや、僕も弁当食べてないから外で食べない?」
「あー、いいな。それ。今、ちょっと俺クラスで気まずいから」
錦は照れくさそうに言った。普段の奇行で忘れるが、錦は根は真面目だ。授業中に叱られて、ちょっと居心地の悪さを感じるくらいには普通の感性をしている。
「じゃ、先、中庭いるから」「オッケー、すぐ行く」そう言った錦と別れて、中庭に出ると何人か先客がいた。数組のベンチに腰をかけ、本を読んだり、友達と談笑しながら弁当やパンを食べていた。
僕も空いてるベンチに腰を下ろし頭を上に傾けた。空は晴れていて、五月の涼しさが心地いい。そんな中、僕の心は荒れていた。言うなれば土砂降りだった。
しばらくして錦が中庭に姿を現し、僕の横に座った。
「で、どうしたんだ?」
「ん?」
「お前は昼休みに何故、校舎を徘徊していたんだ?」
おにぎりを口に近づけながら、錦がそう言った。
僕は焼きそばを噛み切ってから言った。
「あー、やっぱ変だった?」
「ああ、かなり不審だった」
確かに、新入生ならまだしも、ここに通い始めて三年目の僕が昼休みに校舎を散策するのはおかしな話だ。今の僕は白紙に学校の地図を書けるレベルで、この学校のことを知り尽くしている。散策なんて、わざわざ普通だったらしない。そりゃ、不審だろうな。
少し逡巡。晴子と赤石の話をしていいのか考える。だが、大丈夫だと判断した。そもそも、例の噂を初めて聞いたのは錦からだったし、中学校の時からの友人である彼は本当に深刻な話の場合は言いふらしたりしないと思ったからだ。
「なるほど…」
錦は弁当を座っている膝の上に置き静かに話を聞いていた。
僕は一息に話しきったため、少し疲れて空を仰ぐ。晴れてはいるが、雲が多くて流れるのが遅い。ゆっくり流れる雲の裂け目から陽光が溢れ出ていた。
「どうしたらいいと思う?」
首の角度を戻し、錦に向き直る。錦は困ったような顔をした。
「どうしたらって言われてもなあ、うーん」
錦は困り顔のまま少し笑った。
「なんかない?」
「うーん…」
錦は腕を組みながら、唸った。
「すまん、なんも思いつかん」
錦は顔を上げて、言った。
「ううん、別にいいよ」
実際、少し期待はずれだったのは事実だったけど、仕方のないことだ。
二人で弁当を黙々と食べる。
二人とも食べ終わってから、また雑談をした。今度は赤石や晴子とは全く関係ないテストとか部活だとかの話だ。
そして、何かの会話の流れで錦が言った。
「傍観者は気楽なんだけどな」
「ん? なんのこと?」
僕は何かに引っかかって、意識が戻ってきた。殆ど反射で喋っていたから、前後の話を覚えてなかった。錦は僕が殆ど聞いてなかったことも承知していたのか、細かく僕に説明した。
「ニュースとかネットとかでさ、なんか事件があったとか、紛争があったとか言ってても、結局そこまで気にしないことが多いだろ。むしろ、世間話のネタにされて、時間潰しの道具…っていうのは意地悪かもしんないけど、まあ兎も角、あくまでエンタメにされる程度の扱いなんだろうな。実際、俺も鈴鹿に言った時は世間話とか、そういうつもりで言ったし」
錦は僕に申し訳なさそうな顔で言った。
「なんか伝えるにも、もっと真面目に言ったほうが良かったのかもって思ってさ、その、ごめんな」
「いや…」
僕は錦がこんな真面目に喋るのを初めて見たから僕は驚いていた。錦が罪悪感を覚える必要なんてないのに、錦は僕を心配している。それがとても申し訳ないと思っていた。
僕は錦に心配は杞憂だと伝えないといけないと思った。だが、言葉が出てこなかった。ただ言葉が思いつかなかっただけでなく、錦が心配してくれるのに甘えたかったのもあるのだと自覚もしていた。
それから、多分十秒ほど無言になった。
そのまま何を言おうか迷っているうちに授業五分前の予鈴が鳴った。
「帰ろう」「うん…」錦が声をかけて、僕らは教室に向かった。先ほどよりは静かになった廊下を歩くと、上履きが床を擦る音がよく聞こえた。
教室に着くと、もう教師が教壇に立っていた。
急いで席に着くが、授業はまだ始まってなかった。
授業が始まる前に教室に入られると、授業が始まっていると勘違いするからやめてほしい。心の中で悪態をつきつつ、教科書を引っ張り出す。
五時間目は古文だった。
僕はしばらくは授業を聞いたり、愚にもつかないことを考えて時間を使ったが、しまいには眠くなって寝てしまった。
子供の時の夢を見た。
幼い晴子が横で走っている。
僕と晴子は当時から家が近く母親同士も懇意だったため、子供の頃はよく一緒に遊んだのだ。
「優ちゃん」
幼い晴子が僕の手を引く。
「どこ行くの?」
「公園!」
僕らは二人で家の近くの公園の砂場によく遊びに行った。僕らの母親がリビングで談笑している時、僕らはその家の近くの公園のみ子供だけで遊びに行くことを許可されていた。
「泥団子ずっと作ってないで、お山つくろうよ」
「うーん」
僕は晴子の言葉を、あまり聞かずひたすら完璧な丸さの泥団子を作ろうとしていた。
「ほら、もう十分丸いよ。お山作ろう?」
晴子は砂がべったり着いた手で僕の服の裾を掴んだ。今の僕なら砂が服に着くのを嫌がるだろうが、何も気にしていない。
「完璧な球を作りたいんだ」
そう言って僕は指で余分な砂を払う。
当時の僕は完璧な泥団子の制作に勤しんでいた。どうせ家に帰る時には潰すのに。
「なんでそんなに綺麗な泥団子を作りたいの?」
その言葉を聞いて僕はぴたりと動きを止めた。なぜだろう?
「何か綺麗じゃん」
そう言って僕はまた作業に戻る。
「えー」
晴子は不満げに口を尖らした。
「別にいいじゃん、丸くなくても」
「…」
僕は答えず砂をまぶしかけ、また擦る。それを繰り返した。
ハッと気づくと、あたりは暗くなっていた。
街灯の光が道路を少しずつ照らしているくらいで、離れた場所の物の輪郭すら結べない。
周りに晴子はいない。母親も迎えに来ていない。
途端に、僕は怖くなり、立ち上がった。立ち上がった拍子に潰した泥団子に見向きもしない。
僕は暗闇の中を駆け出した。
すると、視界がばっと明るくなった。
場所が変わったようだった。周りを見るまでもなく、そこは小学校であると僕には分かった。ここは、僕や晴子が通っていた小学校で、時間帯はおそらく昼過ぎ…。
廊下を歩いていると、僕は前にいる女子達の会話を聞いた。
「晴子ちゃん、うざいよね。なんかお高く止まってるっていうかさ」
「分かる。なんだか偉そう」
「あはは。そんなこと言っちゃダメだよー」
女子三人がトイレの前でたむろしていた。甲高い声で話していて周りにも沢山クラスメイトがいたから、もしかしたらワザと聞かせようとしていたのかもしれない。
僕は何もしなかった。ただ、そこで少し硬直していた。
僕の横には、晴子もいた。
僕は目を覚ますと、担任の教師が教壇にいて不思議に思った。
六時間目は歴史ではなかったか。担任の教師は数学の担当だ。
首を傾げる僕に黛が横から笑いながら声をかけてきた。
「すごいな、一時間以上寝てたぞ」
「んー」
寝起きで回らない頭で、どうやら五時間目から六時間まで寝ていたらしいことを把握する。目瞼がまた落ちそうになる。
あくびが混じったような声で僕は言った。
「変な夢見てた」
「へぇ、どんな?」
「多分、昔の夢?」
「何で優希も疑問系なんだよ」
黛は呆れたようにそう言った。
不思議だったことは覚えているのに、もう夢の内容を忘れ始めていた
二度寝しないためにも立ちあがろうとするが、机に突っ伏して寝ていたからかひどく手が痛いし、何故か足も痺れているため断念する。
帰りのHRが始まり、教師が喋っている時も僕は頬杖をついて眠気から耐えていた。
校庭に視線を寄越す。誰もグラウンドにはおらず、人工芝がただ風に靡いていた。サッカーでもやっていたら、この後に控えている事も忘れられるかもしれないのに。
「起立 気を付け 礼」
学級委員が号令した。途端に僕は憂鬱になった。
この後には、部活がある。体育館の調整だかなんだかは終わり、今日から部活が再開される。活動停止前に引き続き、インターハイ予選に向けてまた熱心に部活に取り組むことになるだろう。
憂鬱の理由は赤石だ。どうしようもなく彼と顔を合わせるのが気まずい、というか辛いからだ。
今、赤石と顔を合わせると、どうしても晴子を思い出す。赤石にどういうことか問い詰めたくなってしまう。そして、もし良くない回答が返ってきた時に、僕が一体どうするのかもわからない。「浮気してるよ」なんてケロッとした顔で言われたらと考えたら…。
掃除当番が箒で床を掃き出した。埃の匂いがして、少し息苦しい。元から息苦しいのが、さらに息苦しい。
今日の部活はもう休もう。顧問は厳しいが、一日くらいの休みなら大丈夫なはずだ。
だけど、今、赤石か黛に一緒に部活に行こうとか喋りかけられたら面倒だった。そうなると言い訳をして赤石から離れるのも難しくなる。
そう思った僕はすぐに席を立った。廊下に比べ、静かな教室では僕が思いっきり椅子を引く音が大きく響いた。
スクールバッグを担ぎ教室から出て、僕は学校から逃げた。
「はぁはぁ」
僕は校舎から抜け出し、学校から続く丘を走って下った。途中で下校中の生徒が何人か僕の尋常ではない様子を見て、ギョッとしていたり、何人かは僕を笑っていた。同じクラスのやつもいたのかもしれない。けれど、僕は構わず走り続けた。一刻も早く、学校から離れたかった。
丘を下りた国道沿いの道。駅まで続く道を歩いているのは、ほとんど僕の高校の生徒だ。息を整えながら広い国道を歩く。夜になると街灯しか灯りが無い暗い道だが、まだまだ太陽は落ちきっておらず、明るい。
そこで僕は部活を休む連絡を入れていないことに気づいた。立ち止まって、スマホをバッグから取り出し黛にラインを入れる。
『今日、ちょっと具合悪いから帰る。顧問にも言っといて』
言い訳について少し迷ったが、普通に仮病にした。
『まじか、お疲れ。お大事に』
普通に心配してくれる黛に申し訳なくなる。罪悪感がこもった胸を換気するように深呼吸をする。呼吸が落ち着くと、頭に余裕ができた。
頭に余裕ができて、考える余地ができると、また無意識に僕は赤石のことを考えていた。そして、また辛い気分になる。
足を速めた。もう、寝ようと思った。起きていると赤石と晴子のことを考えてしまうから、この思考から解放されるためには必要なのは休息だと思った。
色々考えながら、足をさらに速める。ほぼ走っているくらいの僕の早歩きは、周りの人の視線を集めている気がしたが、構わなかった。
頭から思考が漏れていくのを感じていた。考え事を忘れていく感覚が心地良かった。
「おい、ちょっと」
目の前を黒い車が横切る。交差点に差し掛かっていた。駅まで一息に行ってしまいたかったが、仕方がない。信号が緑になるまで待とうと思うと、体に一気に汗が流れた。一気に疲労がのしかかり、短く息を吐きながら、僕はハンカチで顔を拭った。
「おいってば、鈴鹿!」
横からの声に、びくりと背筋を伸ばした。振り向くと、錦がいた。彼も肩で息をしていた。
「おう、お疲れ。錦」
「疲れたのは今だよ」
錦は呆れたように溜息をした。と、思ったが、息を切らしていたから深い意味はなかったかもしれない。
「で、どうしたの?」疑問をそのまま口に出した。
「どうしたのって、お前…」今度はしっかりと溜息をした。
錦は少し咽せたようで、数度咳をしてから言った。
「お前が怖い顔をして、通学路を疾走してたから、気になったんだよ」
「ああ…」
改めて、自分が視線を集めていたことに気づく。周りの人の視線が僕に注がれていた。
「どうした?」
不安そうな顔で錦が僕の顔を覗く。汗を拭った頬にまた汗が流れるのを感じた。僕はあんまり深刻な雰囲気を出したくなくてとりあえず笑顔を作った。喋らないのも不審だから、とりあえず声も出しながら言い訳を考えることにした。
「実は」言い訳を考え、整理しながら言葉を繋ぐ。「今日は家の用事があって早く帰らないといけなくて、だからちょっと走ったんだ」
僕を不思議そうに見る周りの人に対しての弁解のため声を大きめにして、一息で言い切った。逆に言い訳っぽくて不審感を強めるかもと思ったのは、言い終わった後だった。
錦は僕の早口に驚いて、少し笑いながら「なら仕方ないな」と言った。もしかしたら、錦は事情を察したのかもしれなかった。
「なら、それで今日も部活は休んだの?」
「うん」
「そっか」
錦は胸に手を置いて、呼吸を整えていた。信号が緑になる。信号待ちをしていた人が一斉に歩き出した。錦はそれ以上、その話は追及しなかった。
錦はあっと声を出し、こっちに向き直った。
「そういえばさ、知ってるか? 隣町で何人か行方不明になってるって」
「ああ、聞いたよ。確か三人だっけ?」
「怖いよな。誘拐かな」
「どうだろうな。全く関係ない三人なんだろ?」
「ああ、その要素がより不気味だよな。神隠しとかかな?」
「いやいや古いな、発想が」僕がツッコミを入れると錦は笑った。
僕らの間の緊張していた空気が弛緩していた。赤石や晴子のことも忘れて、最近話題になっている失踪事件の話をした。内容は深刻なはずなのに、話している僕らには深刻さの欠片もない。僕らにとっては、友人の浮気の方が深刻で、関わりのない失踪事件など、なんの深刻さも感じなかった。
傍観者。
昼間、錦が言った言葉を思い出す。傍観者は気楽。そんなこと、考えたこともなかった。でも、実際そうだと思った。所詮はどんな深刻な事件を聞いても他人事で、自分の人生の小さな不安の方が僕らにとって重要で、深刻で、切実だ。
古びた駅舎の改札を通りホームに立ち、数分先に来る電車を待った。並んだ僕らの後ろに列が出来ていった。
海から流れてきた熱い海風が顔を撫でると、僕は顔を顰めた。昼間の風は湿度を帯びていて、塩の香りが強かった。
その時、不思議な違和感を覚えた。
それは昼間のまだ日差しが強い中で、僕がこの電車に乗ることは珍しいということだ。
僕の後ろに並ぶ電車を待つ人も、普段部活が終わってから帰宅する時には、大きく数を減らしていて、ここまでの列を成していない。
そこは普段とは違う世界だった。否、世界が違うのではない。僕が違うのだ。
普段から僕が見えないところで世界は動いていて、今日、僕は普段見えない場所に立って、世界を見ているだけだった。
そこには、昼間の駅や、長い列を作った下校生がいる。
そして、僕が部活をサボっている間にも、バスケ部の練習は行われている。
僕がいない間にも、インターハイ予選は迫ってくる。
僕がいない間に、隣町で人が消える。
僕が知らないところで、きっと何人も喜び、悲しんでいる。
そして、僕が知らなくても、晴子と赤石の関係は何らかの動きがある。
そして、気づいた。そもそも僕が責任とか深く考えなくても良いんだ、と。
当たり前であることのようだが、考えが及ばなかった。
勝手に僕は赤石と晴子の関係の仲裁に入らないといけないと思っていた。友達として、幼馴染として、お互いをよく知っているからこそ、二人の関係を取り持ってやる必要がある気がしていた。
だけど僕は無理に関わろうとせず、蚊帳の外でも、傍観者でも構わないのだ。
それは不人情かもしれないし、もしかしたら裏切りに近いことかもしれない。
でも、別に関わることは義務じゃない。
途端に頭のモヤが晴れた。台風の後に空が晴れるように、ごった返していた頭が、明瞭になっていく。
遠くに電車が見えた。それは、数秒のうちに目の前で轟音と排気ガスの匂いを撒き散らしながら停車した。
ドアが開き、錦と並んで席に座る。
「僕も傍観者になるか…」
「ん?」
錦は僕の独り言に不思議そうな顔をした。
「あのさ、錦」
「どうしたの?」
一息ついて、僕は少し意地の悪い顔を作った。
「赤石の浮気、僕達で調べてみない?」
「え?」錦は目を丸くして驚いた。
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