5年前①

 太陽が沈んで、しばらくしても体育館にはボールが弾む音が聞こえていた。      

 換気のため開けているドアから入ってきた海の香りが僕の鼻をよぎる。よし集中できてる。

 僕はスリーポイントエリアに立ち、ボールを左手で支え、右手を振り上げる。放たれたボールはなだらかな放物線を描いた。空間を切り裂くように飛んだ球はパサっ、と抵抗なくネットに吸い込まれる。僕は心の中でガッツポーズをする。

 「今日はここまで」

 黛一糸の声が体育館に反響した。部員は各々の練習を終えて、顧問の前に半円の形で集まる。ありがとうございました、と部員が顧問に対して頭を下げて今日の部活は終わった。

 僕らは後輩にボールをしまうのを任せて、先に帰ったバレーボール部との間を隔てるネットを戻す。二つに分けられていた体育館が一つになる。

 顧問と話していた黛が僕に手を挙げながら近づいてきた。

 「お疲れー」

 「うん、お疲れ」

 僕は黛とハイタッチをした。これは練習が終わった後に僕らがやるルーティーンだった。パチンと子気味良い音が鳴る。

 黛が汗をタオルで拭いながらスポドリのキャップを外し、飲む。

 黛はこういう何気ない動作ですら男の僕でも、どこか色気を感じさせる。

 何をもってそう感じるのかはよくわからないけど、短い髪と程よく焦げて小麦色をした肌は爽やかで健康的な印象を与えると同時に、いつも笑っているように細められている切れ長の目はどことなく優雅な雰囲気を醸し出していた。

 黛はその上高身長と成績優秀である万能超人であるため、もはや嫉妬すら覚えない。あるのは、ただ尊敬だけだ。

 「最近、優希スリーポイントの調子いいよな」

 「そうかな」

 「うん、確かに精度上がってるよ。絶対」

 「なら、嬉しいな」

 僕はなんともないように答えたが、内心では黛に評価された事を喜んでいた。

 「まあ、僕らの引退も近いから頑張らなきゃなと思ってさ」

 「そうだな」

 黛は遠い目で体育館の天井を見上げた。

 僕らは来月から始まるインターハイを控えている。そのため、部活の雰囲気は引き締り始めている。それでもピリピリとかはしておらず、皆それぞれ自分でできる事をしっかりしている感じだ。僕ら三年生はこの大会で引退のため、最後の大会は全国に行こうと今までにも増して、練習に取り組んでいる。

 「お疲れ、お二人さん」

 後ろから、僕と黛の間にガバッと顔を出してきたのは同級生の赤石和真だ。赤石のワックスをつけている髪が頬に当たり僕は顔を顰める。

 僕らは同じバスケ部でクラスも一緒だ。一年生の頃にバスケ部に入った僕の同期は十人ほどいたのに今は僕らを含めて五人だけ。おまけにその内の二人は幽霊部員だから、実質的には三年生は僕ら三人だけである。僕こと鈴鹿優希と赤石と黛の仲は必然的に深くなった。

 顧問に用具の整理が出来た事を黛が伝えて体育館を出る。

 「さみー」

 赤石がブルリと肌を震わして言った。四月下旬の外気は体育館に比べて冷たく、熱っていた僕らの体を急速に冷まそうとする。調子に乗るなと叱りつけられているようだった。

 「おーい」

 聞こえてきた声に僕らは顔を向けた。校舎近くに立つ女の子が目に入る。僕の幼馴染でもある白井晴子だ。

 「おーす、晴子」

 赤石が背筋を伸ばして手を振った。赤石と晴子は恋人同士だった。

 「おつかれさま。今日の部活はどうだった?」晴子が言った。

 「んー、大変だったよ。もう、足が痛いよ」赤石は肩をがっくり落として、疲れを表現しているようだった。

 「晴子は勉強?」僕が尋ねた。

 「うん、それと」

 晴子は赤石の隣に滑り込み、腕を組んだ。

 「彼氏のことを待ってたの」

 あざとい様子で晴子は言った。赤石は困ったように眉を上げるが、満更でもなさそうだった。

 「晴子、こういうのは二人の時に」

 「えー」

 「いちゃいちゃしてるとこ悪いけど、俺ら着替えるから」

 黛は苦笑いしながら、やんわりと赤石の腕を引っ張った。僕らは、とっくに部室の前に着いていた。

 「えー、別にいいじゃん、黛くん」

 晴子は不満げにそう言うが、僕らは部室に入った。

 狭い部室に入ると、顔を熱気が覆った。部室の中には後輩たちの汗とかが混ざったような空気があって、僕は顔を顰めた。

 肌着を脱いで汗を拭うと、服の隙間に溜まっていた熱が解放されて気持ちよかった。

 僕は制服に着替えて、黛は肌着を着たまま汗を拭っていると、赤石が唐突に手鏡を取り出した。

 「髪のセットグチャグチャになってるわ。ヤバい、モテない、これじゃ」

 赤石は上裸で、タオルで髪から汗を拭きとりだした。何をしだすのか見ていると赤石は器用に片手でワックスを付け始めた。

 「もう帰るだけだろ」僕は思わず言った。「帰るだけだって?」赤石は顔を鏡から遠ざけ、背筋を伸ばした。

 「ノンノン優希くん。モテには身だしなみが結局一番大事なんだよ。初対面の印象が冴えない奴だと垢抜けても結局『垢抜けたけど、少し前は冴えなかった奴』と思われてしまう。これでは、いけないんだ。何故か? 俺は世界中の女の子に『かっこいいやつ』と思われたいからだ。俺は初対面で『冴えない奴』と思われてはいけない。『ずっとかっこいいやつ』であり続けないとならないんだ」

 赤石が得意の未成年の主張をした。部室は「先輩かっこいい」と後輩がヤジを飛ばしたり、サッカーで点が決まったチームのサポーターがするように指笛を吹いたりして謎の熱気に包まれた。

 僕は赤石には彼女がいるのにモテようとするのはどうなのかと思ったが、口には出さなかった。

 赤石がそんなことをするものだから、僕らが着替えを終えたのは二十分は経ってからになってしまった。

 部室から出ると、また冷たい風が僕を撫でた。でも、汗は拭ったし、制服に着替えたからさっき程は辛くない。

 部室の外で待っていた晴子と合流した。晴子は頬を膨らませていた。

 「ねぇ、着替え遅くなかった?」

 「ごめんねー、優希が着替え遅くてさー」

 赤石はヘラヘラと笑いながらそう言った。晴子はギラりとこちらに鋭い視線を送ってきた。

 僕は慌てて主張した。

 「いやいや、赤石が突然髪弄りだしたんだよ。モテだ何だ言ってセットし始めてさ、僕は止めたんだよ」

 晴子が黛の方を見ると、黛は苦笑しながら頷いた。

 晴子は僕に対する鋭い視線を止めて、赤石に向き直った。

 「和馬、私以外からモテようとしてるの?」晴子が頬を膨らませ、眉を上げ、怒っているような心配そうな顔を作る。

 「いや、晴子からだけだよ。モテたいのは」

 「なーんだ、なら許す」

 吐き気を催すほど甘ったるい会話をしてから、晴子はさっきまでの不機嫌さはどこへやら、赤石の腕に絡みついた。なんなんだよ、絶対僕だったらもっと怒ってただろ。僕は自分に対する理不尽な扱いに憤った。

 校門を潜り、暗い下り坂を歩き始める。

 空を仰ぐと星が見える。僕は星座などはあまり知らないから、無秩序に星が点在しているようにしか見えないが。

 満天の星空、というほどでもないまばらに見える星を見ながら僕は適当に頭の中で星を結び、出鱈目な星座を作り出した。少し丸いあれがコーヒーカップ座で、直線のあれがシャーペン座だ。

 「そういえば、白井と優希は幼馴染だよな」何かの会話の流れで黛が言った言葉に反応して首の角度を前の三人の方に戻す。

 「うん、残念ながら」「何が残念なんだよ」晴子が本当に残念だと言わんばかりにしょげながら言った言葉に僕が言い返す。

 「そうは言っても、一緒の高校にしたんだろ。それとも、この学校を二人とも受けたのは偶然?」黛が言う。

 実のところ、僕らは何処の高校を受けるかはそれなりに意見交換し、結局、一番二人の家から近い我が高校を選んだのだ。

 「まあ、知り合いが一人いるだけでも安心できるじゃん。こんなやつでも」

 晴子は僕を指差した。

 「お互いこれでも幼馴染だから同じ高校に行けば安心はできるかなって思って、ここの高校にしたんだ。こんなやつでも」僕は晴子を指差した。

 「でも、一緒に学校を選んだんじゃないか」「色々言うけど、晴子と優希は、結局仲良しだからな。喧嘩するほどなんとやら?」

 黛は小さく笑いながら言い、それに赤石も便乗した。

 僕は面倒くさくなって何も言わなかった。晴子も露骨に嫌そうな顔を一瞬したが、特に何も言わなかった。

 僕らの学校、松陰高校は丘の上にある。松陰高校がある、この町は海を有しており学校から丘を下りて、十分ほど南に歩けば海に着く。

 丘を下りると、目の前に少し広い国道が現れる。その道路沿いを行くと普段、僕と晴子が使っている駅に着く。ちなみに、赤石と黛は歩きでの通学であり、最初に赤石が国道から小道に別れた先に家があり、黛は僕らが使う駅をしばらく通り過ぎた先に家がある。そこから僕と晴子は最寄り駅までは電車をしばらく使う必要がある。

 学校から丘を下る時、道路沿いにもう花が散ってしまった桜の木が目に入る。桜の木が途切れ、国道に出ると、一段と海の香りが強くなったように感じる。

 国道は通行量はまばらだが、街灯が多い。丘の道は足元を見ないと転びそうになる程整備が雑で暗いため、国道に出た時の明るさに、一瞬目を瞑った。

 ふと、晴子と赤石の会話に耳を傾けた。

 「見て。うちの猫の写真、昨日撮ったの」

 晴子が赤石の腕に擦り寄るようにして、甘えた声を出す。

 赤石と会話する晴子と僕に対しての晴子は信じられない程違う。僕に対して猫の写真を見せて感想を共有することなんて、まず無い。

 舌打ちをしたくなる。

 なんで僕に対しては教師の愚痴とかそういう話なのに、赤石との会話はそんな猫の話だとか、パフェだとか、和やかな内容なんだ? 僕にもそういう風に接したら…。

 とは言っても、晴子が僕に対して甘えた声を出したら、それはそれで気味が悪い。僕はやるせない気持ちになった。

 あそこのコンビニくらいまで行けば、赤石が別れる。僕はなんとなくそこまでの歩数を数えた。


 「じゃ、俺はここで」赤石が言うのに各々お別れの言葉を言った。五十八歩だった。

 それから僕らは、駅の方向に向かった。黛の家はしばらく歩いた駅の先にあり、僕と晴子は電車で海沿いのこの街から少し内陸へと移動する。そのため、黛とは駅までは一緒に帰るのだ。

 赤石がいなくなって、しばらく僕らは無言になった。すると、急激に部活の疲れが襲ってきた。僕は眠気と格闘しながら、歩いた。

 「はあ…、和馬に会いたいな」

 赤石と別れてしばらくして、晴子はそう言って沈黙を破った。

 「さっきまで一緒にいただろうが」僕は瞼を無理矢理開きながら言うと、晴子はむくれる。

 「まったく、分かってないな。カップルというのは少しでも離れたら寂しいと思うものなんだよ」

 「そうかなぁ」

 今度は黛は釈然としない風にそう言った。僕は眠くて喋るのを辞めた。

 「そうだよ。ていうか、黛くんはモテるのに彼女とか作んないね」

 「あぁ、そうだね」

 今度は黛は露骨に顔を顰めた。

 「なんか理由あるの?」

 ずいっと音がしそうな程、図々しく晴子が質問を続ける。

 「別にないさ。モテてもないよ」

 「えー、嘘だぁ」

 晴子が大袈裟にのけぞる。僕も心の中ではのけぞっている。嘘だぁ。

 何せ、黛は顔立ちが美しい。その上成績優秀であり非の打ち所がない。高嶺の花過ぎて遠慮される事はあっても、うだつの上がらない男と見られて遠慮されているわけではない。つまり、モテないはずがない。

 「ほんとだよ。第一、俺なんか全くもって面白みのない男だから、きっと付き合ってくれた子を失望させてしまう」

 「そうかなぁ。私、黛くんを好きって言ってた女の子知ってるよ?」

 晴子が言った言葉は黛に興味を持たせようとしたのだと思うが、黛の反応は淡白なものだった。

 「へぇ…」

 え、これだけ? って感じだった。

 もはや、僕のほうが興味があるレベルだった。誰が黛のこと好きなの? と聞きたい気持ちを僕はぐっと堪える。

 しばしば思うのだが、この黛一糸という人間は嫌味に聞こえるほど自分を卑下することがある。部活の部長を務めていたり、天性の社交性を有している黛はクラスの中心人物だ。委員長などの役職ではないものの担任の原田からの信頼も厚いため何かと頼りにされている。

 それに対して、僕は別に社交性は人並みだし、成績も中くらいの域を出ないから黛の自己評価の低さはどうしても自分との器の違いを感じさせられてしまう。きっと彼の自己研鑽は僕の想像がつかない程の高みを目標としているのだなと思ってしまい、凹む。

 「別に面白くなくても、小さな言動から愛情とかが伝わってくれば大丈夫だと思うけどな」

 晴子が言った言葉に黛は答えず、遠くの方を見た。もう僕らは駅に着いていた。


 「どういう事だろうね」

 晴子はどかっと電車のシートに座って言った。

 「どういう事とは?」

 「黛くんのことに決まってんでしょ」

 晴子は僕の腹を小突いた。痛い。眠気もどこかに飛んだ。

 黛の恋愛事情を僕も気になることは事実だけど、どうしても探究したいほどの謎でもない。

 「シンプルに勉強で忙しいとかじゃないの?」

 「まぁ、黛くんなら可能性はあるね。いかにも真面目って感じだから」

 「ていうか、晴子は恋愛脳過ぎ。人の恋愛話がそんなに気になるの?」

 「そりゃ、恋バナは全女子皆好きだよ」

 「主語がでっかいな」

 それから晴子は考えるような素振りをする。黛の事を考えているのだろう。どうせ、この場で結論が出るわけでもなかろうに。

 でも、僕もこの件について不思議に思ってたのは事実だった。黛がいくら、自分を心から卑下していたって、ここまでの好青年がモテない道理はない。本人が語りたがらないだけできっと何回も告白とかは受けているはずだ。

 「あ、そっか」

 晴子を見ると、気づきましたと言わんばかりの表情をしていた。

 「黛くんホモなのかも」

 「は?」

 「だから、黛くんがホモなのかもしれないって」

 どう? と僕に意見を求めている晴子の顔を見ながら言っていることを理解した。

 どうやら晴子は黛がホモセクシャルなんじゃないかと考えたらしい。女に興味がないのは男が好きだからだと言うような理屈で。僕はピンとこなかったが、晴子はこの仮説に自信を持っているようだった。僕は、どうでも良かった。

 「さぁどうかな」僕はしっかりとした返事をするのも馬鹿らしく感じてそれだけ言って、電車から降りた。

 「ちょっと、ちゃんと考えてよ」

 晴子はバッグを担ぎ電車から降りて、また怒ったような顔をして僕を小突いた。

 「別に黛が彼女を作っても、彼氏を作っても、僕らの関係は変わんないんだから別に良いだろ」

 晴子はフンと鼻を鳴らした。

 「まったく少しは聞く耳もってよ。だから彼女もできないんだよ」

 晴子は不貞腐れたようにそう言った。

 僕は黛が彼女を作らないのも別に変なことだと思わなかった。晴子はモテている人は必然的に彼女を作るはずだという自論を信じて疑っていない。あまりに傲慢だが晴子は自分の価値観が世界の価値観そのものだと思っている節がある。

 けれど、実際は選択して独り身を貫くものだっているのだ。黛もそのタイプな気がする。性的対象がマイノリティだからとかではなく、選択して彼女とか彼氏とかを作らないということだ。かくいう僕も中学の時は彼女がいたが、高校で別々の場所に別れる時に自然消滅したタイプで、それ以降特に彼女を作ろうと努力せず、高校ではついぞ彼女ができなかったタイプだった

 「黛は多分そういうのより別の活動に力を入れたいタイプなんだよ」

 「それが部活とか勉強とか?」

 「うん、多分」

 僕がそう言って話を切り上げると晴子は不満げな表情をしたが、顔色がパッと変わった。

 それから、晴子は悩ましげな顔で聞いて欲しいかのように大袈裟にため息をつく。

 「最近、和馬のラインの返信が遅いの」

 「どうでもいいっ」

 「ちょっと口に出さなくても良いじゃない」

 晴子はまた怒ったように僕の腹のあたりを叩いた。そろそろ痣になるんじゃないかと心配になった。日焼けはあまりしていない白い肌に青い痣があったら、あまりに痛ましい。

 赤石と晴子が付き合い始めて気づけば一年以上経つ。晴子は惚れっぽく、すぐ誰かを好きになる。だからといって、すぐ飽きるわけでもない。熱しやすく、冷めづらい。現に、今でも赤石と晴子の仲睦まじい休日の逢瀬の内容を恍惚とした表情の晴子に聞かされることがある。

 その時の僕は無表情を通り越して、失神しているのではないかと思うほど何も考えず、話の区切れ目で相槌を打つ人間になる。誰がお前らのデート内容に関心があるんだと静かな住宅街で叫んで、走りたくなる。

 でも、赤石も熱しやすく冷めづらいタイプだとは限らない。ここまでめんどくさそうな女もそういないだろうなと僕は横目で晴子の顔を見る。

 恋愛ホルモンは三年で切れるという。「案外すぐに振られるんじゃない?」と僕が晴子に言ったら腹に穴が空くまでどつかれる筈なので何も言わない。

 気づけば僕らは子供の頃よく二人で遊んでいた公園の前に差し掛かっていた。

 昔作った泥団子は、もうとっくに跡形もなく消えている。


 次の日の放課後、部活はオフだった。

 朝は集まって高三の三人で自主練習をしていたが、次の日の全校集会のため準備が必要なのだそうだ。詳しくは知らない。

 部活がないため、僕は珍しく終礼と同時に帰路に着いた。

 「じゃあな」

 「おう、また明日」

 黛に後ろから声をかけると、片手を小さく上げて、返事した。謎にスマートだ。オーラさえ有る。真似したい。

 その日は中学の時からの同級生の錦と一緒に帰ることになった。

 錦は天然のパーマで長身の男でヒョロリとしている。一年生の頃は、しばしば、クラスメートが彼を「ゴボウ」と揶揄することもあったのだが、彼はそのたびにひどく怒るからそれもまた面白がられていた。

 先に校門前に立っていたヒョロリとした錦に声をかけた。

 「うす、おつかれ。錦」

 「おー、おつかれ。…誰だっけ?」

 「お前、放課後もうるさいなぁ。早く帰るぞ」

 錦の突拍子もないボケを無視して、二人で帰路に着いた。

 坂道を下りている途中、錦が唐突に言った。

 「散歩していかないか?」

 「ん? え、いいけど…何で?」

 「いいからいいから」

 何がいいんだよと思った。錦はいつもその時の気分で行動しているから僕はしばしば振り回されている。それでも部活がなかったため暇だった僕は錦に付いていくことにした。

 何か用でもあるのかな? と錦の細い背中を見ながら思った。

 わざわざ普段使う通学路を遠ざかり散歩、すなわち遠回りしていくのはどう考えても無駄だと思ったが、錦の思考は読めない。

 彼に付いて行くと青い海が見えた。目的地はどうやら砂浜らしかった。

 「久しぶりにお前が放課後暇だって言うからな、少し長く喋りたくて」

 遠回りの理由を錦は照れたようにそう言った。かなり直接的な表現だったから僕も照れた。

 砂浜に入ると、砂の柔らかな感触と温かさが靴越しに伝わってきた。規則的な波の音は僕の心音と抵抗なく合わさって、眠くなるほどの安心感があった。

 「綺麗だな」「だな」僕が漏らした言葉に、錦も同意した。

 高校からも海は見えるのだが、実際砂浜に立って海を見るのでは迫力が違う。奥の水平線は広く伸びて、空との境界が曖昧になって溶け合っていた。青さも、遠くから見る大雑把な青さより波の繊細な陰影が際立っていたし、大きな波が砂浜に迫り、そして掘削するように引いていくのは見ているだけでも面白かった。

 砂浜には凧揚げのようなものをしている人もいたり、母と娘と思わしき二人が穴を掘っていたり、ただぼうっと海を見つめる同い年くらいの男や、正座して海を見ているおじさんもいた。皆思い思いの時間を過ごしている。

 海に見惚れていると、錦が「俺、海入るわ」と、唐突にそう言って靴だけ脱ぎすてて、海に駆け出した。おい、嘘だろ。

 「嘘だろ?」正座のおじさんも目を丸くして呟いた。

 ザバァと音を立てて、ゴボウのように細い身体が塩水に浸かった。しばらくして、「さみー」と錦が僕に笑いながら叫ぶ。錦の額に海藻張り付いていて、なんだか面白くてつい僕も笑ってしまった。

 僕は靴を脱いで、海に全身浸かっている彼に近づいた。僕は足首だけ水に入れていたが、これだけでかなり冷たかった。

 「何やってんだよ」

 「海に飛び込んだんだ」

 「それは知ってる」

 「じゃあ、何を聞きたいの?」

 「お前がなんでそうしたかだよって、もういいや」

 僕はもうそれ以上の説明は求めなかった。錦のこれは発作みたいなものだから理由を求めるのもナンセンスだった。

 錦はそのまま海にしっかり浸かった状態でいて、不思議そうに僕を見た。

 「ていうか、なんでお前は裾を捲って歩いてるだけなんだ?」

 「僕は入らねぇよ」

 「え?」当然のことを言ったつもりだったが、錦は大層驚きましたという感じで眉を上げた。

 「冗談だろ、俺だけ濡れ損?」

 僕は、それ以上何も言わなかった。

 錦は海から上がると、その場で体操服に着替え、顔だけトイレの蛇口で洗っていた。

 まだ寒い海に一人で入り、帰り支度をする錦の姿はどこか哀愁が漂っていた。海も気を遣ったのか、夕焼けの色に変わり始めていて、海と錦を見比べるとなんだか切なく感じる。

 僕らは海を離れてから、お腹が空き始めていたので駅前の古びたラーメン屋で食べて行くことになった。

 カウンター席に二人で腰掛けた。まだ錦は塩臭かった。

 「この店の存在は知ってたけど行ったことなかった」

 錦が漏らした言葉に僕も頷く。

 「はい、お待ち」

 頭に手拭いを巻いた典型的なラーメン屋の店長みたいな人がカウンターにラーメンを置いた。

 ふんわりと香る醤油の香りが僕の鼻にかかった。

 「うまそう」

 僕も錦の言葉に心の中で同意した。

 麺を少し食べると、ワシワシしていてうまい。太麺が疲れた体に染み渡るのを感じた。

 「鈴鹿、浮気って嫌だよな」

 「なんだよ。藪から棒に」

 錦がそう言ったから僕は箸をどんぶりから離して、横に座る錦を見た。いつもながら、唐突だった。

 「いやさ、最近思うんだよ。浮気されるってどんな感じなんだろうってさ」

 「妄想は勝手だけど、独り身のお前には関係ないんじゃない?」

 「うるせーな、お前も彼女なしだろ。そうじゃなくて、浮気って裏切りじゃん。どのくらい辛いんだろうって」

 「裏切り、ね」僕は厚切りのチャーシューをつまみ上げて口に運んだ。

 「分かんないけど、二人の愛次第、じゃないか? 二人とも冷めきってる末期のカップルなら問題ないだろ」

 「そうじゃなくて、俺が言いたいのは、片方は愛してる場合だよ。片方はまだ好きなのに相手は浮気してる場合の話だ」

 「ふむ」僕は返事をしながら、少し考えた。

 「それは、裏切りだろうな。けど、浮気する側も種類があるだろうな」

 「種類?」

 「恋人を愛してはいるけど他の相手からも愛を求めた場合と、恋人に普通に冷めてて別の恋愛をしたくなった場合があるだろ。まぁ、どっちも普通に考えたら裏切りだけど」

 「そうだな」錦はラーメンに胡椒を振りかけた。僕も、それにならい振りかけてみる。

 「前者の方がクズな気がするけどな。けど、まあ、一夫多妻制の国とかもあるしな。一概には言えないのか」

 僕はそう言ってから、ラーメンを食べると胡椒の香りが良いアクセントになっていた。

 「現代の日本だと浮気とかはほぼ犯罪みたいに忌み嫌われてるけど、普通に江戸時代には大奥とかいるわけだしな。殿様には正妻と側室みたいに妻に序列すらつけてた訳だろ。別にあれはクズとかじゃなくて、そういう時代だったってだけだし。なんなら、ハーレムを作るライオンとか考えると、生物的には一夫多妻が自然なのかもしれない」

 「そう言うと、浮気男の言い訳みたいだ」

 僕がそう言うと、錦も「間違いない」と笑って言った。

 「倫理観は時代と場所によって、全然違うよな。でも、本当は人間全員、考え方も感じ方も違うはずだよな。いくら同じ国と時代で育っても、環境によって感性は変わってくる。皆が完全に倫理観を共有してるわけじゃないだろ」

 「浮気を悪くないっていう倫理観もあるってこと?」

 「もちろん、人による。…まぁ、そんなこと言っても、マイノリティは攻撃されるのが常だからな。浮気するのは仕方ないなんて言っても、誰も納得してくれないに決まってる」

 錦はそう言ってから、思い出したようにぽんと手のひらをもう片方の拳で叩いた。

 「そういえばさ」

 「うん?」

 「赤石、浮気してるらしいよ」

 錦があまりに自然に言うから、僕は何も抵抗なくそのニュースを受け入れた。

 赤石は、浮気賛成派の倫理観の持ち主だったのかなんて呑気な事も考えた。

 

 

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