第3話



私は、にわかに信じ難かった。


老人は、どこか、遠い山の方を指して言った。

「鏡の向こうの自分と、やまびこを通じて入れ替わるんだ」


私は背筋が凍る思いをした。

この無骨な老人が、口から出まかせを言っているようには聞こえない。


何の面識もない人間の「ヤッホー」を怒鳴りつけてやめさせるほどだ。


老人は少しほほ笑んで言った。

「信じなくてもいいが、やめた方がいい。ここでやまびこをやらなくても、どこの山だってできるんだから」


薄気味悪くてとうにまびこをする気は失せた。

私は気になって聞いてみた。


「なぜ、鏡の向こうの人間と入れ替わると、悪人になるんです?」


「鏡の世界は、左右反転してるだろう。…人の性根も全く正反対に反転するわけさ」


「というと?」


「いい人間の鏡の中は、反転した悪い人間ということさ。よっぽど、人間ができてるやつ程、極悪人になるんだ。さっき話した男のようにな」


私はそれを聞いて漠然とした不安を覚えた。


私自身はどうだろう。

いい人間だろうか。

少なくとも、老人が話した男のようなことはしたことがないが…。


「まあ、あんたが悪い人間なら、心配はいらないよ」老人は、私の顔を見て微笑んで言う。


「どうしてですか」


「鏡の中の人間が性根が良ければな、変わろうとしないからさ。ほとんどはな」

老人はそう言って吹き出すように笑った。


私は怯えた。

私自身できた人間とは思っていないが、もし、あの時やまびこを楽しんだら…


今の私とは全く異質の存在がここにいたのかもしれないのだ。


だが、なぜ鏡の中の人間は現実の人間と入れ替わりたがるのだろう。


私の疑問を察したかのように老人が呟いた。

「鏡の世界はな、現実の世界で覗かれていない限り、何もないんだ。真っ暗で、奇妙な音だけが鳴り響く、延々と続く暗闇の世界なんだ」座っていた老人は立ち上がった。

「だから、鏡の中の奴は常に現実の自分と入れ替わりたがっている」


私は、不気味さの中に、少し荒唐無稽さを感じ、努めて作り笑いをして言った。

「どうして、そんなこと分かるんです?」


老人は私の目をじっと見つめ、言った。

「わしがそうだったからだ。わしの現実は見るに堪えないような奴だった。村の衆を助けるために、わしは奴を鏡送りにした」


私は背筋が凍り付いた。

そして、脚が震えはじめ、老人に合わせて立ち上がることもできなかった。


老人は踵を返しながら言った。

「それじゃあ、若い人。『鏡山にやまびこ呼ぶべからず』…ってな。ゆめゆめ忘れるなよ」


老人は歩き始め、山頂から下って行った。


私はその場にへたり込んだまま、動けなかった。


何の音も出したくない。

とにかく、下山しないと…。


もし、誰かが山にやってきて、私のいるすぐそばで「やまびこ」を呼んでしまったら…


どんな怪異か、悪魔がやってくるか分からない。


私は上りの疲れも忘れ、早々にリュックを担ぐと山頂を後にした。



私が山頂を下る時、登ってくる一組の中のよさそうな夫婦とすれ違った。

気さくに挨拶してくれた夫婦へ会釈を返し、私は急いで下った。



そのしばらく後、山頂から元気のよい「ヤッホー」と言う声と、それを返す「ヤッホー」という不穏なやまびこが聞こえたのだった。




【おわり】

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やまびこの山 差掛篤 @sasikake

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