第2話
「死ぬって…どういう意味ですか」
私は老人の言葉に多少動揺しながら聞いた。
「この『鏡山』はな、ほんとに鏡の世界につながっとるんだよ」老人は言う。
「鏡の世界?」
私は思わず首を傾げた。
こんな山頂で、妙な話を持ち出す老人もいるものだと思った。
老人はそんな私の顔を見てか、続けた。
「この土地に住む年寄りの戯言と思ってもらって構わんよ。そりゃあ、普通に考えれば馬鹿馬鹿しい話さ…」
老人はタバコを取り出して、火をつけた。
山屋の間では、山での喫煙は御法度と聞いたこともあるが…
一服すると、静かに話し始めた。
「しょうもない話だが…」
老人が話したのは昔話だった。
彼が幼少の頃から、この「鏡山」は奇妙な話が出ていたそうだ。
「鏡山でやまびこをすると、人が変わる」
「鏡山でやまびこを呼ぶと、行方知れずになる」
と言われていたらしい。
ある日、村の中でも一番の働き者で、気の優しい男が鏡山に登った。
そこで「やまびこ」をするためだ。
酒の席で、「度胸だめしをしよう」と男衆で話になったからだった。
男は村の人間にとても好かれていたので、「いわくつきの登山は止めた方がいい」と忠告された。
だが、男は「酒の席とはいえ、男に二言はないよ」と笑い飛ばして、山に上がってしまった。
男は、仲間たちと山に登り、大きな声でひとり「ヤッホー」とやまびこ遊びをした。
仲間たちも、特に男のみに何かが起きたように見えなかった。
だから、何事もないように下山した。
だが、かすかに、やまびこ遊びをした男の顔が、険しくなっている事に気づいた者もいた。
異変はそれからだった。
今まで、働き者で気の優しかった男がまるで人が変わったように悪人となった。
働かず、盗みは働き、大酒を飲んでは暴れた。
当初は、仕事疲れかと大目に見ていたものだが、一向に男は改心しない。
それどころか、狼藉は年々ひどくなり、近隣の人間から大金を借りたり、ケガをさせたりが続いた。
そして、男はとうとう、夜中にうら若い娘の住む家に忍び込み、狼藉を働こうとした。
家人が気づいたために、ことなきを得たが、男は取り押さえられ巡査に引っ立てられていったという。
老人は遠い目をして続ける。
「その娘さんは、面倒見の良い近所のお姉さんだったが…。わしに恐ろしい事を教えてくれた。」
老人の話では、娘さんが服を掴む男を振りほどこうとしている時だった。
とっさに男の肩越しに化粧台の鏡が目に入ったらしい。
通常であれば、鏡には、襲われそうな自分と、覆いかぶさろうとする男の背中が見えるはずだ。
だが、鏡に映っていた男は、娘さんの方を向き、絶望の顔を浮かべ大きく口を開けて何事か叫んでいたらしい。
そして、必死になって、鏡の向こうから、鏡に何度も拳を打ち下ろしていたそうだ。
まるで牢屋に閉じ込められた人間のようであったという。
鏡の向こうで絶叫し、鏡面を叩くことで、私の窮地を誰かに知らせようとしてくれていた…そんな気もしたと娘は言ったらしい。
襲われるまで、秘かに男を慕っていた娘は、鏡の向こうに捕えられた男を見て
「本当のあの方は、鏡の向こうにいらっしゃる」
と直感で思ったそうだ。
直ぐに家人がやってきて、男を取り押さえた時には、鏡には男の姿が映っていなかったという。
家人は虚空を取り押さえているように映っていたと娘は語ったとのことだ。
男は、その後、隣町の監獄へ入り、数年後の仮釈放中に町の人間を殺して絞首刑にされたそうだ。
老人はタバコを地面に擦り付けて消した。
「馬鹿馬鹿しいと思うかい?だが、わしが見聞きした話だよ。その姉さんもとっくに死んでるが」
老人が言うには、遥か昔から、そのようにして行方知れずになった者や、悪行の限りを尽くし、悲惨な末路を迎えたものが多数いたらしい。
いつしか、「鏡山」の噂は集落に定着したそうだ。
私は、にわかに信じ難かった。
老人は、どこか、遠い山の方を指して言った。
「鏡の向こうの自分と、やまびこを通じて入れ替わるんだ」
【つづく】
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