二、尼と鎌鼬

「おやまあ、大仰な姿形は闇夜の仮初かと思えば」

 明くる日の昼前、寺の中庭に出た珠景が眉を上げておちょくった。

 

「けっ、半端な畜生共と一緒にするな。それよりこの羂索けんさくを解けっ」

 枝垂れ桜の幹に縛り付けられた鎌鼬は、短い後ろ足をじたばたさせて牙を剥く。身を捩って前足の鎌で縄を切ろうと試みるが、なかなかどうして、あと一寸のところで刃が届かない。

 

 そんな物怪の涙ぐましい奮闘を眺め、珠景は腕を組んで涼しい顔をする。

「お前さんが悪さをしないならね。いったい如何して里に降りてきたんだい」

 すると鎌鼬は、忌々しげに唾を吐き捨てた。

「お前ら衆愚が山を軽んじるからだ。入欧だなんだと色めきやがって。俺の恐ろしさを思い知らせてやるまでよ」

「ああ、なるほど。畏怖がなければ物怪の神気は衰えるからね。どうりであっさり気絶したわけだ」

「音越えの鏑矢なんぞ喰らって平気なわけあるか、鬼ばばあ。――痛え!」

 手当された腹の矢傷を引っ叩かれ、鎌鼬の悲鳴が蒼天に響いた。

 

「刺してもないのに大袈裟な。それに、あたしはまだ三十路よ」

 首を斜めに傾けて見上げる、珠景の不満げな眼差し。束の間、鎌鼬は愉快げに口を歪めたが、自分が縛り上げられていることを思い出したのか、すぐにその表情を引き締めた。

「僧侶なら説法で改心させて見せろ」

「その説法を三度も無視したじゃない。仏の顔もなんとやらさ」

 言いつつ、珠景は一歩、二歩、三歩と枝垂れ桜に背を向けて離れてゆく。

 

「待て尼法師っ。まさかこのまま、老いぼれた桜にふん縛っておくつもりか!」

 身を捩り叫ぶと、珠景が紫紺の法衣を翻してくるりと振り返った。形の良い切れ長の目が細められる。鎌鼬は嫌な予感を唾と共にごくりと飲み込んだ。

 

「あたしの眷属となるなら、檀家だんかにお前さんの恐ろしさを流布してやろう」

 鎌鼬は総毛立った。冗談じゃない。

「坊主の下僕なんぞになってたまるか。この桜に串刺しになったほうがマシだ」

「可愛げのないこと。……そうだ、名を与えてやろう。名付け親には逆らえまい」

「なに!? 止せっ、俺は誰にも飼われんっ」

 自らの頭身よりも頭二つも大きな獣が喚き威嚇しようとも、尼僧は肩すら震わせない。彼女は細い顎に指を当て、思案げに目を瞑った。薄桜を纏った枝葉が剃髪された女の滑らかな頭をこそっと撫でて、花弁が肩に零れる。宗教画じみた風雅な光景だった。鎌鼬はつい、うつけて黙り込んだ。

 

「何がいいかねえ」

 すると刹那のうちに、俗っぽい弾んだ声が彼を正気に返した。

「こらやめろっ。……そうだ、実は俺には既に名があるんだ」

「へえ、どんな?」

「待ってろ。えっと、ええと…………」

 試すように見上げる女の視線。鎌鼬は桜へと胡乱に目を逸らした。齢百云十年の智慧を振り絞り相応しい名を――――。


「……俺は大太刀裂風オオタチノサキカゼ――――」

「ジン、でどうだい」

 鎌鼬は目をぱちくり丸くした。知らず、長いしっぽが機嫌良さげに揺れている。珠景はそれを一瞥すると、法衣の袖を口元に遣って微笑んだ。

「しっくりきたみたいだね。鎌鼬のジン」

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