第99話 先輩
夜に寝るとお母さんが泣き叫ぶから、私は、夜に寝なくなった。
「大丈夫、大丈夫」
お母さんの背中を擦る日々。
半年もしないうちに、私は音を上げた。
学校を休んで、お姉ちゃんに連絡した。
お姉ちゃんは会ってくれたけど、ぶっきらぼうだった。
「私がお母さんに離婚届を書かせたんだから、お金を稼ぐ責任があるんでしょう?…だったらあんたが、お母さんの面倒を見るのは当たり前でしょ。お母さんの世話、あんたの世話、それに加えて私に稼げって言うの?ふざけんな」
「高校入ったら、私もバイトするから」
「あんたは働くな。またあんなことされたら、たまったもんじゃない」
あんなこと…先輩のこと。
「しないよ。普通にバイトするよ」
「信用できない。とにかく私が働いて稼ぐから、あんたはお母さんの面倒見てて」
お姉ちゃんはそう言って、勝手に歩き出した。
追いかけようとすると「もうこれで話は終わり。この程度のことで連絡してこないで」と言って、去っていった。
それから私は心を殺して、ただ死んだように生きた。
去年、文化祭に参加したくて、1年ぶりにお姉ちゃんに連絡した。
『1週間だけで良いから、帰ってこれない?』
『無理』
たった、それだけのやり取り。
それだけのやり取りで、私の心は折れた。
“もういいや”って。
“どうでもいいや”って。
なんとなく過ごせば、時は過ぎていく。
誰かに告白されても、ヤる気も起きなかった。
でも、誰かに“好き”と言われることは、私の心を保つ唯一の支えだったかもしれない。
例え、相手が私の表面しか見ていなかったのだとしても。
“起きないと、いたずらしちゃいますよ”は、久しぶりに、私の心を#擽__くすぐ__#った。
私、頭おかしいんだ。
たったそれだけで、ヤりたくなった。
気持ちが、
ただ“気になるな~”、“これって恋なのかな?”なんて軽く思っていただけの気持ちが、一気に昂った。
「お母さん、明日、穂来るって」
「え~!?嬉しい嬉しい!久しぶり!…お母さん、嫌われちゃったのかと思った」
「そんなわけないでしょ。学校あるんだし、穂は生徒会もやってるんだから、忙しいんだよ」
「…そっか。そうだよね」
へへへとお母さんが笑う。
「他の友達も連れて来ていい?」
お母さんの目が輝く。
…私が心を殺してから、お母さんは随分明るくなった。
私の心を殺せば、お母さんが笑えるんだと思った。
「もちろん!…じゃあ、部屋掃除しなきゃ」
そう言って、壁に掛かってる小さな箒を手に持つ。
…でも、心を殺さない方法も…あるのかもしれない。
それでも、お姉ちゃんに連絡しようとすると、手が冷たくなる。
なんて言えばいいか、わからない。
穂が一緒に来てくれたとして、お姉ちゃんが「誰?関係ない人連れてくんな」とか言うところが想像できる。
「私、穂ちゃん好き」
お母さんはしゃがみながら、畳を箒で掃く。
「なんだか、お母さんを思い出すの」
初めて聞く話。
お母さんが、こんなにも穏やかなのは、いつぶりだろう。
「なんでかなあ?…優しい、よね。お母さん、お花も好きだったな…。だからこの前、穂ちゃんがプレゼントしてくれて、嬉しかったの。それで、お母さんがお花好きだったの、思い出した」
穂が買ってくれたビニールの花瓶。
ずっと座卓に置いてある。
穂から貰ったお花が枯れてしまって、お母さんは泣いていた。
だからこの前、一輪のダリアを買ってきて、挿してあげたら、お母さんが喜んだ。
「そうなんだ」
「よく、お父さんと…病院に、お見舞いに行ったな」
お母さんの目から涙が落ちる。
「お母さん、病気になる前は、庭でガーデニングをしていてね、私もよく手伝ったの」
私は、お母さんの家…じいちゃんの家に、一度も行ったことがない。
なんとなく、千陽の家をイメージする。
いや、千陽の家というより、その周りの家。
千陽の家は冷たい感じがするけど、周りの家の中には、たくさん花が咲いている家もあった。
私は興味もなかったけど…良いもの、なのかな。
フゥッと息を吐いて、俯くお母さんを見る。
「ガーデニング、したい?」
「…どうかな?私にはできないかも」
「なんでも、やってみたらいいよ。我慢しないでさ」
お母さんが私を見た。
目をパチパチと瞬かせて、瞳に溜まっていた涙を落とす。
ニコッと笑って、私に飛びついてくる。
「そうだね!」
「穂の家のベランダにお花咲いてたから、教えてもらったら?」
「え~!そうなんだ~!…うん!じゃあ、明日聞いてみる」
「うん」
お母さんが私の生物の教科書を読み始める。
私も隣で勉強して、1日過ごした。
千陽の家のインターホンを鳴らす。
「永那~、おはよ~、ちょっと待ってね~!」
馴れ馴れしくて苦手な、千陽の母親。
抱きしめられるから、苦笑いする。
千陽が出てきて「行こ」と言う。
「行ってらっしゃ~い」
そう言いながら、千陽の母親はもうスマホを見ていた。
昨日の帰りも、今朝も、千陽との間に会話はない。
電車の手すりに、お互い向かい合って立つだけ。
私は窓の外を見て、千陽はスマホを見ている。
穂と付き合う前は、母親みたいに、千陽はベタベタくっついてきていたけど、最近はそれも少なくなった。
***
放課後、唇に何かが触れて目が覚める。
穂は、学校では、私の唇を指でなぞることにしたらしく、いつもこうして起こされる。
本当は、夏休みみたいに、キスして起こしてほしいけど。
「永那ちゃん」
優しい、安心する声。
立っている彼女を抱きしめる。
目一杯、彼女の匂いを肺に溜め込む。
フゥーッとゆっくり息を吐く。
「おはよ」
そう言うと、ほんの少し頬をピンク色に染める穂。
もういい加減慣れたらいいのに。
クラスメイトのほとんどが注目していない。
「おはよう。…行こう?」
可愛い。好き。
「うん」
彼女の手を取って、横に立っていた千陽と目を合わせてから、歩き出す。
正直、千陽の家を知ってるから、自分の家が恥ずかしくてたまらない。
自然と、穂を握る手に力が入る。
穂が握り返してくれるから、嬉しくなる。
「あ、永那ちゃん」
「ん?」
「お花、買っていってもいい?」
「あー…今、ダリア飾ってるよ」
「そうなの?」
穂が、驚きつつも嬉しそうに笑う。
はあ…可愛い…。
「まあ、一輪だけだけど…」
「何色?」
「赤」
「じゃあ、それが映えるように、何か買っていったらいいかな」
花屋の前で、穂が楽しそうに花を選ぶ。
千陽は、学校から離れたからか、穂の腕に腕を絡めていた。
「穂が掃除のときに教室に飾ってる花、いつも買ってるの?」
千陽が聞く。
「買うときもあるし…家のお花がたくさん咲いたときは、切って持っていってるかな」
「へえ」
興味があるんだか、ないんだか。
家の前についても、千陽は顔色一つ変えない。
ホッとしていいのか、なんなのか。
最近の千陽はよくわからない。
…これが、あいつの本当の姿だったのかな。
あいつも、自分を殺して生きてたのかな。
ひとりぼっちに、ならないために。
穂とブロック塀に寄りかかって、何か話している。
それを見ながら私はドアを開けた。
お母さんがまだ寝ていた。
私はお母さんを起こす。
「んぅ?永那?」
「お母さん、穂と友達、来るよ」
目が大きく開く。
「ど、どうしよう!?あ~!あ~!」
「大丈夫、大丈夫。ゆっくり、準備しよ?」
そう言って、お母さんの髪を櫛で梳いてあげる。
一つ結びにして、適当な服を取る。
「変じゃない?」
「可愛いよ」
「本当?」
「私が選んだんだよ?」
「そ、そうだよね」
お母さんは照れくさそうに笑う。
お母さんが自分の服を見ている間、スマホで千陽に『いいよ』とメッセージを送る。
インターホンが鳴って、ドアを開ける。
穂が見えて、お母さんが裸足のまま、彼女に抱きついた。
「会いたかった~穂ちゃん」
「お母さん…私も、会えるの楽しみにしてました」
お母さんがへへへと笑う。
千陽のほうを見て「わあ!」と言う。
「美人さん」
千陽はペコリと頭を下げて「
「永那~、友達みんな美人だね~」
ニヤニヤするから「そうでしょ」と眉を上げて答えた。
「ほら、2人、入れてあげよ?」
「あ!うん!」
2人が靴を脱ぐ。
穂が靴を揃えて、千陽もそうする。
…千陽、そんなことしてたっけ?
「お母さん、これ」
「わあ!お花!」
「ダリアがあると聞いたので、それに合うようにと思って」
お母さんが穂の手を引く。
「飾って!飾って!」
「はい」
穂にハサミを渡すと、茎を短くして、花瓶に挿してくれる。
「千陽、適当に座って」
千陽は頷いて、穂の隣に座る。
持っていた袋をテーブルの上に置いて、スッとお母さんのほうに移動させる。
「今日、お邪魔させてもらったので…どうぞ…」
「え~!ありがとう!何かな?」
私は紙コップにお茶を入れて、全員分をテーブルに置いた。
「うわ~!宝石みたい」
千陽が優しく笑う。
…作り物じゃない、自然な笑顔。
そっか。穂といると、千陽はこんな顔をするのか。
千陽に穂を盗られるんじゃないかって焦ってて、全然見えてなかった。
「本当だ。すごく綺麗」
穂が箱を覗き込む。
私も気になって見てみると、フルーツの形をしたグミがたくさん入っていた。
「食べてもいいの?」
「はい」
お母さんがぶどうの形をしたグミを取って、小袋を開ける。
「ん~!おいし~!何これ~!!すごい!」
私も1つ取って、口に入れた。
噛んだ瞬間、オレンジの香りがぶわっと口の中に広がった。
駄菓子のグミをイメージしていた…というか、それしか食べたことないから、それしか知らなかったけど…なんだこれ。
「うまっ」
てか、いつの間にこんなん買ったんだ。こいつ。
「ほら、穂ちゃんも…えっと、千陽ちゃんも、一緒に食べよ?」
穂が1つ取って食べて感動する。
千陽は無表情だ。
「…これは、もったいなくて食べられない」
私が言うと「ホントだね~」と、4つ目のグミを口に入れながら、お母さんが言う。
全く“ホントだね”じゃない。
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