第97話 先輩

自分にしてあげられることがないのが、辛い。

私は、永那ちゃんに…何をしてあげられるんだろう。

学校の先生に相談するのが一番良いと思ったけど、永那ちゃんが嫌だと言うなら、それはできない。

…お姉さんは、なんで一緒に住んでいないんだろう。

お祖父さんは、どうして助けてあげないんだろう。

どうして、お母さんは…。

離婚したお父さんは、どこに…。

そんな、考えても仕方のないことを延々に考えていた。

…私のお父さんは、どこにいるんだろう。

何をしているんだろう。

元気にしてるのかな。

私のこと、覚えてるかな。

誉のことは…?


誉が料理をしてくれる。

「誉、上手になったね。もうなんでも作れちゃうんじゃない?」

「大袈裟だよ」

そう言いつつも、誉が嬉しそうに笑う。

「誉」

「なに?」

「お父さんいなくて寂しい?」

「あっつ」

手をぶんぶん振りながら、誉が飛び跳ねる。

「大丈夫?」

「う、うん…なに?急に」

「いや…どうなのかな?って」

「んー…わかんない。姉ちゃんが、いてくれるし…そんな、寂しくはないと、思う。…でも、そりゃあ、いてくれたらどんなかなあ?とは思ったりするよ」

「そっか」

「姉ちゃんは…寂しいの?」

誉が上目遣いに私を見る。

「今は、そうでもない」

「そっか」

「誉、一緒にいてくれてありがとう」

誉はパチパチと瞬きをした後、頬をピンク色にして、唇を尖らせた。


ご飯を食べた後、部屋で勉強をしていたら、スマホの通知が表示された。

『あたし、本当に明日行っても大丈夫なのかな?』

千陽もいてくれたら、何か状況が変わるんじゃないかと思って、流れで千陽を誘ってしまった。

でも千陽からすれば、永那ちゃんの事情を昨日初めて知ったわけで、戸惑うのも無理はない。

部屋のドアを閉める。

フゥッと息を吐いて、イヤホンをつけて、通話ボタンを押す。

「穂」

「千陽、ごめんね」

「なにが?」

「急に、巻き込んじゃって」

「べつに…永那のことは、ずっと知りたかったから、知れて嬉しかった。あたしには、教えてくれると思ってなかったから」

「…そっか」

「昔…永那の家に行きたいって言ったことがあったの。でも“絶対嫌”って言われて…本当にあたしが行っても大丈夫なのか、心配になっただけ」

「…そう、だったんだ。ごめんね、何も知らずに…誘って」

「謝らないで。…ただ、大丈夫なのか、聞きたかっただけだから。永那の家に行けるなんて、それも、あたしにとっては嬉しいことだし。でも…お母さんのこととか…その…穂は前に会ったんだよね?あたしが会っても平気なのかな?」

「そっか。…お母さんは、私が会ったときは、すごく優しくて、可愛い人だったよ」

「可愛い人?」

「うん。少し…無邪気な子供みたいな…そんな雰囲気だった」

「ふーん…」

「緊張する?」

「…うん」

「お母さんは、千陽が家に行っても、喜んでくれると思うし…永那ちゃんも“嫌じゃない”って言ってたから、きっと大丈夫。嫌なら嫌って言ってくれると思うから」

「わかった。ちょっと、安心した」


「…ありがとう、千陽。私1人じゃ、どうすればいいのか、わからなくて…。永那ちゃんに何もしてあげられないことが、悔しくて」

「大丈夫」

「え?」

「あたし、穂と一緒にいると安心する。穂が、いてくれるだけで、安心する。永那も同じだと思う。穂が大事にしてくれようとするたびに…心が…あったかくなる。その気持ちが、一番嬉しいの」

ポタポタと、涙が机に落ちる。

「穂、好き」

いつも言ってもらっている言葉なのに、いつもより喜びが胸に溢れる。

涙が溢れて、胸が締めつけられて、何も返せない。

「好き、大好き」

耳に直に響く彼女の声が、あまりに優しくて。

「好き」

必死に鼻を啜って、目を拭って。

「私も…千陽が好き」

なんとか返す。

フフッと彼女が笑って「あんまり誰かと通話ってしたことがなかったけど、穂となら毎日してもいいかも」なんて言う。

「ま、毎日は…」

「冗談。…半分くらいは」

絶対半分じゃないじゃん。

焦っていた気持ちが、落ち着いていく。

「時々、してもいい?」

「うん」

「好き」

熱烈だなあ。

「じゃあ、また明日。穂」

「うん、また明日」

プツッと通話が切れる。


しばらく机に突っ伏して、呼吸に集中する。

千陽の“好き”がまだ脳に響いてる。

永那ちゃんの叫びが蘇って、目を閉じた。

今度は私が、永那ちゃんを引っ張り出してあげたい。

違う世界に連れていってあげたい。

どうにもならないことはあったとしても、それでも。

私1人ではどうにもならなくても、千陽となら…。

もしかしたら、優里ちゃんにもお願いして。

そうやって、1人で閉じこもるんじゃなくて、みんなを頼って。

…そう、教えてくれたのは、永那ちゃんだったから。

永那ちゃんは“何かをしてあげようと思ったわけじゃない”と言っていたけど、それでも…。


***

■■■


“我慢してほしくない”

すいの言葉が脳内で繰り返される。

穂がいてくれるなら…もう一度、頑張れるかな。


お姉ちゃんは高校を卒業するのと同時に、家を出て行った。

私は中3だった。

お母さんは暴れた。

「また捨てられた」

そう泣き叫んで。

お母さんは、子供の頃に母親を病気で亡くしている。

だから私におばあちゃんはいない。

祖母(私からすれば曾祖母)に育てられたけど、そのときに「お母さんはもういないんだから、しっかりしなさい。いつまでも泣くんじゃない」と厳しく育てられたらしい。

“お母さんはいない”という言葉が、お母さんにとっては“捨てられた”という認識にすり替わった。

父親(私からすれば、じいちゃん)は、お母さんに関心が少なく、毎日仕事漬けで、ほとんど会話はなかったらしい。


寂しかったお母さんは、18歳という若さでお姉ちゃんを産んだ。

父親も同い年だった。

じいちゃんは2人の結婚に大反対して、駆け落ちのような形で2人は結婚した。

だから私は、じいちゃんの連絡先を知らない。

最初は…そこそこ上手くいっていたらしい。

私が生まれて、そのうち、父親は荒れるようになった。

「俺だってみんなみたいに遊びたい」「なんで俺ばっかり働かなきゃいけないんだ」「お前がガキなんか産んだから」

そう言って、お母さんを傷つけた。

それでもお母さんは父親が好きで、「私のせいだから」と笑った。

私が物心つく頃には、父親はほとんど家には帰ってこない存在だった。

お母さんは働いていたし、父親が「なんで俺ばっかり働かなきゃいけないんだ」と言う意味がわからなかった。


父親は酔っ払いながら、たまに帰ってきては、私の肩を抱いた。

「お前は可愛いなあ。さすが俺の子だ!」

なんて言って、それが愛されるということだと思っていた。

お姉ちゃんにも同じことを言いながら、髪をぐしゃぐしゃに撫でていた。

お母さんが「私も~」と父親に抱きついて、父親は少し悪態をつきながらも、お母さんを抱きしめていた。

酔いが酷くなったり、お母さんがしつこかったりすると、父親はそのうちイライラし始めて、お母さんを叩いた。

「俺にばっか甘えんなよ!俺だって必死なんだよ!」

そう言って、お母さんを蹴る。

お母さんが「ごめんなさい」と何度も言って、泣く。

「やめて」と言っても、父親の暴力は、止まらなかった。

父親はお母さんが用意する食事を投げ捨てて「ウザいんだよ!」と叫ぶ。


私が中1になってすぐ、珍しく父親が酔っ払わずに家に来た。

テーブルに離婚届を叩きつけて「離婚してくれ」と言った。

お母さんは何も言わずに涙を零した。

「もう、いいだろ」

そう言って私を見た。

「頼むから…もう、自由にさせてくれよ」

「ごめんなさい」

お母さんが泣きながら、小さく言う。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「うるせーよ!それがウザいっつってんだよ!お前ばっかかまってらんないんだよ!俺にだって俺の人生があんだよ…。別れて、くれよ…」

私は膝の上でギュッと手を握りしめた。

「お母さん…もう、いいじゃん」

お姉ちゃんが言う。

お母さんの手が震える。

震えた手で書いた文字は揺れていて、気づけば、私の目から涙が流れていた。

お母さんが離婚届を書き終えると、父親はその紙を奪うように取って、私とお姉ちゃんの頭をポンポンと撫でて「じゃあな」と、出て行った。


「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁぁっ」

お母さんが絶叫する。

綺麗な長い黒髪をぐしゃぐしゃにして、泣き叫ぶ。

お姉ちゃんは立ち上がって、部屋にこもった。

私は、お母さんを抱きしめる。

「大丈夫、大丈夫」

お母さんの背中を擦る。

私の具合が悪いといつも、お母さんがそうしてくれたみたいに。

「お母さんには私がいるよ」

そう言っても、お母さんの涙は止まらない。

「捨てられた、私がダメな子だから…私が…」

どんなに彼女の顔を拭っても、涙も鼻水も溢れて、止まらなかった。

そのうち自分の目からも涙が溢れ出して、それを肩で拭いながら、必死にお母さんの顔を拭った。


「お母さん、仕事、行かないの?」

学校に行く前、お母さんが起きないから、声をかけた。

返事がなくて、顔を覗きこんだら、目が開いていてびっくりした。

「お母さん?」

肩を揺さぶると、視線だけこちらに向けた。

すぐに視線が外れて「今日は行けないの」と呟いた。

「そっか。具合悪い?…なにか、買ってこようか?」

小さく首を横に振るから、私は立ち上がって「じゃあ、学校行ってくるね」と言って、外に出た。


しばらくそんな日が続いたある日、お姉ちゃんの怒鳴り声で目が覚めた。

「金どうすんだよ!私のバイト代だけじゃやってけないんだけど!」

「あんたが…!あんたがお父さんを追い出したんでしょ!?」

「は!?なんで私のせいになるわけ!?お母さんがクソジジイに依存してるのが悪いんでしょ!?」

「あんたが!あんたが生まれなければ、お父さんは出て行かなかった!」

お姉ちゃんの目が見開かれる。

両目から涙が溢れ出て、お姉ちゃんが家から出て行く。

お母さんは頭を抱えて蹲って、嗚咽を漏らした。

私はその背中を擦る。

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