第57話 噂

なんで今?

…なんで今、その話をしたの?

「穂?」

自分を落ち着かせるために、目を閉じる。

「穂?どうしたの?」

フゥーッと息を吐く。

「永那ちゃん」

「なに?」

「それさ、噂通り、キスしてるじゃん」

「え!?」

「“やめろ”って言ったんじゃないの?」

「言ったよ?キスされそうになったから…」

…あー。だめだ。思考が追いつかない。

「あの、さ…永那ちゃんにとって、ほっぺのチューはキスの内に入らないの?」

「え…?えーっと…あんまり、入ってなかった」

奥歯をギリリと噛む。

そして、大きくため息をつく。

「そうなんだ…」

ただ、大きく深呼吸を繰り返す。

眉頭に力がこもる。


「永那ちゃんは、感覚がおかしいんだね、きっと」

「うぇ!?」

「だってそうじゃん!…おかしいじゃん!キス、してるじゃん!…私からすれば、ほっぺだろうが口だろうが、あるいは別のところでも、キスはキスだよ!」

「ご、ごめん」

「永那ちゃんは、例えば私が日住君にほっぺにチューされてもいいんだ?そういうことだよね?」

「え?日住?…あ、後輩の?…え、嫌だよ!」

「おかしいじゃん!…自分だけはいいの?」

「…ごめん」

「もう、知らない。帰る」

「穂!…ごめんて」

腕を掴まれる。

「嫌だ。…帰る」

永那ちゃんの手をそっと離して、私は早歩きで家に向かう。

家について、手も洗わず、私は部屋にこもった。

スマホに『ごめんね』とメッセージが入っていたけど、知らんぷりした。

膝を抱えて、溢れ出る涙を、誰もいないのに隠す。

誉に呼ばれたけど、それも無視した。

お母さんがドアをノックして「どうしたの?」と聞いてくれるけど「ほっといて!」と大声を出した。


夜、2人が寝た後、私はタッパーに入っているご飯を食べた。

シャワーを浴びて、永那ちゃんの指の感覚がまだお腹に残っていて、悲しくて、涙がまた出てきた。

虫に刺されたところが、赤く腫れている。

こんなに泣くのは、いつぶりだろう?

…そういえば、前は、永那ちゃんが抱きしめてくれたんだ。

ため息が溢れる。

私、自分がこんなに泣く人だとは思わなかった。

…私って、めんどくさいかな。

でも、嫌だったんだもん。

アメリカ人だったら良かったのかも…。ほっぺにチューしても、挨拶なんでしょ?


寝たのは3時過ぎだった。

起きると、リビングから話し声が聞こえてきた。

ドアを開けたら永那ちゃんが椅子に座ってて、慌てて閉めた。

心臓が一気に動き始める。

「穂、おはよ」

ドアの向こう側から、優しい声で言われる。

「穂」

時計を見ると、もう11時で、お腹がぐぅっと鳴った。

お腹がすいたのとは別に、胸が締めつけられるような感覚が生まれる。

「ごめんね、本当に」

胸がズキズキと痛む。

涙がポロポロ落ちていく。

…永那ちゃん、昨日も寝てないんだし、寝ないとだめなのに。

またクマが酷くなっちゃうよ。

怒りたくないのに。永那ちゃんが大好きなのに。私が永那ちゃんにとって安心できる存在でありたいのに。


目をクシクシ擦って、ドアを開ける。

前髪を指で梳きながら、俯く。

「おはよ。…顔、洗ってくる」

目を合わせずに、洗面台に行く。

目が腫れている。

昨日も今も泣いたんだから、当然だ。

「穂」

鏡越しに永那ちゃんと目が合った。

後ろから抱きしめられて、また胸がキュッと締めつけられる。

「もう絶対、穂を泣かせるようなことしないから」

首筋に優しくキスが落とされる。

「千陽とも、最低限しか関わらないようにする」

私は首を横に振った。

「…違う」

「ん?」

「そうじゃなくて…」

言葉が上手く出てこない。

永那ちゃんは抱きしめたまま、ジッと待ってくれる。


「私が、噂の話をしたとき…そのときに、説明してくれれば良かったの。あんな、帰り際にいきなり言われたら…今まで話したの、なんだったの?ってなるじゃん。しかも、突然、言われて…永那ちゃん、当たり前のことみたいに話して、それも、嫌だった」

「うん、ごめん」

「佐藤さんのことは、私は、好きだよ」

「そうなの?」

「きっと、佐藤さんからすれば、そばにいるのも辛いと思う。でも、一緒に遊んでくれる。何事もないかのように。ありがたいなって、本当に思う」

「そっか」

「…だから、佐藤さんと関わらないでほしいってことじゃない」

「うん」

「ちゃんと、話してほしい。何があったのかとか、何を話したのかとか、ちゃんと」

「うん、わかった」

鏡越しに、また目が合う。

「ごめんね」

そんな優しい顔で、優しい声で、優しく抱きしめられて言われたら…もう…そんなの…「いいよ」って言うしかできない。

私が顔を後ろに向けたら、唇を重ねてくれる。

「好きだよ、穂」

「うん」

頭を撫でられて、手を繋いでリビングに戻った。


***


お母さんと誉の視線が一瞬私達の手元にいくのがわかって、私は慌てて手を離した。

「ねえ、姉ちゃんと永那って付き合ってんの?」

ご飯を食べながら誉が言った。

私は食べていたご飯を吹き出しそうになって、口元を手で押さえる。

お母さんが誉の肩を小突いた。

「こら、そういうこと、ハッキリ聞かないの!」

「え、なんで?だめなの?」

私と永那ちゃんは顔を見合わせる。

「だってさ、明らかに千陽と優里とは違くない?めっちゃ2人仲良しじゃん」

…いつの間に誉は佐藤さんを千陽と呼び、優里ちゃんを優里と呼び始めたの?

「誉は、私と穂が付き合ってたらどう思う?」

永那ちゃんが頬杖をつきながら聞く。

2人きりだったら、“食事中に頬杖つかない”って叱ってただろうなあ。

「え?べつに?なんも思わないけど」

「そっか。…じゃあ、付き合ってる」

私の顔が一気に熱をおびる。

「やっぱそうだよね?おかしいなあって思ってたんだよ。やっと納得できたわ」

「た、誉…絶対友達に言いふらさないでよ?」

「なんで?」

「“なんで?”じゃない!誉の友達、絶対“ヒューヒュー”とか言ってくるでしょ?…本当にあれ、嫌だから」

「あー」

誉は想像してみたようで、すぐに「わかったよ」と頷いた。


食事を終えて、お茶を持って2人で部屋に入る。

永那ちゃんと一緒にベッドに寝転ぶ。

横向きになって、2人で見つめ合った。

フフッと笑い合ってから、触れるだけの口付けを交わす。

「朝、3人で何話してたの?」

「まず、私が穂を泣かせちゃったって話をして、謝りたいから待たせてほしいってお願いした」

「内容まで言ったの?」

「言えないよ…そんな、自分のバカさを晒すようなこと?…だし、誉には付き合ってること言ってなかったでしょ?言えないよ」

「じゃあ…なんて言ったの?」

「普通に、さっき言ったまま。昨日私が穂を泣かせちゃったって」

「そっか」

「うん。それで、その後は誉の熱がうつったこと?謝られたりお礼を言われたり」

「うん」

私は苦笑する。

「あとは誉が海楽しみって話をしてて、5人で行くって言ったら、お母さんにまたお礼を言われた。…誉、そんな悪がきとかじゃないし、むしろ素直でめっちゃ良い子だから、お礼言われること、なんもないのにね。…それも、言ったかな」

…そうやって、全国のお母さんが喜びそうなことを平気で言うんだから。

本当、天然のヒトタラシは困るよ。

「誉、ノリもめっちゃいいし、一緒にいて楽しいよ」

「ありがとう」

「え?なんでありがとう?」

「家族を褒められたら、嬉しいものですよ」

永那ちゃんの目が大きくなる。

「…そっか」


永那ちゃんが抱きしめてくれる。

「永那ちゃん?」

「ん?」

「曖昧になっちゃったけど…私も、記念日忘れててごめんね」

彼女がフッと笑う。

「いいよ。結局、穂を悩ませていたのは自分だったわけだし。それで忘れちゃったって言われたら、自業自得じゃん」

「…でも、それでも、永那ちゃんを悲しませた」

「大丈夫だよ」

「永那ちゃんの“大丈夫”は、私に言ってくれるときはかっこいいけど、永那ちゃん自身のことを言うときは嫌い」

「き、嫌い!?」

「大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃないもん」

そう言って、私は彼女の腕のなかで、彼女の胸をさすった。

永那ちゃんの喉が上下する。

「そっか…」

抱きしめられる力が強まる。

どんどん強くなって、潰されているみたいになる。

…ちょっと苦しい。

「好き、大好き、穂、本当に好き。世界で1番好き」

「苦し、い」

「ごめん」

パッと解放され、私は深呼吸する。


「永那ちゃん、おやすみ?」

「でも」

「どうせ昨日も寝てないんでしょ?お願いだから、寝て?」

「…明日も、来ていい?」

「もちろん」

「そっか…。じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」

目を閉じると、彼女は数秒で寝息を立て始める。

私も安心して、数分後に夢の中に誘われた。


アラームの音で目が覚める。

…永那ちゃんを起こさなきゃ。と、なんとか重たい体を起こす。

仰向けで寝ている彼女の唇に唇を重ねる。

まだ眠くて、瞼が何度か落ちかける。

でも“起こさなきゃ”という気持ちだけで、なんとか起きている。

彼女が胸元をボリボリ掻く。

私はその手元をジッと見て、なんとなく、本当になんとなく、彼女の胸に手を置いた。

手におさまる柔らかい感覚が心地よくて、むにゅむにゅ揉む。

“起こさなきゃ”という気持ちが蘇って、また彼女にキスする。

そしたら、彼女の目が薄く開いて、口が弧を描いた。

「おはよ、穂」

キスしながら話されて、それがすごくかっこよくて、私も笑った。

カチッと歯が当たる。

「あ」

フフッと彼女が笑う。


永那ちゃんが起き上がるから、自然と私は彼女の膝に座ることになる。

「そんなにさわられたら、穂のこと、食べたくなっちゃうよ?」

耳元で囁かれて、一気に目が冴えていく。

…あれ!?私、何してるの!?

彼女が楽しそうに笑う。

「可愛い穂」

ポンポンと頭を撫でられた。

永那ちゃんは伸びをしながら大きく口を開けて、あくびをした。

「…無事仲直りもできたし、今日は帰るかー」

玄関で彼女を見送る。

そこで気づく。

またお土産わたすの忘れた…。

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