第54話 噂

「するわけないじゃん」

不貞腐れて、また私の肩に頭を乗せる。

「そうだよね…」

永那ちゃんがまた体を起こす。

忙しないなあ。

「穂、信じたの?」

「ううん、信じてないけど」

「けど?」

「噂では、キスしてたのが授業中だったらしくて…ほら、2人が授業に戻ってこなかった日があったでしょ?それで少し不安になったの」

永那ちゃんの眉間のシワがなくなって、ボーッと視線を上に向ける。

「永那ちゃん…?」

「それは…見間違いだな」

「見間違い?」

永那ちゃんがため息をつく。

「たしかにあの日、千陽に迫られてビビった」

衝撃の事実を知らされて、胸がズキリと痛む。

「せ、迫られたの?」

「うん、なんか、壁に追いやられて。でも、ちゃんと“やめろ”って言ったよ?」

「そう、なんだ…」

そういうことは、早く知りたかった…。

「穂?本当だよ?」

永那ちゃんの瞳が不安そうに揺らぐ。

「あ、うん。わかってるよ」

「よかった」

永那ちゃんが頭を撫でてくれる。


永那ちゃんはまた私の肩に頭を乗せて、目を閉じた。

すぐに寝息が聞こえてきて、私はなんとも言えない気持ちを抱えたまま、電車に揺られた。

永那ちゃんの家の最寄り駅について彼女を起こすと、もう体がフラフラしていた。

「永那ちゃん、熱あるんじゃないの?」

「んー?大丈夫だよー」

彼女の額に手を当てると、少し熱いかな?くらいで、正確にわからない。

「家に風邪薬ある?」

「ん?うん」

「ゼリーとかは?」

「ない」

永那ちゃんは何度も瞬きをして、明らかに具合が悪そうだった。

私は永那ちゃんに寄りかかられながら歩く。

やっぱり早く帰してよかった…。

なんとかコンビニに寄ってゼリーを買い占める。

念のため額に貼る冷却シートも買っておいた。

玄関前まで連れて行くと、顎を上げられて、触れるだけの口付けを交わす。

「ありがと、穂。じゃあ、また月曜日ね。会えて嬉しかった」

少し顔が赤い気がして額に触れようとしたけど「大丈夫」と笑みを浮かべられる。

ポンポンと頭を撫でられて、彼女は家に入っていった。


しばらくドアをジッと見つめていた。

お母さんは永那ちゃんのこと見れるの?

本当に大丈夫なの?

ちゃんと食べられるの?

薬も飲める?

服、着替えられる?

不安じゃない?

寂しくない?

無理してるんじゃないの?

いろんな言葉が脳内に溢れ出て来るのに、金属の扉からは何も返ってこない。

アパートの別の家の住人がこちらを見ているのに気づいて、私は慌てて帰った。


「姉ちゃん、おかえり」

「ただいま」

「どうしたの?」

「永那ちゃん、風邪うつったかも」

「え…マジか…」

「やっぱり来させちゃダメだったよね…」

私は玄関にしゃがみこんで、頭を抱えた。

「姉ちゃん、看病してあげたら?…俺のせいだけど」

「ちょっと家庭の事情があって、家にお邪魔できないの」

「じゃあ、うちに泊まってもらえばよかったじゃん!」

「それも…だめなの…」

「なんで?」

「なんでも!」

つい苛立って、大声をあげる。

「…ごめんなさい」

ハッとして、顔を上げる。

「あ、いや。私も、ごめんね。誉、まだ万全じゃないんだから、寝てな?」

「…うん。…俺、ちゃんと、これからは気をつけるから。雨、当たらないように」

しょんぼりしながら肩を落として、誉は部屋に戻った。


そうだ。

あのとき、私がすぐに誉のびしょ濡れの状態に気づいていれば…。

…誉が熱を出した日、永那ちゃんは“たぶん私のせい”と言っていた。

あのときは意味がわからなかったけど、今ようやくわかった。

私が玄関に行ける状態じゃなかったから…だから、永那ちゃんが誉にタオルをわたしに行ってくれた。

でも誉は適当に拭いて、着替えもせずエアコンに当たって、風邪を引いた。

…ああ。申し訳ない。

永那ちゃんのせいなんかじゃないのに。

あのとき私がめんどくさがらずに、すぐに服を着て確認すればよかったんだ。

それに。

常に睡眠不足な永那ちゃんに、やっぱり任せるべきじゃなかった。

つい甘えた。

彼女の“大丈夫”を信じちゃいけなかった。

…大丈夫じゃないに決まってる。

しかもあのクマ…一体どのくらい起きていたの?


土曜、日曜と連絡がなかった。

月曜日の朝『ごめん、今日行けない』と連絡があって『何か必要な物ある?買って玄関に置いておくよ?』と返事をしたけど、その返事はなかった。

火曜日の朝『大丈夫、だいぶ良くなったよ。…でも、今日も行けない。明日も行けないかも。かっこつけといて、一緒に行けなくてごめん』と連絡がきた。

『気にしないで、ゆっくり休んでね』

返事はもちろん、なかった。


***


『永那、熱出したから明日行けないって聞いた?』

優里ちゃんから連絡がきた。

『うん、私のせいで風邪引かせちゃったから…』

返事をすると、優里ちゃんから電話がかかってきた。

「もしもし」

「大丈夫!?穂ちゃんは風邪引いてない?平気?」

「あ、うん。私は大丈夫…ありがとう」

「そっか~、よかった~!…穂ちゃんは明日行けそう?」

「行っても平気なのかな?…永那ちゃんが行けないのに」

「えー!そんなの気にしなくて平気だよー!永那、よく風邪引くし。高1のときもしょっちゅう休んでたよ?特に夏と冬ね…。夏は公園で寝てるとか言ってて、風邪引くの当たり前じゃんね~」

優里ちゃんが笑う。

…ああ、そういえば佐藤さんも公園で寝てるって言ってたっけ。

優里ちゃんの笑い声で少し安心する。

「明日は私が守るから、安心して!」

「…わかった。ありがとう」

「んじゃ、また明日ねー!」

「うん」

電話越しに人の声が聞こえたし、時間的にも部活動中だったのかもしれない。

申し訳ない気持ちとありがたい気持ちが混ざり合う。


次の日、やっぱり永那ちゃんはプールに来られなかった。

でも『熱はもうないんだけど、咳がすごいんだ』と言われて、物凄く安心した。

誉が熱を出すたびに“死ぬかも”なんて言って、“大丈夫だよ”って返すけど、永那ちゃんのこととなると、全く大丈夫と思えなかった。

駅前で優里ちゃんと待ち合わせる。

クラス全体の待ち合わせ場所はプールの入り口だから、そこまで一緒に行く。

「本当、永那はあんなに楽しみにしてたのに何やってんのかね~」と優里ちゃんが言うから「いや、でもあれは私のせいで」と返した。

「ああ、電話のときもそんなこと言ってたね?何があったの?」

「弟が熱出しちゃって、その看病をしてくれてたの」

「え、あ、そうなんだ!…それはしょーがないね」

優里ちゃんは眉を下げて言った。

いつも通り、途中駅で佐藤さんが乗ってくる。

イヤホンを取って、優里ちゃんの隣に座った。

優里ちゃんは先週1週間部活の夏合宿があったらしく、これから試合もあると話してくれる。

優里ちゃんがいなかったら、私は不参加にしていたんだろうな…と思うと、優里ちゃんの存在のありがたさを感じる。


予想していた通り、みんなでスライダーに行こうという話になったけど、優里ちゃんが断ってくれた。

前回4人でプールに行ったとき、優里ちゃんと佐藤さんは2人でスライダーに乗りに行っていたから、なんだかすごく申し訳なかった。

「佐藤さん、俺らと行こうよ」

それでも、クラスの中でもノリの良い人達が佐藤さんを誘う。

「無理」

佐藤さんが容赦なく拒絶する。

でもなぜか彼らは諦めない。

「えー、ちょっとくらい良いじゃん?佐藤さんも楽しもうよ?」

佐藤さんは一度も彼らを見ていない。

「さっきから流れるプールとかしか行ってないじゃーん、ね?千陽ちゃん」

佐藤さんの眉間にシワが寄る。

彼らが佐藤さんの肩に手を置く。

「ちょいちょいちょい…女子同士の戯れに入ってこないでもらえるかな?男子禁制!」

「うるせーよ、篠田しのだ

「あー?」

「今日は両角もいないんだし、暇だろー?」

その言葉で、どれだけ永那ちゃんが佐藤さんを守ってきたかがわかって、胸が痛んだ。

「スライダー行こうぜー」

「そうだよー、空井さんも!ね?」

急に手を掴まれて、体が強張る。


「えー、なになにー?」

「千陽スライダー乗らないの?」

ノリの良い女子達が参加してくる。

「乗らないって。マジめんどいんだけど」

「去年乗ってたじゃん」

私のせいで優里ちゃんと佐藤さんがノリの悪い人みたいになってしまっている…。

「あの…私はいいから、2人は行ってきていいよ?」

私が言うと「空井さんも来たらいいじゃん」と肩を抱かれた。

全身にゾワッと鳥肌が立つ。

「やめて!」

気づいたら、彼を押していた。

「いったー、え?なに?」

ドクドクと鼓動が速まる。

私は俯いて、足早にその場から去る。

「穂ちゃん!」

プールの隅、誰も見ていないようなところでうずくまる。

…やっぱり来なければよかった。

ガヤガヤとプールが賑わうなか、暗い感情がグルグルグルグル心を支配する。

目を閉じて、膝に顔を埋める。


「穂」

突然、いないはずの人の声が上から降ってきた。

顔を上げると、マスクをつけた永那ちゃんがいた。

「こんなとこにいた」

マスク越しでも笑っているのがわかって、目の下のクマもなくなっていて、目に涙がたまっていく。

「なんで?」

「いや、やっぱちょっと心配になって…」

彼女はTシャツとスキニーパンツで立っていた。

「来てよかったよ」

ゲホゲホと咳をしながら、しゃがんで目線を合わせてくれる。

私は思わず彼女に抱きついた。

ギュッと抱きしめられて、涙がポロポロ溢れ出て来る。

「よしよし」

「ごめんね、私のせいで…私の…」

「なにが?穂が悪いことなんて1つもないよ?」

「でも」

「でもじゃない」

ギュゥッと強く抱きしめられて、彼女の首に顔をうずめた。


「穂、千陽のとこ一緒に来てくれない?あいつも大変だからさ…ごめんね?」

私は首を振って、一緒に立ち上がった。

佐藤さん達のところに行くと、さっきのクラスメイト達はいなくなっていたけど、知らない人に話しかけられていた。

「千陽、優里」

「あ、穂ちゃん見つかった!?」

「うん」

「よかった~、ごめんね?穂ちゃん」

「え、あ、いや、私こそ、本当に、ごめんなさい」

「穂ちゃんは悪くないよー!」

優里ちゃんが抱きしめてくれる。

その間に永那ちゃんがマスクを外す。


***


「お、可愛い子が増えた」

「ねえ?みんなで遊ぼうよ?楽しくするよ?」

「マジっすか!例えば?」

「ご飯とかも奢るし…そうだ、プールのなかで騎馬戦とかよくない?」

「えー、めっちゃつまんなさそうっすね。もっと真面目に考えてくださいよ。こちとら、みんなに引っ張りだこなんですから。ね?わかるでしょ?」

「え、え~じゃあ何が楽しいかな~?」

「そうっすねー、眺めの良い景色が見たいな」

「おー!いいよいいよ!連れてってあげるよ」

「あ、じゃあちょっと右にズレてもらえます?」

「え?ああ…」

男性2人が言われるがままに右に移動する。

「もうちょっと、もうちょっと、まだまだ」

永那ちゃんがお腹を抱えて笑う。

「わー!めっちゃ眺めいいー!…ありがとうございまーす!めっちゃ楽しかったです!じゃあ、そういうことでー!バイバーイ!」

楽しそうな笑みを浮かべて、永那ちゃんは両手を振る。

「はあ?」

「バイバーイ!」

永那ちゃんはマスクをして、ゴホゴホと咳をした。

2人とも舌打ちをしながらどこかに去っていく。

「しつこいやつはマジで面倒だな。自分が他人様の視界の邪魔になってることもわからんのかね?」


「永那遅すぎ」

「ごめんて」

永那ちゃんが、佐藤さんの頭を撫でる。

ズキズキと胸がまた痛み始める。

「もうつまんないから帰る」

「お金もったいな」

「どうせ永那入んないんでしょ?」

「入るように見える?」

永那ちゃんが両手を広げる。

またゴホゴホと辛そうな咳をする。

「あれ~?永那~?」

さっきのノリの良い女子達が帰ってきた。

「どーしたのー?風邪?ウケるんだけど」

何がウケるの?

イライラも加わってくる。

「おー、穂と千陽だけ拾いに来たわ」

「え!?私は!?」

「優里は…どうとでもなるでしょ?」

「酷い!!!」

「一緒に帰りたい?」

「帰る!!!」

「しょーがないなあ。んじゃあ、帰るか!」

女子達に見送られて、私達はプールを出た。


「スタッフの人を呼んでも、千陽の場合は意味がないんだよねえ」

電車の中で優里ちゃんが説明してくれる。

「何度もしつこく来る人がいるんだよ。スタッフの人に注意されても、何度もさ」

「なー、マジめんどいよなー」

まだ時計の針は2時半で、みんなで私の家に遊びに来ることになった。

「その前に、クラスの男子がしつこかったんだけど?」

「え、そーなの?」

「来るなら最初から来てよ」

「無理言うなよ。これでも頑張って来たんだから」

話すたびに何度も辛そうに咳をする。

「てか風邪引くなし」

「そっちのほうが無理だろ」

急に永那ちゃんに顔を覗きこまれる。

「嫌な思いしたよね?ごめんね」

永那ちゃんの優しい瞳が、嬉しいのに、今はなぜか辛い。

「穂?」

私は必死に作り笑いをする。

「大丈夫、助けに来てくれてありがとう」

永那ちゃんが眉間にシワを寄せる。


駅について、私達は電車をおりる。

「穂ちゃんの家、楽しみ~、もはやめっちゃ安心感あるよね」

優里ちゃんが楽しそうに言う。

帰ると誉はいなくて、4人でトランプをして遊ぶ。

その間にも、永那ちゃんの咳が止むことはない。

私はその咳に責められているような気分になった。

「次は誉君と5人で海だね~!なんか、そっちのほうがよっぽど楽しそう!」

佐藤さんが「そお?」と首を傾げている。

「今年のクラス、去年よりチャラい人多くて、なんか微妙だもん」

「あたしはクラスとか関係なしに、人のいないところに行きたい」

「え…それはプライベートビーチ的なこと?」

「優里、探してきて」

「んな無茶な!」

2人が楽しそうに話すのを眺めながら、ババ抜きをする。


「穂、大丈夫?」

永那ちゃんが声をかけてくれる。

私は曖昧に笑ってから、頷いた。

スマホの通知がきて、見ると、お母さんからだった。

『今年は仕事頑張ったから、お盆はおばあちゃん家行けそー!』

「どうした?」

「あ…今年のお盆、おばあちゃんの家に行くことになったみたい」

「お盆っていつ?」

「明後日からでしょー。永那、なんで知らないの?」

「んなもん知るか!」

『いつからいつまで?』

『道混むと嫌だから、明日の夕方から行っちゃおうと思ってるんだけど、大丈夫?』

お母さんはいつも急だ。

“大丈夫?”と聞いてくれてはいるけれど、半ば決定事項なことはわかっている。

“いつまで”はまだ未定なのかな?

『わかった』

「明日の夕方から行くみたい」

「えー!急だね。おばあちゃん家どこなの?」

優里ちゃんが聞いてくれる。

いつもおばあちゃんの家には車で行く。

高速を使って片道3時間。

渋滞に引っかかれば、もう少し長く。

「いつまで?」

永那ちゃんが言う。

「んー…わからないけど、お盆の最終日まではいないと思う。混むから、2日前とかには帰るんじゃないかな?」

「そっか」

永那ちゃんが俯く。

「また、帰る日がわかったら連絡するね」

「うん、ありがとう」

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