第40話 夏休み

穂の家は、良い意味で気遣われていなくて、本当に家族みたいに思えて、心地よかった。

お母さんの仕事の資料がテーブルに山積みになっていて、穂が謝ってくれたり。

リビングには誉の漫画が散乱していて、それを穂が叱っていたり。

誉は私に何の遠慮もせず、遊びに誘ってくれる。

穂に接するように、接してくれる。

お客さん扱いしないこの感じが、心地いい。

変に気遣われたりしない感じが、心地いい。

私は時計を見て、立ち上がる。

「じゃあ…そろそろ帰るか」

あの家に。

お母さんが寝ている、あの暗い家に。

「俺、一緒に駅まで行っていいよね?」

私はてっきり玄関でバイバイすると思っていたけど。

穂を見ると、誉の頭を撫でて頷いていた。

「ついでにスーパー寄っちゃおっか。今日の夕飯何にしよう?」

穂が言う。

なにそれ。私も行きたい。

スーパー行って?買い物袋持って?みんなで一緒に帰って?ご飯作って?みんなで食べる?

…なにそれ。ホント最高じゃん。


穂と目が合う。

「永那ちゃん?」

私は俯いて、モジモジする。

誉に顔を覗きこまれて、「どうしたの?」と聞かれる。

思わず、苦笑いする。

「…いや、いいなあって」

「なにが?」

2人がハモって、ちょっと面白い。

「私も、スーパー行きたかったなあって」

「なんで?なんか必要な物あるの?」

誉が眉間にシワを寄せて、首を傾げる。

「ああ。それなら、スーパー寄ってから帰る?」

穂と誉が何も理解していないのが、また心地いい。

私はフッと笑って「いや、大丈夫。そのまま帰るよ」と言った。

どうせ一緒の家には帰れないし、一緒にはご飯を食べられない。

私達は家族じゃないのだから。

胸がズキリと痛む。


2人が駅まで送ってくれて、私は電車に乗り込んだ。

まだ電車はギリギリ混んでいないという感じで、あと1時間もすればギュウギュウになるのだろうと想像できる。

家につくと、お母さんが起きていた。

「永那、おかえり」

優しく微笑んでくれるけど、彼女の肌はとても不健康そうで、笑顔もどことなくぎこちない。

「ただいま」

「学校どうだった?」

「うん、楽しかったよ」

「よかった」

お母さんには日にちの感覚がない。

私が制服を着ていないことに違和感を抱いても「制服じゃなくていい日なんだよ」と説明すると「そうなんだ。いいねえ、今の学校は」と頷いた。

それでも私が土日になるべく予定を入れたくないのは、前にテレビを見ていたお母さんが「なんで日曜日なのに永那がいないの!」とパニックを起こしたからだった。

帰ったら顔が涙でグシャグシャになっていて、家中の物を散乱させていた。

「また捨てられた、また捨てられた」と泣きじゃくるお母さんを抱きしめて「大丈夫だよ、大丈夫」と何度も言った。


「お母さん」

「なあに?」

「今日、一緒に買い物行く?」

「ええ!」

お母さんの顔がパァッと明るくなる。

「うん、行く。行く!」

何日もお風呂に入っていないお母さんの髪は、皮脂で少しギトギトしている。

お母さんはそんなこと気にならないみたいだけど、矛盾するように、「服何着ていこう?」なんて言っている。

何着か押し入れから出して、体に当てる。

「ねえ、永那?これはどお?」

「可愛いよ」

「そう?…でもちょっと、おばさんっぽいかな?」

もう一着広げると、ワンピースのスカートの裾がビリビリに破けていた。

お母さんの目が見開く。

私はそばに寄って、服を取った。

お母さんはそれを目で追う。

「どっかに引っかかって破れちゃったんだね」

そう言うと、お母さんは悲しそうにしたけど、頷いた。

本当は、お母さんがパニックを起こして破ったんだ。

お姉ちゃんからプレゼントされた服。

お姉ちゃんが出て行って、パニックを起こしたときに、彼女が自分で破った。


捨てたりすると、それはそれで面倒なことになるから、私は押し入れの奥深くに押し込む。

フゥッと息を吐いて、適当な服を出す。

「お母さん、これがいいよ」

「これ?」

「うん、お母さんは赤がよく似合うから」

「そお?」

嬉しそうに笑って、着替え始める。

白の帽子を取って、彼女の頭に被せてあげる。

「行こっか」

お母さんは子供みたいにはしゃいで、私の手を握った。


穂のことを思い出す。

優里が提案して、生姜焼きを作ってくれた。

穂と買い物するのが嬉しくて、楽しかった。

「お母さん、今日は生姜焼きでも作ってみようかな」

「生姜焼き?…いいね!久しぶり!お母さんが作ってあげる!」

お母さんはそう笑顔で言うけど、彼女が作れないことは知っている。

いや、正確には、作れるんだと思う。

でも、料理をしている最中にパニックを起こされて、包丁を振り回されても困る。

父親が帰ると、彼女は楽しそうに料理をした。

でも父親は何かと彼女の料理にケチをつけて、彼女に投げつけることもあった。

父親がお母さんを捨ててから、お母さんは料理ができなくなった。

料理中、突然泣いて“私がだめだから”とうずくまってしまう。

「お母さん、私が作りたいの。だめ?」

お母さんは可愛らしく頬を膨らませた後、笑う。

「しょーがないなあ、いいよ。永那のご飯楽しみ」


***


スマホでレシピを調べる。

前、穂と作ったときは肉に小麦粉をまぶしていたよね?

調べたレシピにはそれが載っていなくて、(まあいいや)と適当にカゴに食材を放り込んだ。

ついでに、いつものカレーの具材も買い込んでおく。

お母さんが余計な物をカゴに入れていく。

それを否定すれば、彼女はところかまわず泣き始めるから、私はただ受け入れる。

お母さんと買い物に出かけるとこうなるから、私は月に1回くらいしか誘わない。

…たぶん、それで彼女も不満はないのだと思う。

寝ていることが多いし、外に出たくないと言う日もある。

酷いときは、カーテンすら開けたくないと騒ぐ。

土日にそれをやられると、かなり憂鬱な気分になる。

昼間なのに、真っ暗なオンボロの部屋。

そんな最悪な場所で1日過ごすことになるのだから。


レシピ通りに生姜焼きを作って、食べる。

やっぱり穂のご飯のほうが美味しい。

…つい、ニヤける。

明日も穂のご飯が食べられるから。

「永那、おいしいねえ」

お母さんが言う。

「そう?よかった」

「永那は…?永那は、おいしくない?」

不安そうな顔を浮かべる。

「おいしいよ」

私は笑顔を、作る。


夏休みの宿題が少なすぎると、毎年感じる。

なにしろ一晩中勉強しかすることがないから、宿題が終わってしまうと暇になる。

でも最近は、少し、大学受験に興味を持っている。

受験勉強をしてみようかなあ?と。

高卒と大卒では生涯年収が全然違うと聞くし、ちゃんと大学を出て良いところに就職できれば、お母さんにもお姉ちゃんにも、何かしらできるのではないか?と考えている。

高校卒業したらすぐに働こうと思っていたけど。

奨学金を借りて…どうにかならないかな?って。

きっと穂も大学に行く。

もしこのまま…このまま、ずっと一緒にいられるなら、きっと私は大学に行かないことを後悔する。

勝手に穂と自分を比較して、穂を傷つけてしまいそうだ。

それは絶対、嫌だ。

そんなことを考えていたら、朝がきた。


お母さんが寝たのを確認してから、洗面台に行く。

私はコンタクトを取って、顔を見る。

前髪がかなり伸びてきた。

これから穂の家で毎日寝るなら、眼鏡で穂の家に行ったほうがいいよね?

コンタクトのまま寝ると目が乾燥しやすくなるし。

シャワーを浴びて、タオルでバサバサと髪を乾かす。

夏は湿気がすごいから、乾きにくい。

それでも、外に出てしまえば暑さと日差しですぐに乾くけど。

自分の部屋に行って、衣装ケースを開ける。

…どうしよう。

すっかり忘れていたけど、ズボン(パンツ)が2着しかないんだった。

2日連続で出かけたから、2枚とも洗濯機の中だ。

こういうとき、制服のありがたさを感じる。

去年バイトしたときは、パジャマにしている毛玉だらけのスウェットも活用して外出していた。

早く洗濯すればいいんだろうけど、なるべく節約したい私は、ある程度溜まってからしか洗濯機を回さない。

その癖が悪いほうに出る。


ふと、ジプロックに入った穂のショーツが目に入る。

瞬間的に穂のエッチな姿を思い出して、頭を衣装ケースにぶつける。

「…ぁあっ」

下腹部がキュウキュウと締め付けられて、ため息が溢れる。

ジプロックを開けて、ショーツの匂いを嗅ぐ。

洗濯してしまったから、もう彼女の匂いは感じられないけど、それでも良かった。

彼女の味は、鮮明に思い出せる。

ゴクリと唾を飲んで、体が彼女を欲する。

あの日…1ヶ月記念日の日、彼女のショーツを持ち帰った。

私は自分のショーツに手を突っ込んで、気持ちいいところに触れる。

畳に倒れ込んで、息を殺して、刺激を与える。

次第にハァハァと、自分の呼吸する音だけが部屋に響く。

穂…穂…穂…穂…早く会いたいよ。

“私、永那ちゃんと、シたい”

彼女の声が、表情が、脳に蘇る。

全身が痙攣して、力が抜ける。


しばらく呼吸だけに集中すると、心臓が落ち着きを取り戻す。

タラリと汗が額から落ちていく。

「服、どうしよ…」

土曜日にバイトの面接(面接らしいことは何もなく、ただ説明されるだけ)を受けて、今日から働くことになっている。

バイトだけだったら、毛玉まみれのスウェットで行けばいいんだけど、その後に穂の家に行くとなると…悩ましい。

近所の服屋が開くのは、早くても10時以降だし。

…でも、こんなチンタラ悩んでいる場合じゃない。

もうバイトに行かなきゃ。

とりあえずバイトにはスウェットで行って、服屋が開くまで待つか。

スマホを出して『ごめん、穂。今日行くのちょっと遅くなる』と連絡する。

自分の失敗のせいだけど、ため息をつかずにはいられない。

早く会いたいのに。


バイト先で、スウェットを着てきたことを怒られた。

まあ、これは去年も同じ。

黒のパンツ…スウェット生地じゃなくて、他の生地のやつを着てくるように指定されていた。

上は制服があるからなんでもいいんだけど。

…上の制服があるなら、下も制服作れよ。と思ってしまう。

「今日は初日だからいいけど、今度から気をつけてよ」

バーコード頭に、深いシワが刻まれた顔。

なんでこの人はここで働いているんだろう?

なんて、全く興味もないことを考える。

「あい、すみません」

早朝はお客さんが少ないから、基本的には清掃と品出し。

バイト終わり際の7~8時頃になると、チラホラ働いている大人達がお弁当やらおにぎりやらを買っていく。

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