第38話 夏休み

朝、私はトイレに行って愕然とした。

なんとなく胸が張っている感覚はあった。

でもいつもより違和感は少なく、スマホに記録をしているのに、すっかり存在を忘れていた。

たいていの女子なら月に1回はくるもの…生理だ。

どうしよう…。

いや、どうすることもできないんだけど。

確実にプールに被るし、それに…今日は…。

永那ちゃんのためにお昼の準備はしてある。

プレゼントも、喜ぶかはわからないけれど、用意した。

でも彼女が1番欲しているは…生理ではできないのでは?と焦る。


直接家に来ると言ってくれたけれど、なんだか申し訳なくなって、早くこの心の重みから解放されたくて、私は駅まで歩いた。

当たり前のように永那ちゃんはもう駅にいて、目が合うと笑ってくれる。

それが余計、申し訳なさを助長させて、顔が引きつる。

永那ちゃんはすぐに気づいて、首を傾げた。

「穂、どうした?」

「ああ…えっと、永那ちゃんに謝らなきゃいけないことがあって…」

「なに?」

私は彼女の肩に手を添えて、彼女の体を傾けさせる。

耳に口を近づけた。

「生理になっちゃった…」

カーッと顔が熱くなって、彼女から距離を取る。

顔を見れなくて、俯く。

「そっかあ。それはしょーがないね」

チラリと彼女を見ると、優しく笑みを浮かべていて、拍子抜けする。

「ガッカリ…しないの?」

「まあ、少しは?でも、べつに穂が悪いわけじゃないんだから」

頭をポンポンと撫でられて、手を握られる。

「おあずけ、だね」

振り向いて、ニヤリと笑う姿に、心を鷲掴みにされる。


「プール、どうしよう?」

「タンポンいれれば大丈夫だよ」

「タンポン?」

「そう。やってあげよっか?」

「うぇ!?な、なんで!?自分でやるよ!」

「初めてだとけっこう大変だけど」

「いい!」

聞いたことはあるけれど、よくわからない物。

みんなどうやってそういうことを知るんだろう?

ネットで調べればすぐにわかることかな?

「穂、お腹痛かったり、具合悪かったりしない?大丈夫?」

「え?うん、大丈夫」

「そっか、よかった」

永那ちゃんがいつも以上に気を使ってくれて、その優しさに心があたたまる。

「穂は生理重くないほう?」

「うん、いつも少し胸が張るくらい。永那ちゃんは?」

「私は酷いときは酷いかな」

「そうなんだ…どのくらい?」

「めっちゃメンタル不安定になるし、1回倒れて痙攣したこともある」

「え!?それ大丈夫なの?」

「まあ、大丈夫っしょ」

永那ちゃんはなんてことないみたいに言う。

本当なら病院に行ったほうがいいはずなのに。

そんなふうに話をしていたら、あっという間に家につく。


「永那ちゃん!」

「誉君、おはよ」

「おはよ」

誉が出迎えてくれる。

永那ちゃんは少し誉に慣れたようで、私にするように、頭をポンポンと撫でていた。

「ねえ、夏休み毎日うち来るって本当?」

永那ちゃんが左眉を上げて、私を見る。

私が首を傾げると、永那ちゃんはプッと笑った。

「毎日来ていいの?」

「いいよ、どうせ暇だし」

「誉君は友達と遊ばないの?」

「遊ぶよ。たまに家に来るかも。そしたらみんなで遊べばいいよね?」

「そうだね」

永那ちゃんが楽しそうに笑う。

「水曜さ、みんなでプール行くんでしょ?…俺も行きたかったなあ」

「お、一緒に行くか?」

「え!?いいの!?」

「誉」

私が誉を睨むと、肩を落としてしょんぼりする。

終業式の日、家に帰ってからプールに行くと伝えたら、誉は自分も行きたいと騒ぎ始めた。

近所の小さなプールにしか連れて行ってあげたことがないし、寂しい思いをさせるのは罪悪感があったけれど、私も初めてのことで。

そんな大切な日に誉を連れて行くのは、少し躊躇われた。

私だって純粋に楽しみたい。

だから前と同じ要領で、誉は連れていけないと伝えてあった。


永那ちゃんは私と誉を交互に見て、笑う。

「じゃあ、今度3人で海にでも行く?」

「マジ!?行く!!」

「よーし!決定!」

誉が両手をあげて喜ぶ。

でもすぐに「あ」と、何かを思ったようで、永那ちゃんを見る。

「あのさ…優里ちゃんと佐藤さんは行かないの?」

「2人も呼びたい?」

誉は少しモジモジしながら頷いた。

永那ちゃんと目が合って、2人で笑い合う。

永那ちゃんが誉の肩を抱く。

「おいおい、どっちが好みなんだ?」

永那ちゃんがオジサンみたいな顔をしている。

「えぇっ…んー…どっちも好き」

「ふぁーっ!二兎を追う者は一兎をも得ず、だぞ!」

「なにそれ?」

永那ちゃんが膝をついて項垂れる。

「2つのものを同時に手に入れようとしても、結局どっちも得られないって意味だ。いいか?欲張りはいかん。どっちかに絞るんだ」

誉が神妙な面持ちで、永那ちゃんの話を聞いている。

そんなこと、真剣に聞かなくていいのに…。

「今、あの2人に恋人はいない。…誉、チャンスだぞ」

「えぇ!?そ、そうなの?」


***


持っていたお茶を落としそうになった。

「永那ちゃん、何言ってるの?」

必死に笑顔を作るけど、さすがに理解が追いつかないし、弟に変なことを吹き込まないでほしい。

「大事なことだよ?」

キョトンとした顔で見られても、私には全く理解ができない。

「それで、誉…どっちがいい?」

永那ちゃんはまた誉の肩を抱いて、何かの作戦を練るように顔を近づける。

いつの間にか“くん”がなくなってるし。

「んー…最初は、佐藤さんが綺麗だなって思った」

「うん」

「でも、性格は優里ちゃんかなあ?」

「まあ、そうだな」

「でも、佐藤さんとは全然話したことがないから、佐藤さんの性格がわからなくて」

「なるほど?」

「だから、まだわからない」

「じゃあ次は、積極的に千陽に話しかけなきゃな?」


「話しかけるって、どうやって?佐藤さん、無口じゃん」

2人がリビングのローテーブルの前に座り込んで話しているから、私はその向かいに座る。

のんびりお茶を飲んで、お煎餅に手をつける。

「そうだなあ…あいつは私以外に無愛想だからなあ」

永那ちゃんと誉が真剣に考えている姿が面白くて、私は邪魔しないように静かに笑う。

「例えば、飲み物とか食べ物をあげるところから取っ掛かるか」

「それで?」

「それで、自分のことを話せ。どんな漫画が好きで、どう面白いかとか、どんな食べ物が好きかとか…そういうこと。たぶんあいつは、つまらなさそうにするけど、聞いてくれる」

誉が頷く。

「とにかく適当にいろんなことを話すんだ。あいつは自分のことを聞かれるのを嫌うから」

「わかった。佐藤さんのことを聞かないようにすればいいんだね?」

「それは…また違う。たくさん話して、時間をかけて自分のことを知ってもらってから、ゆっくり、少しずつ相手のことを聞いていくんだ。そしたら話してくれる…はず」

誉は眉間にシワを寄せて頷いている。

…変なことを吹き込まないでほしいと思ったけれど、案外私にも役立つことなのかもしれない。


「あとは…これは優里がいるから使える手段だけど…優里をからかうと、あいつは楽しそうにする」

「え!?優里ちゃんを!?」

「…まあ、誉にはまだ難しいか。慣れたらやってみればいいよ。あいつ、楽しそうに笑うから」

知らなかった。

たしかに、いつも永那ちゃんと佐藤さんは優里ちゃんをからかったり冷たく接したりしている。

優里ちゃんは嘆いていたけれど…3人の関係がそんなふうに成り立っているのだと知ると、微笑ましく思える。

そこで永那ちゃんがあくびをする。

つい、こうして話していると忘れがちになるけれど、永那ちゃんはこの時間、寝る時間なんだった。

「永那ちゃん、少し寝る?」

「え、でも」

「夏休み中、毎日来るならちゃんと寝ないと」

「穂のベッドで寝ていいの?」

永那ちゃんが頬杖をついて、ニヤリと笑う。

「い、いいよ。もちろん」

「じゃあ寝る」

「お昼に起こすね」


私は立ち上がって、部屋に入る。

永那ちゃんがそれに続いて「誉、おやすみ」と笑顔を向けて、誉の返事を聞いてから、ドアを閉めた。

…あれ?

ベッドに押し倒される。

「え?永那ちゃん?」

返事はなく、唇が重なる。

1度離されて、また重なる。

両手の指は絡まって、ギュッと握られる。

何度も、啄むように口づけを交わす。

彼女の舌が私の口内に忍び込む。

舌先が触れ合う程度に絡まって、繊細になった感覚がピリピリと全身を伝う。

唇が離れると、糸を引いた。

艶のある唇を彼女がペロリと舐めて、優しく笑った。

頭を撫でてくれる。


「穂?」

「ん?」

「一緒に寝て?」

「でも」

“ご飯の準備が”と言おうとして、遮られる。

「ちょっとだけでいいから」

永那ちゃんは私に覆い被さった状態で、私の腕を自分の首の後ろに回した。

ゆっくり体を起こしていく。自然と私も起き上がる。

彼女がベッドの上に乗って、布団を捲る。

私もそれに倣って、布団を捲って足を入れた。

彼女が嬉しそうにフフッと笑うから、私も笑う。

一緒に横になると「穂、あっち向いて」と言われた。

永那ちゃんに背を向けると、抱きしめられた。

彼女が私のうなじに顔を擦りつける。

「穂、良い匂い」

「汗、かいてるよ」

「好き」

それからすぐに、彼女の寝息が聞こえ始めた。

私はそっと彼女の腕を退けて、起き上がる。

綺麗な寝顔。

目の下のクマだけが心配で、なるべく寝かせてあげたいと強く思った。

そっと彼女の頬にキスをする。

髪が肩から落ちかけて、慌てて耳にかけた。

カーテンをゆっくり閉める。


***


「永那ちゃん、寝たの?」

音量を小さくして、誉はテレビを見ていた。

「うん、12時半くらいに起こそうかな」

今は9時半過ぎだから、3時間は寝かせてあげられる。

できれば食後も寝かせてあげたい。

部屋から持ってきた本を広げて、椅子に座る。

静かな時間が過ぎる。

この家に私と誉以外の人が存在することが不思議で、でも彼女は私の部屋で静かに眠っていて、結局いつも通りの夏休みみたいに過ごしている。


11時半頃になって、私はハンバーグ作りに取り掛かる。

普段はお昼にわざわざハンバーグを作ったりはしない。

今日は永那ちゃんがいるから特別だ。

とは言え、明日からはいつも通り、適当な食事に戻すけれど。

誉は暇になると近所の公園に行くことが多いけれど、今日は永那ちゃんがいるからか、ずっとリビングでゴロゴロしている。

誉がこんなにも私の友人(恋人)に興味を示すとは思いもしなかった。

案外、今まで私に友達がいなかったことを、彼なりに心配してくれていたのかもしれないと思うと、愛おしくも感じる。


12時半過ぎにお昼が出来上がる。

誉は目を輝かせて、椅子に座った。

…そうだ。永那ちゃんは前に誉の席に座っていたけれど、今回は誉の向かいに座ることになるのか。

永那ちゃん、不貞腐れたりしないかな…?

そんな心配をしながら、部屋のドアを開ける。

永那ちゃんはスゥスゥと寝息を立てていた。

起こすところを誉に見られたくないので、ドアを閉める。

「永那ちゃん、ご飯出来たよ」

彼女の髪をそっと撫でてから、カーテンを開けた。

日の光が射し込んで、彼女は眉間にシワを寄せるけれど、起きる気配はない。

仰向けで寝ている彼女の顔が、光に照らされている。

私はゴクリと唾を飲んでから、彼女の唇に唇を重ねた。

体温が混ざり合うまでの間、私は彼女の感触を楽しむ。

そっと唇を離して、彼女の唇に舌を這わす。

自分からこんなことをしているなんて恥ずかしくて、心臓の音がドクドクと鳴る。

でも恥ずかしさ以上に、私は興奮していた。

待ちわびていたかのように、ずっと期待していたかのように、体が動く。

最初はゆっくり、撫でるように舐めた。

最後は、彼女の中に入りたくて、チロチロとくすぐるように触れる。


フフッと彼女が笑って、目を薄く開いた。

「くすぐったいよ、穂」

彼女が起きたことに驚いて離れようとすると、サッとうなじを掴まれる。

そのままグッと引き寄せられて、唇を押し付けるような形になる。

彼女が笑っているから、自然と、出していた舌が彼女の中に入る。

吐息が混ざり合って、唾液も混ざり合って、私達は同じものになろうとする。

音が鳴るにつれて、私の腕の力が抜けていく。

枕に手をついている私の腕が、少しずつ曲がっていく。

髪がカーテンのように下りて、太陽の光を遮った。

鼻から抜ける息は熱をおびて、少し息苦しい。

彼女に舌を吸われる。

ただそれだけのことなのに、体はピクッと反応して、腕の力が完全に抜けた。


コツンと額がぶつかって、彼女の上に倒れ込む。

ハァ、ハァと肩で息をしても、呼吸が整わない。

「ご飯?」

彼女が聞くから、私はなんとか頷いた。

永那ちゃんは優しく背中をトントンと叩いてくれる。

少し落ち着いてきて、私は上半身を起こす。

彼女が、髪を耳にかけてくれる。

まだ少し息は荒く、上半身を支える腕は少し震えている。

でも、彼女を見ていたいと思った。

「私、永那ちゃんと、シたい」

気づいたらそんな言葉が口をついていた。

永那ちゃんの目が大きくなって、口角が上がる。

彼女の喉が上下に動く。

「私も」

そう言われて、彼女の照る唇を見つめる。

彼女は私の視線に気づいたようで、上半身を起こしてくれる。

掠める程度に触れ合って、またぬくもりを感じる。


「姉ちゃん?」

一気に心拍数が上がる。

私達は物凄い勢いで距離を取って、正座する。

「あ…ああ、誉」

「永那ちゃん、まだ起きないの?」

ノックもせずにいきなりドアを開けられるとか、そういう不作法な教育をしなくてよかったと、心底思う。

誉はドアのすぐ向こう側に立って、話しているようだった。

「ごめん、誉。今起きた」

「早くしてよー、冷めちゃうよ?」

「お、おお」

私達は顔を見合わせてから、声を出して笑った。


私が立ち上がろうとすると、腕を掴まれる。

後頭部が支えられ、頬に手が添えられる。

唇にぬくもりが戻ってきて、私は目を閉じた。

そしてあっという間に口元が寂しくなる。

彼女が笑う。

私は物足りなくて、下唇を噛んだ。

永那ちゃんは立ち上がるのと同時に、私の頭をポンポンと撫でる。

手を差し伸べられたから、私のを重ねると、引き寄せて、抱きしめてくれた。

「今年の夏休みは、すっごく楽しみだな」

そう耳元で囁かれて、離される。

永那ちゃんがドアを開けると、本当にドアの目の前に誉が立っていて、つい後ずさる。

「遅いよ」

眉間にシワを寄せて頬を膨らませる誉。

永那ちゃんが誉の頭をポンポンと撫でる。

私と誉の扱いが同じなのが、なんだかなあ…と思いつつ、私は口元を綻ばせた。

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