第21話 初めて

マンションの前につく。

「永那ちゃん、送ってくれてありがとう」

そう言うと、永那ちゃんが笑う。

私の目元をさすって「穂、まだ目赤いよ」と言った。

「もう…帰ったら冷やすよ」

「うん、そうしな」

「じゃあ、また明日ね」

「うん、また明日」

私がエレベーターに乗るまで見送ってくれる。

見えなくなるまで見ててくれる…見えなくなるまで、何度振り返ってもそこにいてくれる…些細なことかもしれないけど、そういう1つ1つに愛を感じる。

たぶん、私が永那ちゃんにしてあげられることなんてほんの少ししかない。

でも、せめて私といる時間だけは、彼女にとっての癒やしであってほしい。

彼女が私に安心感を与えてくれるのと同じように、永那ちゃんが私と一緒にいてホッとできるような存在でありたい。


家に帰って、手を洗ったり目を冷やしたり明日の授業の準備をした後、夕飯の支度をする。

誉が珍しく頭を捻って宿題をしている。

たまに呼ばれて、わからないところを聞かれる。

頭を撫でてあげると、嬉しそうに撫でられるのが可愛い。

ご飯を作り終えても、7時頃までは食べない。

お母さんが早く帰ってきたら、一緒に食べられるから。

それまでの間、私も誉の隣に座って勉強をする。

永那ちゃんはもう家についたかな?なんて考えていたら、お母さんが帰ってきた。

職場で貰ってきたお菓子を手にして、お母さんは私達に笑いかける。

思うところがないわけではない。

でも私は今、けっこう幸せだ。


「お母さん」

誉が寝た後、パソコンとにらめっこしているお母さんに声をかけた。

「んー?」

眉間にシワを寄せて、コーヒーを一口飲む。

「私、好きな人できた」

お母さんがコーヒーを吹き出して、パソコンを濡らす。

慌てて2人でティッシュを取る。

「え、えーっと、そうなの?」

どこか嬉しそうにソワソワしているお母さん。

私はお母さんの向かいに座る。

「うん。付き合ってるの」

お母さんの目が見開かれる。

鼻の下を伸ばして、鼻の穴まで大きくなってる。

思わず笑ってしまう。

こんなこと、お母さんに話す気なんて全然なかったのに、今日永那ちゃんと一緒に帰ったからか、なんとなく言いたくなった。

「よ、よかったね!…なんか、お母さん、穂がそんなこと教えてくれるなんて思わなかったから…えー…どうしよう?」

「どうしようってなに?」

私が笑うと、落ち着かないのか、もう濡れていないのに、ティッシュでテーブルを拭く。


私は深呼吸する。

「でもね」

唾を飲む。

不思議と緊張はしていない。なんでだろう?

手に汗はかいている。

それでも、落ち着いている。

この気持ちが確かなものだと思えているからかな?

「相手は、女の子なの」

お母さんが何度もパチパチと瞬きする。

少しの沈黙がおりる。

お母さんが口をパクパク動かして、何か言おうとするけど、何も出てこないみたいだった。

「私、女の子だからその子のことを好きになったんじゃない。性別は正直どうでもよくて、ただ、その子を好きになったの」

「…そう」

ようやくお母さんは声を発した。

「お母さんは、傷ついた?」

お母さんがハッとした、首をブンブン横に振る。

「傷つかないよ!…嬉しい!穂が好きになった人なら、お母さん、誰でも応援する。…ちょっと、驚いただけ」

フフッとお母さんは笑って、コーヒーを飲んだ。


「ちなみに、誉は…?」

「言ってないよ。誉に言ったら街中に広まりそうだし」

お母さんがお腹を抱えて笑う。

「あ、あの…もしかして、前に服を選んでくれたっていう…?」

「ああ、そう」

お母さんの顔がパアッと明るくなる。

今まで、こんな顔見たことなかったかもしれない。

私が見てきたのは、いつも仕事をする姿で。

その姿は“お母さん”でも“女性”でもないように思えていた。

お母さんって、私のお母さんなんだな…と思う。

お母さんって、恋話が好きな普通の女性なんだな…と思う。

「あ、それで。今度の土曜日、家に呼びたいんだけど」

「えぇ!」

「だめ?」

「いや、いいよ!全然大丈夫!!」

「テスト前だから、一緒に勉強するだけだけどね」

そう言って、私は立ち上がった。

「じゃあ、おやすみ」

「…うん、おやすみ」

お母さんの視線を背中に感じながら、部屋に入る。


電気をつけないままベッドに寝転がって、ため息をついた。

スマホを見る。

勝手にお母さんに言っちゃった。

永那ちゃんに相談してからのほうがよかったかな?

そんなことを思っても後の祭り。

『ごめん。永那ちゃんに相談もせずに、お母さんに永那ちゃんと付き合ってるって言っちゃった』

怒るかな?呆れるかな?それとも笑うかな?

どんな表情も思い浮かぶ。

モソモソと布団に潜り込んで、スマホの画面に視線を戻す。

当然既読はつかない。

スマホを握りしめたまま、私は夢の中に誘われる。


***


毎日かけているスマホのアラームが耳元で鳴って飛び起きる。

ドクドクと音を立てている心臓を、深呼吸して落ち着かせる。

スマホを見ると、永那ちゃんから返事がきていた。

『マジで!?』

その一言に笑ってしまう。

『嫌だった?』

朝はすぐに既読がつく。

『嫌じゃないけど…どんな反応だった?』

『喜んでくれた』

『そーなんだ、よかった。良いお母さんだね』

その最後の言葉に、胸がキュッと締め付けられる。

何も返せない。私には、何も。

私は誉を急かしながら家を出る。

マンションの前で分かれて、私は足早に学校に向かった。


まだ人も疎らな教室。

珍しく永那ちゃんが起きていた。

私が扉を開いた瞬間から、彼女の視線を感じる。

佐藤さんが話しているのに永那ちゃんはどこかソワソワしていて、私は隠れるように笑う。

「ごめん、千陽」

そう言って、話の途中で私の席に来る。

佐藤さんを見ると、眉間にシワを寄せていた。

「穂、あれどういうこと?どういう流れでああなった?」

小声で囁く彼女の息がくすぐったい。

「怒ってる?」

上目遣いに聞くと、永那ちゃんは首を横に振る。

「全然怒ってないよ。怒ることじゃないし。…でも、ほら…ああ…なんていうか…初めてのことで」

そっか、永那ちゃんは焦るとこういう反応をするんだ。

新しいことが知れて、嬉しい。

「お母さんに言っちゃったんだから、私のこと、ちゃんと大事にしてね」

耳元で囁いた。

永那ちゃんの目が大きくなって、一気に紅潮する。

永那ちゃんがズルズルと机から滑り落ちて、小さくなった。


佐藤さんが近づく。

「永那?」

永那ちゃんは「ハァ」と大きく息を吐いて、腕のなかに顔を隠してしまっている。

佐藤さんの眉間のシワが深くなり、私を睨む。

不思議と怖くない。

「どういうこと?」

「なにが?」

「…この状況」

佐藤さんは少し呆気にとられたようだった。

「べつに…佐藤さんには、関係ないよね?」

佐藤さんの大きな瞳が飛び出しそうなくらい大きくなって、耳まで赤くなる。

何も言い返せないみたいで、口を結んでしまう。

その様子を少し眺めてから、私は足元で蹲ってる永那ちゃんの髪を指で梳いた。


私は鞄から教科書とバインダーを取り出して、勉強を始める。

「ちょっと…!」

佐藤さんが私の肩を掴む。

「なにしてんの?」

「え?勉強…」

「は?意味分かんないんだけど」

私は少し考えて、何度か瞬く。

笑ってみせて「私も意味分かんない」と返す。

佐藤さんの目の下がピクピクと痙攣する。

すると永那ちゃんがボリボリと頭を掻いた。

サラサラの髪の毛が乱れる。

「あー、ドキドキした」

立ち上がって、胸に手を当ててる。

「ちょっと、永那」

「ん?なに?」

ハァ、ハァと少し息を切らしながら、背の低い佐藤さんを見下ろす。

「何があったの?」

永那ちゃんはチラリと私を見てから、下唇の端を噛んで視線を下げた。

どう答えるか考えた後、「秘密」と爽やかな笑顔で言った。


永那ちゃんは自席に戻って、机に突っ伏す。

寝始めたのかと思ったけど、しばらく耳が赤かったし、足をバタつかせてもいたから、起きているのだとすぐわかる。

しばらく佐藤さんに睨まれていたけど、全然気にならなかった。

佐藤さんが、私の知らない永那ちゃんをたくさん知っているのは事実かもしれない。

でも私だって、佐藤さんの知らない永那ちゃんをたくさん知った。

佐藤さんは可愛くて、私よりも友達がたくさんいて、いろんなことも経験してきているのかもしれない。

それでも、永那ちゃんが選んでくれたのは私だったし、秘密を打ち明けてくれたのも私だったし、は私なのだから。

首筋の痕をさする。

この痕が、私が永那ちゃんのものだという証。

私はもう我慢しないし、堂々と積極的にいることにしたんだ。

“そのままの穂でいて”と願われた通り、私は私らしく。


気づけば私は、普通に佐藤さん達の輪に割って入って、永那ちゃんに話しかけられるようになっていた。

前日の授業をまとめたルーズリーフを永那ちゃんに渡して、ほんの少しの会話を交わす。

驚いたことに、永那ちゃんの隣に座っている篠田しのださんに話しかけられた。

「あの、空井さん」

「なに?」

「もし…よければなんだけど、私にもノート貸してもらえませんか?…あの、無理だったら、全然いいんですけど!」

手を顔の前でパタパタさせて、耳が赤く染まっている。

「あの、永那のやつ見せてもらったとき、めっちゃわかりやすくて…私、数学が全然ダメで」

私達の学校では、1年生の最後に、文系を目指すか理系を目指すか決める。

でも2年生までは全科目の基礎を全員学ぶことになっている。1年生のときに選んだコースが例え文系だったとしても、この1学期中は数学もやらなければならない。

途中でコースの変更をしても対応できるように、そう組まれている。

「わかった、いいよ。数学の分だけでいい?」

篠田さんの顔がパアッと明るくなり、両手を掴まれた。

「ありがとう!ありがとう!本当にありがとう!」

私は苦笑して、席に戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る