第18話 靄
もう時計は10時を指していた。
「そろそろ帰らないと」
3時間も話していたら長いようにも思えるけど、数日間全然話せなかったことを考えるとあまりに短くて、もっと一緒にいたかった。
握った彼女の手を離したくなくて、ギュッと力を込める。
「穂?」
公園には、ちょうど親子がやって来た。
「帰りたくない」
駄々をこねる子供のように呟くと、永那ちゃんが抱きしめてくれる。
「可愛い」
頭を撫でてくれる。
「食べちゃいたいくらい、可愛い」
その優しい声音で、胸がいっぱいになる。
「いいよ、食べても」
そう言うと、彼女の頬が赤く染まって、目を泳がせる。
いっそ、食べられてしまえば、永那ちゃんとずっと一緒にいられるかも…なんて。
「ハァ」と深いため息をついた後、永那ちゃんは私の首筋に顔をうずめた。
「ずるいよ」
「なにが?」
「今日の穂は、なんだかとことん甘えん坊なんだね」
「嫌?」
「嫌じゃ…ない。全然、嫌じゃない」
子供が砂場ではしゃぐ声が公園に響く。
「じゃあ今度、ね」
永那ちゃんが顔を上げる。
「え?」
「食べるのは、今度のお楽しみ」
私は目をパチクリさせて、ハテナマークが浮かぶ。
食べるって、またかじるってこと?
永那ちゃんが、目を細めて、薄っすら笑みを浮かべながら首を傾げる。
次第に口角が上がっていき、目線を下に向ける。
「穂、もしかして、自分が何言ったかわかってない?」
上目遣いに私を見て、聞く。
私は必死に頭を回転させる。
“食べちゃいたい”と言われたから、“いっそ食べられれば永那ちゃんと一緒にいられるのに”と思った。
永那ちゃんの一部になれたら…なんて、ありえないことを考えた。
一般的に“食べちゃいたいくらい可愛い”という表現は、赤ちゃんとかペットにも使われて、比喩として“それくらい可愛い”という意味で表現されると思うんだけど。
「まあいいや」
その一言で、思考が止まる。
「とにかく、また今度…穂の家に遊びに行かせてもらうときにでも、答えを教えてあげるね。後で“嫌だ”って言っても、もう無理だからね」
そんな、ある種恐怖の宣言をされて、私は目を白黒させる。
永那ちゃんが私の手を引いて、駅まで送ってくれる。
私が改札を通って、曲がり角を曲がるまで、手を振り続けてくれた。
それが嬉しくて、喜びを噛みしめるように、バッグの紐を握りしめた。
電車のなかでも、家に帰ってからも、永那ちゃんの言葉の意図が知りたくて、スマホで調べた。
でも検索して出てくるのは、主に、やっぱり私が最初に考えた意味合いで。
あとは実際に人を食べた人の恐怖の記事だったり、恋人と食事するときのアドバイスや、おすすめのお店が出てくるだけだった。
「ハァ」とため息をつく。
ベッドに寝転がりながら、今日のことを思い返す。
唇に触れる。
永那ちゃんのぬくもりが、簡単に蘇ってくる。
体を丸まらせる。
永那ちゃんと話すようになってから、私の体はなんだかおかしい。
特に体育祭の日に、初めてキスをしてから。
熱があるんじゃないかと思うほどに体が火照る。
何度か体温計で計ってみたけど、全然熱はなかった。
太ももと太ももの間に手を挟んで丸まると、少し落ち着くような気がしてる。
少しだけ…ほんの少しだけ手を動かすと、体がゾクッとする。
「ハァ」と息が溢れる。
早く永那ちゃんに会いたい。
最初の刺激的なキスも、今日の優しいキスも、どっちも好き。
ずっとしていられると思うほどに。
キスがこんなにも心地良いものだとは知らなかった。
実際に体験してみないとわからないことってたくさんあるんだな、と改めて思う。
映画や小説でキスシーンがあるけど、恋愛がわからなかった今までは、その行為の意味がわからなかった。
いっそ、そういうシーンはいらないとさえ思っていたのだから、我ながら重症だと思う。
どうしてこんなことする必要があるんだろう?なんて考えたこともあった。
今なら、なんとなく、わかる気がする。
永那ちゃんに、大切に思われてるんだって、実感できる。
永那ちゃんは昔、ストレス発散のためにそういうことをしてきたと言っていた。
きっとそこに“相手を大切にしよう”とする気持ちはあまりなくて、まだ私にはその違いはわからない。
私にとっては永那ちゃんが与えてくれたものが全てで、彼女が言ってくれる言葉が全てで、そのどれもが優しさや好意に基づいていると信じてる。
私が感じているこの心地よさは、彼女が私を大切にしてくれようとしている証なのだと思いたい。
…今度2人で話せたとき、前の他の人たちと、私とで違いがあるのか聞いてみようかな?
いずれは、エッチなことも…するんだよね?
そう考えた途端に、胸がギュゥッと締めつけられるように痛んで、心臓がバクバクと音を立て始めた。
下腹部の辺りか、それよりもう少し下か、疼くような感覚があって、太ももに挟んだ手を、より力を込めて挟む。
しばらく火照った体は冷めそうにない。
私はまた、ため息を溢した。
***
そういえば、永那ちゃんのお母さんについて聞くのを忘れていたな…と思い出したのは、月曜日、永那ちゃんが授業中に寝ている姿を見たときだった。
聞こうと思ってたけど、まず、駅でのキスで頭が真っ白になった。
その後思い出して、聞こうと思ったけど、首筋を舐められて、また頭から抜けてしまった。
それからは“食べる”ことについて考え続けて、全く思い出せなかった。
会う前に何を話そうか考えていたけど、結局永那ちゃんが私を選んでくれた理由しか聞けなかった。
…それだけでも聞けてよかったけれど。
2人の関係をみんなに言うか言わないかを決められたのも良かった。
でも学校でどう2人で話すかは保留になったし、まだまだ永那ちゃんと話したいことがたくさんある。
いつも通り学校生活は過ぎていった。
結局2人で話す隙がないまま、2人で話せる時間をどう捻出するかの案も出ないまま、時間だけが過ぎていく。
期末テスト2週間前ということもあってか、授業中、ちゃんと起きている人が多い。
この時期になると、先生が「ここ出るからなー」とヒントを出してくれることも多くなる。
木曜日になっても、相変わらず永那ちゃんは授業中寝ていた。
「大丈夫なのかな?」と心配になる。
永那ちゃんの成績は良いみたいだし、問題ないのだろうけど…。
休み時間中、先生が出ると言っていたところをルーズリーフに書き写す。
私は全教科、1つのバインダーにまとめている。いつでも見返せるように。
だから月曜日、火曜日、水曜日の授業の分まで書いて、まとめてみる。
ちょうど次の授業の終わりに永那ちゃんが起きた。
私は緊張しつつも、まとめたルーズリーフを持って彼女の机に向かう。
既に彼女が起きたことを察して、佐藤さんが動き出していた。
佐藤さんのほうが私よりも席が近い。
私が行くときには、もう座っている永那ちゃんの背中に寄りかかって、楽しそうに話し始めている。
永那ちゃんの隣の席に座っている他の子も話に参加していて、緊張感が高まる。
「え」
声が裏返る。
“永那ちゃん”と言いかけて、慌てて唾を飲む。
「両角さん」
永那ちゃんが目をまん丸く開く。
すぐに輝くような笑顔を見せられて、胸がギュッと掴まれる。
永那ちゃんの背中に寄りかかっていた佐藤さんの笑顔が消えていく。
スーッと目が細くなり、訝しげに私を見る。
「あの、授業中ずっと寝ているようだから…これ…」
私がルーズリーフを手渡すと、永那ちゃんは興味深げに見た。
「一応、先生がテストに出るって言ったところをまとめてみたんだけど。…あとは、個人的に大事そうだと思ったところも少しだけ」
永那ちゃんは勢い良く顔を上げ「嬉しい!ありがとう!」と笑ってくれる。
「空井さん、永那には私がノートを貸してあげてるから大丈夫ですよ?」
佐藤さんからの圧が強くなる。
「2人分のノートがあれば、それだけわかりやすくもなるし、私はどっちもありがたいよ」
「でも、書いてある内容は同じでしょ?」
永那ちゃんは顔を上げて、佐藤さんを見る。
2人の顔の距離が近くて、ドキッとする。
心なしか、永那ちゃんの頭が佐藤さんの胸に当たっている気も…。
そっと目をそらす。
「千陽のは授業の内容全部が書かれてるでしょ?穂は先生がテストに出るって言ったところをまとめてくれたって言ってたよ?」
まるで当たり前みたいに“穂”と呼ばれて、緊張とはべつの意味で鼓動が速くなる。
「2つあったほうが便利じゃん?…ダメ?」
佐藤さんの瞳が揺らいで、永那ちゃんから視線をそらす。
「べつに…いいけど」
そう小さく呟いて、頬を膨らます。
ああ、そんな仕草も佐藤さんは可愛くて羨ましいなあと思ってしまう。
永那ちゃんがニコッと笑って、姿勢を戻す。
「ありがとう、穂。また持ってきてくれたら嬉しいな」
私が渡したルーズリーフを大事そうに両手で持って、ニコニコ笑う。
その姿に、私も笑みが溢れる。
遠くから「“穂”って、空井さんの名前?」と聞く声が聞こえた。
永那ちゃんは、普通に「そうだよー」と答えている。
「綺麗な名前だよね」なんて付け加えるから、恥ずかしさで思わず机に突っ伏した。
直接言われるよりも恥ずかしいようなこの感じ、一体なんなんだろう。
「永那、いつの間に空井さんのこと名前で呼び始めたの?」
佐藤さんが聞いて、周りの人たちも興味深げにする。
「えー?いつかな?…2週間前くらい?」
「なんでなんで?」とみんなが言ってるから、私も聞き耳を立てる。
永那ちゃんはなんて答えるんだろう?
「みんなが掃除サボるから仲良くなったんだよ。いいでしょ?」
彼女がへへへと笑うから、私も腕のなかで頬が緩む。
「永那だってサボってたでしょー!」とツッコまれて、ケラケラ笑う声が響く。
その笑い声に、佐藤さんの声は含まれていないようだった。
***
翌日、本を読んでいたら急に影が落ちた。
見上げると、仁王立ちしている佐藤さんがいた。
「空井さん、この間のあたしの話、覚えてる?」
「えっと…」
「先週、あたしが永那を好きだって話、したよね?」
2人きりで話すと、佐藤さんは敬語じゃなくなるらしい。
私が頷くと、佐藤さんがしゃがむ。
うぅ…やっぱり目のやり場に困る。
「あのとき、話が途中で終わっちゃったと思うんだけど」
…あれ、途中だったんだ。
確かに、チャイムが鳴って遮られたのかも、しれない…?
「あたし、中学のときから永那とずっと一緒にいたの。永那のことは学校の誰よりもわかってると思っているし、ノートだって、永那にわかりやすいように書いてる」
“永那のことは学校の誰よりもわかってる”
これは彼女が胸を張ってずっと言い続けていることだ。
…でも、永那ちゃんは、お母さんのことは誰にも言っていないと言っていた。
前までは気にしていなかった佐藤さんの言葉に、引っ掛かりを覚える。
「正直、永那は優しいからあなたのことを気にかけているだけだと思う。ノートだって本当は必要ないはずだし、あたしのノートがあれば十分なの」
「…あの、佐藤さん」
佐藤さんの眉間にシワが寄る。
「ごめんなさい。まずは第二ボタンを留めてくれるかな?」
「は?」
大きな瞳が飛び出そうなくらいに大きくなる。
「その…胸が、見えそうで」
カーッと顔が赤くなり「今、そんな話してないでしょ?!」と声を張り、立ち上がる。
教室がシンと静まり返って、永那ちゃんも飛び起きた。
佐藤さんは、教室を一周見た後、俯いた。
「あの…今、けっこう事件とかもあるし、身なりには気をつけたほうが…」
「うるさい!あんたに関係ないでしょ!」
“佐藤さん、可愛いんだし”と言おうとして、遮られてしまう。
慌てて永那ちゃんが走ってくる。
「どうした?」
佐藤さんの拳が握りしめられていて、少し震えてる。
永那ちゃんは私を見て、不安そうな顔をしている。
「なにがあった?」
「私が、佐藤さんの胸元が開きすぎているから注意したの」
そう言うと、クラスメイトの大半は自分達の会話に戻ったようだった。
それを確認して、永那ちゃんが佐藤さんの頭をポンポンと撫でる。
私は思わず奥歯を食いしばった。
頭で理解していても、永那ちゃんが私以外の人にそういうことをしているのは、見ていて辛い。
「千陽、私も普段から言ってるじゃん、それ」
佐藤さんがボタンを留める。
「これでいいんでしょ」
そう言って、教室から出て行ってしまった。
「ハァ」と永那ちゃんがため息をついて「ごめんね」と眉をハの字にしながら言う。
「いや、私が余計なことを言ったから…」
「余計なことじゃないよ、大事なことでしょ」
永那ちゃんは後頭部をボリボリ掻いて「ちょっと行ってくるわ」と、佐藤さんを追いかけて行った。
その後ろ姿が、愛しくも、寂しくて、行かないでと言いたくなる気持ちを必死に堪える。
ああ、そうだ。
また佐藤さんの話を遮ってしまったかもしれない。
前回はチャイムが遮ったのだけれど。
この前から、一体佐藤さんが私に何を伝えたいのかわからない。
“私のほうが先に好きだったんだから、盗らないで”とか?
前に読んだ、大流行したというインターネット上で書かれた恋愛小説に、そんなシーンがあったような気がする。
あるいは“私○○が好きだから、応援してね”という、遠回しの牽制?
最後まで佐藤さんの話を聞いてから、胸元のことを言えばよかったと後悔する。
次の授業で、2人は戻ってこなかった。
2人がどこにいるのか、何をしているのか、何を話しているのか、気になって、授業に身が入らなかった。
なんとか黒板を書き写すことはできたし、先生の言っていることも聞き取れた。
それでも、すぐに気がそれそうになって、頬をつねった。
放課後になって、2人は戻ってきた。
私が帰ろうと鞄を肩にかけたときだった。
佐藤さんは泣いたのか、少し目が腫れている。
永那ちゃんと一瞬目が合って、困ったように笑った。
私は話しかけるべきか少し迷って、永那ちゃんが、席についた佐藤さんの頭を撫でるのを見て、教室から出た。
佐藤さんは嬉しそうに笑って、撫でられていた。
心に薄い靄がかかる。
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