第16話 靄

目覚ましが鳴る前に目が覚めた。

たまにこういうときがあるけど、興奮しているから眠りが浅いのか、我ながらビックリする。

期末テストの日にはよくあることだ。

昨日の夜、クローゼットの扉に今日着る服を掛けておいた。

前に永那ちゃんが選んでくれた服。

もうかなり暑くなってきたから、これだけでも大丈夫かもしれない。でも朝方で少し肌寒い可能性もあるから、袖がゆったりしている薄手の白のカーディガンを羽織る予定だ。

もう一度鏡の前で服をあててみる。

散歩なのだから、もっとラフな格好でも良いのかもしれないけど、せっかくなら永那ちゃんに見てもらいたい。

私は頷いて、洗面台に向かった。

お母さんと誉を起こさないように、そーっと家を出た。


こんなに朝早いのは初めてかもしれない。

生徒会の活動でも、早くて駅に8時集合だ。

日曜日ということもあってか、駅前にはまだあまり人がいない。

朝の空気を目一杯吸い込んで、電車に乗った。

永那ちゃんの家の最寄り駅、電車で通り過ぎたことはあったけど、降りたことは一度もない。初めての場所。

しかも、こんな朝一番に永那ちゃんに会える…!それがたまらなく嬉しい。

ブラウンのポシェットの紐を握りしめる。

このバッグは、お母さんにプレゼントされたもの。家族で出かけるときは使ったことがあるけれど、同級生とのお出かけで使うのは初めてだ。

ワクワクしながら窓の外を眺めていると、あっという間に降りる駅についた。


改札を出ると既に永那ちゃんはいた。

彼女は黒のテーパードパンツに、黒のスウェットを着ていた。

私と目が合うと、ニコニコ手を振って、こちらに歩いてくる。

私も駆け寄ると「可愛い」と、頭をポンポンされた。

「服、よく似合ってるね」と微笑まれ、肩を撫でられる。

ああ、なんだか彼女みたい…。と、つい幸せに浸る。

「おはよ、穂」

永那ちゃんはどことなく疲れているようだった。

「おはよう、永那ちゃん」

彼女の目の下にはクマができている。

皮膚が薄いのか、彼女の肌は透き通っている。

だからクマはけっこう目立って、すごく具合が悪そうにも見える。

「永那ちゃん、無理してない?」

彼女の目が大きく開かれる。すぐに弧を描いて細くなる。

「無理してない。…会いたかったよ、穂」

ギュッと抱きしめられる。

私も抱きしめ返して、彼女の肩に顔を添えた。

私より少し背の高い彼女の肩は、なんだか居心地がいい。

彼女の匂いが鼻を通って、安心感を抱く。

「永那ちゃん、いい匂い」

「そう?何もつけたりしてないけど」

首元に鼻を近づけて、スンスンと匂いを嗅ぐ。

永那ちゃんは「くすぐったいよ」と笑った。

「ああ、でもシャワーは浴びてきたわ」

「そうなんだ」

「私は朝シャン派なんだ」

彼女の声も心地良い。このまま眠りたくなるくらい、心地良い。


「穂、寝てる?」

「…ん?」

顔を上げると、永那ちゃんが歯を見せて笑った。

「眠そう」

目元をさすってくれる。

「ごめんね、こんな朝早くて」

私は首を横に振って、さっき自販機で買ったお茶を飲む。

「私、永那ちゃんに会いたかったから」

「穂は眠いと、こんなに素直になるんだね。可愛い」

そう言われて、だんだん恥ずかしくなってくる。

ワクワクしすぎて興奮状態だったからか、永那ちゃんに会えた途端、プツンと糸が切れたみたいに、まどろみのなかにいた。

「あ、うぅ…。体育祭終わっても、結局2人であんまり話せなかったし」

「そうだね、ごめんね」

唇を尖らせると、彼女の唇が重なった。

一気に目が冴える。

彼女の背中の服をギュッと掴んで、ゾワリと鳥肌が立つ。

心臓がようやく目を覚ましたみたいに、ドクドクと音を立て始める。


彼女が優しく笑って、手を差し伸べた。

その手に私の手を重ねると、彼女は歩き出す。

しばらく何も話さないまま、ゆっくり街を歩いた。

小さな公園について、ベンチに座る。

「永那ちゃん」

「ん?」

「永那ちゃんは、どうして私を選んでくれたの?」

永那ちゃんは何度かまばたきをして、まっすぐこちらを見る。

少し考えるように宙を見て、もう一度目が合う。

「同じクラスになって、すぐ」

握っている手元を見つめる。

「すぐ、穂のことを好きになった」

「え?すぐ?」

同じクラスになってから、私達の接点なんてほとんどなかったはず。

「なかなか話す機会がなくて、でもずっと、2人で話したいなって思ってた」

その答えに戸惑いを隠せない。

「そしたら穂が“いたずらする”なんて耳元で囁くから、絶対このチャンスを逃したくないって思ったんだよ。仲良くなって、穂のことをたくさん知れて、やっぱり好きだなあって思った。…そしたら、誰にも取られたくないって焦ったし、私のことも好きになってほしいって思ったんだ」

モテる、恋愛経験豊富な永那ちゃんでも、焦ることがあるのだと、衝撃を受ける。


***


「同じクラスになってすぐって…」

私が戸惑っていると、永那ちゃんは笑う。

「あのとき、男同士でキスしてるって学年中で話題になってたでしょ?」

男同士でキス?…そんなの話題になってたかな?

「あれ?覚えてない?」

「ゲイの人がいるっていうのは覚えてるけど…」

永那ちゃんは声を出して笑って「穂らしい」と言った。

「あれ、ゲイが話題になってたというより、キスしてたことが話題になってたんだよ?…もちろん、ゲイであることもだけど」

「そうだったんだ」

「それで、穂が“そんなことどうでもいい”って言い放ったんだよ」

…そうだっけ?

まあ確かに、永那ちゃんを好きになる前の私は、恋愛の話全般がどうでもよくて、話されてもよくわからないから、突っぱねていた記憶はある。

「私、それに感動したんだ」

「感動!?」

永那ちゃんの感動するポイントがわからなさすぎる。

引いたり、怖がったりするならわかるけど、感動はよくわからない。


「ほら、同性愛ってやっぱり良くも悪くも、異性愛よりも注目されがちというか…。直接否定されるようなことはあんまりないけど、やっぱりマイノリティだから、話題になりやすいんだよ」

私には恋愛そのものがよくわからないから、異性愛も同性愛も同じに感じる。

最初は友達との違いがわからなかったりもしたけど、よく考えてみれば、相手が男性だったとしても、例えば日住君みたいに“友達”と思っている人はいる。

男女関係なく“友達”は“友達”で、好きになる人は…特別な感じがする。明確に言葉にはできないけど、“どうしても、この人がいい”って思う。

「みんながその話題で盛り上がってるとき、正直私もどうでもよかった。こんな話題で盛り上がるなんて、ガキだなあって」

永那ちゃんは優しそうに見えて、けっこう辛辣なことを思っているんだなあ…と、内心苦笑する。

でもきっと、そういうメリハリみたいなのがちゃんとあるのが、好かれる理由なのかもしれないとも思う。

誰にでもいつでも優しい…なんて、少し嘘っぽい。

「だから話を振られても、“いいなあ、私も学校でしてみたいなあ。絶対ドキドキするよね”とか、適当に言ってたんだよ」

…ん?どういうこと?

「さすがに“どうでもいい”って言い放つ勇気はなくてさ」

永那ちゃんは楽しげに笑ってる。

でも私は全くついていけてなくて、目をパチクリさせることしかできない。


ふと彼女と目が合うと、彼女はプッと笑った。

「“ゲイ”ってことから話題を逸らしたかったんだよ」

「ああ!…なるほど」

「男女でも学校でキスしてる人、たまに見るんだよ。多少は話題になるけど、あんな学年中が盛り上がる…なんてことにはならない。同性同士ってだけで、すごい盛り上がるのが、なんか不服だった」

朝日に照らされる彼女の横顔が、不満気なのに綺麗と思えてしまう。

彼女は彼女なりの真念をもって行動しているのだとわかると、その美しさに磨きがかかるようで。

「だからね、穂が潔く“どうでもいい”って言ってくれて、感動した。スカッとした」

優しく微笑まれて、心を鷲掴みにされる。

「あれからね、空気が変わったんだよ」

永那ちゃんが頭を撫でてくれる。

「みんな、“そうだよね”って。“男女間でもキスしてるの、たまに見るよね”って。“そんな盛り上がることじゃないよね”って」

「そう…だったんだ。全然知らなかった」

「案外みんな、穂のこと、気になってるんじゃないかな?本当は友達になりたいって思ってる人もいるのかも」

「敬語で話されるのに?」

「そりゃあ、ズバッと正しいこと言われたらビビリもするよ、たぶん。…私は楽しいけどね」

「なんか、ちょっとバカにされてる気がする」

「してないよ!」

大爆笑しながら否定されても、全く真実味がない。

唇を尖らせて不満なのを主張するけど、永那ちゃんは目に涙まで浮かべて笑ってる。


彼女の手が伸びてきて、顎に触れる。

ふいに唇が重なって、心臓がトクンと音を立てる。

…ものすごくロマンチックな雰囲気だと思ったのに、彼女がまた笑い始めた。

何がそんなにおかしいのか、さっぱりわからない。

「好きだよ、穂」

「笑ってなければ、普通に嬉しかったのに」

永那ちゃんが左眉を上げる。

彼女はよくこの仕草をする。

鏡を見たときにやってみたけど、私には真似できなくて、器用だなあ…と、見つめてしまう。

彼女の眉を見つめていたら、急に近づいてきてびっくりする。

唇が重なって、ついばむように何度か触れ合った後、彼女が下唇を甘噛みした。

彼女のあたたかい手が、私のうなじを包み込む。

少し吸われるようにキスをしてから離れて、額が合わさる。

「これは、どう?」

優しく言われるから、なんだかモジモジしてしまう。

「…嬉しい」

「よかった」

しばらく見つめ合って、お互いに笑い合う。


小さな公園には、砂場とブランコとすべり台しかない。

公園を囲うツツジの葉が、2人きりの空間を守ってくれている。

永那ちゃんがブランコに乗ろうと言うので、2人でこいだ。ブランコなんて何年ぶりだろう?

永那ちゃんはよく1人で来るらしい。

「永那ちゃん」

「なにー?」

交互に揺れているから、永那ちゃんの返事が遠くで聞こえる。

私が前に出ると、永那ちゃんが後ろに引かれる。永那ちゃんが前に出ると、私が後ろに引かれる。

「永那ちゃんの初恋っていつ?」

「今だよ」

彼女が振り向きながら答えてくれる。

「嘘」

「本当」

「絶対嘘」

そう返したら、彼女はズズズと足でブランコを止めた。

「本当って言ってるでしょ」

少し睨むように私を見る。

「…でも永那ちゃん、いろんな人とエッチとかしてきたんでしょ?」

私が俯きながら言う。

少しずつペースを落として、私のブランコも止まる。

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