第12話 彼女
次の掃除の時間。
彼女の声が耳元で聞こえた。
なんとも心地良い目覚め。
一瞬目を開けそうになって、彼女の気配がすぐそばにあるのを感じて、グッと堪えた。
「起きないと、いたずらしちゃいますよ」
一気に鼓動が高鳴る。
なんだそれ。なんだそれ。なんだそれ。
これがギャップ萌えの恐ろしさか。
私も例に違わずガキだった。
追い打ちをかけるように「綺麗」と言われ、悶えたくなる。
でもすぐに冷静になる。
彼女が諦めて、私から離れそうな気配があったからだ。
この時間を終わらせたくない。
このチャンスを見逃したくない。
だから、彼女の手を掴んだ。
彼女ともっと話したくて頑張って起きていたけど、千陽達に邪魔された。
わざと机の中にスマホを置いていって、クレープ屋に行く途中で学校に引き返す。
教室に戻っても、彼女はいなかった。
一瞬、もう帰ってしまったのかと焦ったけど、机に鞄がかかっていてホッとした。
彼女が帰ってきて喜んだのも束の間、彼女の顔を見て胸が痛んだ。すごく悲しそうな顔をしていたから。
その後、彼女がしどろもどろになっているのが可愛くて、つい“いたずら”する。
本当は普通に遊びに誘うはずだったんだけど、どうしても彼女が耳元で囁いた「いたずらしちゃいますよ」が脳裏にこびりついて離れない。
ポケットが振動して、また千陽に邪魔された。まあ、待たせてしまっている申し訳なさもないわけではないけど。
…と思っていたら、彼女からいたずら返しされた。千陽、ナイスだった。
彼女が子供みたいな言い訳をする姿はあまりに可愛くて、“好き”の気持ちは暴走寸前だ。
暴走しそうな気持ちを必死に抑えたら、危うく連絡先を聞き損ねるところだった。無事彼女の連絡先をゲットして、千陽達に合流した。
それから、どうせ千陽達に邪魔されるなら…と、ちゃんと放課後に起きるのはやめた。今まで通り、寝て過ごす。
彼女から送られてくるメッセージは簡素だった。うん、イメージ通り。
彼女は学校から徒歩20分くらいのところに住んでいると、メッセージで教えてもらった。
だから学校の最寄り駅に、土曜日、朝の10時半待ち合わせ。
お母さんが起きると面倒だから、朝8時に家を出た。少し散歩して時間を潰す。
近所の駄菓子屋(もはや絶滅危惧種)でガムとペロペロキャンディを買う。おじいちゃんが店主だから、朝が早いのはとても良い。
小さな箱に3粒入ったガムを、一気に口に放り込んだ。3粒もあるのに、すぐに味がなくなる。
味のないガムを噛みながら、電車に乗った。まだ9時だった。ここから30分で学校の最寄り駅につく。
約束の1時間も前についちゃうな…と思いながら、窓の外を見る。少し目を閉じると、すぐに意識がなくなった。
気づいたら降りる駅だった。慌てて降りて、ホーム中央にある椅子に座る。隣にゴミ箱があったから、ガムを捨てた。
また目を閉じる。目を開けるとびっくり、30分も経っていた。
まだ約束の時間になっていなくてホッとした。
このまま椅子に座っていたらまた寝てしまうと思い、改札を出て時計台に寄りかかった。ポケットに突っ込んでいたペロペロキャンディを舐める。
これはけっこう分厚くて、しばらくは保つだろう…と思っていたら、5分後に彼女が来た。
早い。…うん、まあ、これもイメージ通り。さすがに早すぎだと思うけど…そんなところも素敵だ。
初めて見る、制服以外の姿。
今までこういうのにキュンとしたことなんてなかった。初めてだ。…なんというか、下腹部が疼くと表現すればいいのか。…そんなゲスな考えは彼女に抱いてはいけない、と自分を律する。
とにかく可愛い。最高だ。以上。
去年は夏休みに千陽と複数人のクラスメイトと海に来た。
千陽は可愛いうえに巨乳で、本人は「太って見えるから嫌だ。人から変な目で見られることも多いし」と言うけど、その主張が嘘と思えるくらい武器にしている。
実際、着てきた水着はビキニで、何度かナンパされていた。
「そんな格好してたら襲われるぞー」と言ったら「永那にならいいよ♡」と言ってきたから無視した。
とりあえず夏用の薄手のパーカーを羽織らせると「永那大好き」と抱きつかれた。
こういうのがいちいち鬱陶しい。
…ああ、空井さんはどんな水着を着るんだろう?夏休み、また海に誘いたいな。
***
海は、楽しい思い出が詰まってる。
まだ小学生の頃、お母さんがまだまともだった頃、よくお姉ちゃんと3人で来た。
お母さんはずっと座っていたけど、私達のことをずっと微笑んで見てくれていた。
私達が笑うと、お母さんも笑って、お母さんが笑うと、私達も笑う。幸せだった。
父親は、物心つく頃からほとんど家に帰ってこない人だった。
帰ってきても酒臭くて、変に絡んでくるのが鬱陶しかった。それでも、少しは嬉しかったかもしれない。
でも夜になると、お母さんの「やめて」と言う声が聞こえてくる。「うるせー!」と怒鳴り声が響いて、叩く音がする。
聞きたくなくて、お姉ちゃんと2人で耳を塞いだ。
翌朝、大抵お母さんの体のどこかしらに傷ができていた。私が傷を撫でると、お母さんは泣きながら私を抱きしめた。
ふとそんなことを思い出したら、彼女が私の手を強く握った。
それがなんだか嬉しくて、強く握り返した。
彼女がクレープを初めて食べると言うから、記念に奢った。
「いいよいいよ!」と大袈裟に手を振って遠慮するから「せっかくの記念日だから奢らせて」と適当に言って頷かせる。
…適当に言ったけど、考えてみればあながち間違いじゃない。初デート記念日だ。
彼女が美味しそうにクレープを頬張る。その姿に癒やされる。
彼女の口端(頬に限りなく近い)にクリームが、ちょこんとついている。
指で拭ってあげたら、彼女に真似されて、トキメキが過ぎる。(語彙力も崩壊)
ああ、好きだなあ。好きだなあ。この人が本当に好きだなあ。
“空井さん”なんて、なんだか距離があるようで嫌だ。
もっと近づきたい。もっと。もっと。
だから名前で呼び合いたいと言ったら、彼女に「永那ちゃん」と言われた。
その新鮮な呼び方に、また下腹部が疼く。…やめろ!私はそんな下品じゃない!…はず。
学校で見せる真面目な顔、クラスメイトに厳しく接してしまって後悔する顔、お茶目にいたずらする顔、私がいたずらし返すとポッと赤くなる顔、こうして楽しそうに笑ってくれる顔…彼女のどの姿も愛しくて、もっと知りたくて、抱きしめたくなる。
彼女は、私をどう思ってるんだろう?
少なくとも“どうでもいい”とは思っていないよね?
確認すると、頷いてくれる。
ただそれだけで嬉しくて、舞い上がりそうになる。
水平線に日が沈んでいく。もうすぐ夜が始まる。
まだ終わってほしくない。
穂といたい。穂と、ずっと。
本当はもっと仲良くなってから言うつもりだったけど、このままじゃ熱が引きそうにないから、意を決して告白した。
私の勘違いじゃないといいけど…彼女が嬉しそうに笑ってくれた。
私は、舞い上がっていいのか?
私は、自惚れてもいいのか?
脈なしなら、こんなふうに笑わないよね?
きっと脈なしなら、すぐに謝られたり、困った顔をされたりするはずだ。特に彼女の場合は、そういう反応をするところが優に想像できる。
もう一歩踏み込んでみることにした。
顔を近づけると、彼女がギュッと目を瞑る。
…ああ、予想外の反応。胸の高鳴りが、下腹部の疼きが、全身でこの人を奪いたいと主張する。
キスしてもいいんだろうか?
この反応は、そういう反応に見える。
…いや、でも。万が一違ったら、私は取り返しのつかないことをすることになる。
グッと思い止まって、彼女の耳元に口を近づける。
そして、抱きしめた。
彼女が抱きしめ返してくれるから、そのぬくもりに溺れたくなる。
ああ、好きだ。好きだ。
***
家に帰ると、お母さんが泣いていた。
帰るのが遅くなるといつもこうだ。
楽しかった気持ちを、踏みにじられるような気分になる。
「永那、私を置いていかないで。どこ行ってたの?ねえ」
そう、足元に縋ってくる。
「友達と遊んでたの」
「友達って誰?もしかして恋人?…嫌だ、嫌だ、永那~やだ~」
お母さんはあんなに叩かれていたのに、父親に捨てられた。
そのショックで、仕事に行けなくなり、家事もできなくなり、昼間はずっと寝るようになった。
お母さんの左腕には、何本もの傷痕がある。この間切った傷がまだ赤い。
パニックを起こすとすぐリストカットするし、放っておくとずっとご飯も食べない。
昼間に寝て夜に起きているから、私が寝ている最中に何度もパニックを起こす。いつからか私は夜に寝なくなった。
お姉ちゃんは滅多に帰ってこない。
でも、私の銀行口座に定期的にお金を入れてくれる。
あるとき「私が働くから、あんたはお母さんの面倒みてて」と言って、お姉ちゃんは出ていった。
私もアルバイトをしようとしたけど「お母さんが心配だから」と言って、お姉ちゃんが許さなかった。
私はお母さんの背中をトントンと優しく叩きながら、そっと抱きしめた。
お母さんは、私の腕のなかで嗚咽を漏らしながら泣く。
少しして「ご飯作るね」と言うと、名残惜しそうに腕を掴まれた。そっと手を重ねて、ゆっくり離す。
ポケットから鍵を出して、包丁がしまってある棚を開ける。
前にお母さんが包丁で自分の胸を刺そうとしてから、こうしている。
今日もカレー。…私は簡単なものしか作らない。
スマホでレシピを調べれば、何かしらいろいろ出てくるのかもしれないけど、そんな心の余裕はなかった。
いつも通り、野菜を煮込んで、市販のルーを入れる。こうすれば、3日は保つ。
お米は冷凍してあるから、電子レンジに放り込む。
振り返ってお母さんを見ると、リビングの床で横になっていた。
テレビがついてるけど、きっとほとんど彼女の頭に内容は入っていないんだろう。
夜は、ずっと勉強をしている。
リビングで、お母さんのそばで。そうすると、お母さんが笑ってくれるから。
「永那はえらいね~」と、蕩けた目をこちらに向けながら頭を撫でてくれる。
そして彼女は次第にウトウトし始めて、寝る。
数分で起きるときもあれば、昼まで寝続けるときもある。
今日は興奮状態だったからか、数分で目を覚ます。
「ごめんね、永那ががんばってるのに、お母さん寝ちゃって」
目をこすりながら、また私の頭を撫でる。
「平気だよ。寝てていいよ」
私はあくびをしながら勉強を続けた。
1日出かけたから、眠い。
朝4時頃、ようやくお母さんが寝息を立て始めた。
ウトウトして数分で起きるときは寝息が聞こえないから、寝息が聞こえてくると、私はようやく安心する。
起こさないようにゆっくり横にして、布団をかける。
目をギュッと瞑って、肩を回す。眠さと乾燥で目がシパシパする。
私は洗面台に向かって、コンタクトを取る。
お母さんが起きている最中は、基本的にコンタクトで過ごす。
前にパニックを起こして顔面を殴られたことがあった。幸い眼鏡は壊れなかったけど、目に眼鏡の柄が入りそうになって危なかった。
少しクマができてる。
そのままシャワーを浴びた。
ドライヤーはしない、音が大きすぎるから。タオルでできる限り髪を拭く。髪が短いからどうせすぐ乾く。
部屋に入る。
とは言え、もちろんドア(襖)は閉めない。
布団を敷いて、寝転がる。すぐに意識はなくなった。
目を覚ましたのは、昼過ぎだった。
お母さんはまだ寝ている。
スマホを充電しながら、穂に写真を送る。
『昨日は本当、楽しかった。また本格的な夏になったら、一緒に海行こうね』
穂のビキニ姿を思い浮かべる。…思い浮かべようとするけど、なぜか顔は穂なのに体が千陽だ。うーん、微妙。
穂の笑顔、可愛いなあ。
2人で撮った写真を見る。
「ハァ」とため息が出る。
私はいつまでお母さんの世話をしなきゃいけないんだろう?
お母さんが嫌いなわけじゃない。
でも、負担であることは確かだった。
いつか、穂とお泊りとかしたいって思ったら、どうすればいいんだろう?…なんて思ったり。
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