第3話 竜の騎士③
袖に染みた血はかなりの量だ。緊張と発汗で気が付かなかったが、繊維を超えて肌にまでべっとりと血がついていた。
『オッ、ニンゲン、トマッテル!』
『どうする?マスターは今日いないみたいだよ』
『決まってる!沢山遊ぶぞ!!』
しばらく心臓の音だけが鼓膜を満たしていたが、聞こえてきた精霊たちの囁きに身の危険を感じ、ハッとした。
とりあえず行こう、と動かした足は一歩で止まる。
(行くってどこに……?)
袖に付着した血を見る限り、彼女に逃げる体力はあると思えない。かといって、助けに戻ってあの不可視の怪物相手に勝算があるわけでもなく。
ジョージが悩んでいることを察した精霊達は、ケタケタと無邪気に笑いながら囲い込む。
『ニンゲン、ナヤンデル!』
『助けを呼びに行った方がいいよ!彼女が危ない!』
『でもあの怪物は強いよ、僕たちでも勝てない』
『先生を呼んだ方がいい!』
『その間にあの子は食べられちゃうかも?』
「うるせぇ黙ってろ!今考えてる!」
ジョージが睨みをきかせながら声を荒げて一喝するも、精霊達はより一層笑うばかりだった。
(クソッ、あんまり悩んでいる時間もねぇ……やっぱり助けを呼ぶ方が確実か)
彼はこの状況下で、助かる可能性が高そうな方に賭けた。この学園の先生は優秀だ。きっと、彼女の怪我すら、何とかしてくれるだろう。自分のような子供に出る幕はない。そう言い聞かせた。
『もう行っちゃうの?』
『ソレデイイノカ?』
『いいんじゃない、助からなくても君のせいではないよ』
『君は悪くないよ』
『いや、悪いよ!だって君のせいで人が死んじゃうかもしれないんだよ』
『もっと考えよう、ずっと、ここで!』
「……チッ!!」
精霊達を振り切って、ジョージは再び走り始めた。
半身になって地面に伏したリリィの背中上部にはコートごと切り裂かれた大きな傷があった。それを庇うように浅い呼吸を繰り返す。
不可視の怪物が勢いを増しながら近づいてきている様子を、乱れた髪の隙間から覗く。その目の焦点は合っていない。
(ごめんね、ギブソン……君を一人にしてしまう……)
リリィは眉間を寄せ、固く目をつぶる。自分の命を諦めざるを得ない状況だとしても、それでも訪れる「死」が恐ろしくて、彼女は身を強張らせた。溜まった涙は流れ落ち、速る心臓のせいで余計に背中の傷が痛む。
怪物が近づくたび、落雷のような轟音が強くなる。
視界いっぱいに怪物が映り、今にも彼女を切り裂かんとしたその時。
『―—ディナトフォティア!』
不可視の怪物の上方に火魔法が放たれた。空高くで爆発したそれは月明かりよりも強く、森全体を照らす。
不可視の怪物はそれに怯んだのか、リリィとの距離を縮めない。
薄っすらと目を開けたリリィの視界に、ここに居ないはずの彼が映った。
「お前、その傷……!何が大丈夫だよ、噓つきやがったな!」
ジョージは慌てて自分の服を破り、リリィの傷口を抑えた。
思いの外傷が深い。下手に動かすと傷が開く可能性もあるが、怪物の目の前で悠長に止血などできない。ジョージは処置をそこそこに、リリィを背負いその場からなるべく離れようと懸命に足を動かした。
「……っ!なんで……」
リリィは痛みに耐えながらも、聞こえるか聞こえないかくらいの声を絞り出す。
「助けなんてわざわざ呼びに行かなくても、これだけ派手に暴れてれば誰かしら来るだろ、てか来ねぇと困る!!」
「……そ、……」
何か口を開きかけたが疲労が勝ったらしく、彼女は目を閉じる。ダランと全身の力が抜けた。
「!!おい、リリィ!しっかりしろ!」
気絶しただけのようだったが、先ほど会った時より青白い顔をしている。周辺の木々が割れる音も段々と近づいてきた。
ジョージは再び空高くへ魔法を打ち上げるも、先ほどのように止まることはなく、むしろ勢いを増して近づいてきているようだった。
「クソッ……!」
(防御、はまだ習ってない……!一番火力が出るのは火魔法だけどアイツに直接撃つと火事になっちまう!とはいえこいつを背負って逃げるのは……!)
全身に汗が滲んだことで、手元にあったものを落としてしまう。
それはリリィから預かったものだった。彼女を背負ったこととで、手元にうまく力が入らなかったのもあるだろう。
夜空に浮かぶ星々を閉じ込めたようなその林檎は、彼の足元にコツンとぶつかった。
―――今から自分がすることが、どれほどのことなのか、彼にはわからない。しかし安易にしてはいけない選択を、彼は今、決断した。
現状を打開できるのは、これだけだからだ。
たとえ今後、どれほど後悔することになったとしても。
それでも。
「……やるしかねぇ!!!」
ジョージは林檎を手に取り、思いきり齧り付いた。
「……ッ!!?」
果汁が舌に触れた途端、体の内側から得体の知れないものが湧き出るような感覚が彼を支配する。
脈がどんどん早く、強くなり、身体もガタガタと震え始める。興奮状態に似た感覚だ。
だが、次第に内臓を握りしめられるような激痛が襲い掛かってきた。ジョージは耐えられず、その場でドロッとした血の塊を吐き出す。
「グァッ……ウゥッ……オェッ!!!」
生涯感じた事のない激痛による生理的な涙と頭痛による鼻血で顔を汚した。
並行感覚がおかしくなり、体もグラグラと、大きく揺れている。
耳鳴りに紛れてブツッと鈍い音がしたと同時に、彼は意識を失った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
『―、これは皇女命令よ。違えることは許さないわ』
どこか遠くで、誰かの声がする。
内容に反して、穏やかな声だ。
『助けてくれてありがとう。貴方は素敵な人だわ。だから――』
―――――――――――――――――――――――――――――――――
パチン!
指を鳴らしたような軽快な音で、ジョージはハッと目を覚ます。
眼前に広がっているのは、白いテーブルクロスのかかった長いテーブル。その上に紅茶と砂時計が置かれていた。
状況が飲み込めない彼は、ぐるりとあたりを見回す。
周りは色とりどりの花が咲いている綺麗な庭。奥には古城が覗えた。少し離れた場所に何人かの人影が見えるが、逆光で顔まではわからない。
長いテーブルの向かいには軍服のような畏まった装いのリリィが座っていた。日に当たっているジョージとは違い木陰にいる彼女は顔を伏しており、こちらと目が合わない。
「!おい、リリィ、お前大丈夫か!?ってかここは……!?怪物は!?俺のダチはどうなった!?」
「おーおー、元気だね〜死にかけた人間とは思えないや!」
矢継ぎ早に捲したてるジョージに、のんびりとした口調の男が横から割って入った。
年にして17歳くらいだろう。リリィが着ている軍服と似たような服装ではあるが、かなり着崩している。黒いシルクハットを深く被ったその姿はマジシャンを彷彿とさせた。
花壇からこちらのテーブルまで歩いてきたその男は、ジョージとリリィの真ん中の椅子に腰を掛ける。
「まぁ何がともあれよかった!死なないとわかっていたとはいえ、流石にこっちも心配したからね~。あ、俺はフロート。よろしくジョージ!あと君の友達は無事だ」
自己紹介のついでに述べられた友人の無事にジョージは短く息を吐いた。しかし、まだ状況が読めないジョージは困惑の表情を浮かべたままだ。
「いやぁ困惑するのも無理はない。さっきまで死にかけてたと思ったらこんな素敵な庭に招待されたわけだからね!流石の俺でも君と同じ状況なら椅子から転げ落ちて……」
「フロート。手短に説明を」
ペラペラ喋り始めたフロートに、リリィは咎めた。フロートは舌を出して肩を竦める。
ジョージはそんな二人を呆気にとられた様子で眺めていた。
(なんか緊張感ねぇな……)
フロートはゴホン、とわざとらしく咳払いをしてから、先程より少し真剣な表情をして口を開く。
「ハイハイっと。あのですね、君が食べたあの林檎、簡単に言うと高品質の魔力が沢山込められているんだよね。それを食べたことで、高品質の魔力が君の血肉になってしまった。そのせいでこれから君はいろんなものに狙われることになる。」
「……は?」
(いま、なんて……?)
あまりの突然の情報に、ジョージは口を開いて固まったまま動かない。
先程まで気にならなかった草花が揺れる音が妙に耳に入ってきた。
フロートがそれを察しているのかどうかは目深に被ったハットでわからない。
ともあれ、彼は慣れた様子で説明を続けた。
「我々は君を狙うもののうち、『ディザスタードラゴン』を退治する専門家なんだ。君とギ……リリィがあの森で戦っていた子だ」
「ディザスタードラゴン……?」
状況に追いついているわけではないが、ジョージは思わず聞き返した。
生物には一定以上の知識はあるつもりだったが、どう思い返しても聞いたことがない。
「まぁ、基本見えないからね。一般人は知らないと思うよ。」
「真夏の雪、止まない雷。何の予兆もなしに突如現れる説明がつかない異常気象―—『超常気象』とでも言おうか。それはそのドラゴンのせいだ。有名な童話『竜と囚われの姫』のモデルにもなった魔法生物だよ、童話の方は流石に知っているだろう?」
「あ、あぁ。」
ジョージはぎこちなく首を縦に振った。『竜と囚われの姫』は絵本を読まない彼でもその内容を話せる程度にメジャーな童話だ。ただ、その竜にモデルがいたことについては初耳だった。
それでね、とフロートが声を落としながら指を組む。ジョージはつられて息をのんだ。
「ここからが本題なんだけれど。君、我々に協力する気はないか?」
「協力……?」
「こちらの不手際とはいえこれから命を狙われ続ける君を、このまま学園に置いておくのはどうなのかという意見が出たんだ。学園を辞めさせて強制保護でも良いんだけどね?リリィはディザスタードラゴンを探すのに君がいれば手間も省けると。まぁ、ぶっちゃけリリィだけでも十分役割は果たせると思うんだけどね。彼女、頑固だからさ。一度言い出したら聞かないんだよね」
フロートは苦い顔をしながらリリィを指差す。しかし彼女は顔を伏せたままで、反応を示さない。
「でもこれは命がかかった問題だ。最終的な判断は、君に任せようというのが結論ってわけ。おわかりかな?」
首を傾けて、口角をあげるフロート。ただ、その目は笑っていない。
自分が考えている以上にまずい状態なのだろうと、ジョージは頭の片隅で思う。
彼が口を開く前に、フロートはわざとらしく両手をあげて驚いてみせた。
「……おっと、まずいな、喋りすぎて時間がもうない!」
視線の先には砂時計がある。それはもう小指の先ほども砂が残っていない。
「もし、この条件を受け入れるなら目の前にある紅茶を飲んで。受け入れないのならば、君が明日朝から聞くのはチャイムではなくニワトリの鳴き声だ。さぁ、早く!砂時計がこぼれきる前に!」
「ちょ、おい、今!?」
協力するか、学園を辞めて保護されるか。
状況を把握できていない中での究極とも言える選択肢だが、ジョージはそこまで迷わなかった。
(俺は……辞める訳にはいかないんだ)
勢いよくティーカップを持ち、一気に飲み干す。
瞬間、猛烈な眠気に襲われた。全身が脱力し、床に崩れ落ちる。
「……!?」
カシャンと甲高い音を立ててティーカップが割れた。
フロートは笑みを浮かべて、座ったままジョージを眺める。
「契約成立だ、明日からよろしく頼むよ」
遠のく意識の中でさえ、リリィと目が合うことはなかった。
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