第九話「在りし日よ 2026~2028」②
3〈九十九えなが:十三~十四歳〉
回想〈幼少期〉
物心ついた時から、えながの視界にはいつも蛇が漂っていた。
足を四本付けた珍妙な姿はさながら龍のようで、五つくらいのえながの小さな手にも乗りそうなほど小さなそれに、えながも次第に愛着が湧いてきた。
「えなが。そのことは誰にも話しちゃいかん。ばあちゃんと、えながの秘密じゃ。いいな?」
一緒に暮らしている祖母の鶴子(つるこ)からはよくそう言い聞かされた。まるで呪文のように何度も。「はなしちゃいかん、はなしちゃいかん」とえながもオウム返しした。
祖母と二人きりで暮らす家は古い民家で、畳が敷いてあり冬になるとコタツを出してきた。それで冬が来たのを実感するのが、えながは好きだった。
祖母とはよく一緒にテレビでドラマを観た。祖母が若い時に流行っていたという、『必殺天誅人』という時代ドラマだ。普段はお役人の主人公が、法で裁けぬ悪を裏で裁く一話完結のストーリー。映像は古かったが、すぐえながは夢中になった。
両親はいなかった。それも物心ついた時から。祖母は両親の姿の写る画像をスマホで見せてくれたので、顔だけはわかった。二人とも嬉しそうに、赤ん坊のえながを抱いていた。
記憶には残っていないので、えながにはただ他人を眺めているような気持ちになるのだった。
「本当にいい母親と父親じゃった。お前は愛されておったんじゃよ。それだけは忘れないでおくれ。私もお前が、大好きじゃからな」
いつも穏やかな祖母がそう言って声を震わせるのは、幼いえながの心を揺さぶった。いつもよりずっと優しく、頭を撫でてくれるその手つきにも。
そんな祖母が、死んだ。えながの目の前で。
小学校に上がった頃だった。ふとした時、クラスメイトにえながは自分の視界だけに映る蛇のことを話してしまったのだ。
それを祖母に勘づかれ、すごい剣幕で叱られた。静かな祖母のいつもとは違う様子に、えながは動揺した。
そして、蛇が。大きくなった蛇が家の壁を突き破って飛び出してきた。衝撃で吹き飛ばされたえながは気を失う。
目を覚ました時、必死に祖母を呼んだ。震えて立ち上がれないから、這いつくばるようにして進んだ。
雪が、吹き付けていた。外は猛吹雪の夜だった。強い風と雪が顔をぶつかってきて、まともに前が見えない。それでも声を張り、進んだ。
そして手が、祖母の足に触れた。呼びかけに返事はない。顔を上げる。
部屋には大穴が空き、家は半壊していた。
祖母は足だけになっていた。上半身はなくなり、切断面から血が溢れていた。赤、赤、どす黒い、赤。いつまでも目に焼き付いている。
あの時は訳が分からなかったが、今のえながにはわかる。
無意識の、防衛本能。それが働いて、蛇足が反応した。祖母の鶴子を、敵だと判断したのだ。
私が、おばあちゃんを殺した。それが真実。いつまでも、えながの心に刻みつけられた、目を背けられない事実。
えながはすぐさま異能学園に入れられた。どうせ身寄りは、母方の祖母である鶴子以外誰もいなかった。
制御する。蛇足を。もう誰も、自分の手で傷つけないように。殺して、しまわぬように。
向き合いたくもない自分の異能と必死に向かって、えながは必死に訓練した。
大きくなってくると、自分がどうして殺処分されなかったのか気になった。人殺しなのだ、自分は。
そしてわかった。生まれながらにして異能を持つ自分のような存在は、純血と言われ、中途適合したものより異能が強いのだという。だからえながはパートナーがいなくても、蛇足を操ることが出来た。異能の力も、補給をしばらく必要としなかった。
貴重ならば、利用できるだけ利用してやろう。大人たちはそう考えたみたいだ。それくらいはわかる。子供でも。
中等部に上がってから、えながに初めて共鳴できるパートナーが付いた。
それが、欠片だった。
春
「ねえねえ、えなが! これ可愛くない? 可愛い私に似合うくなくなくない? こっちのピンクと青、どっちがいいかなぁ」
「私に聞くな。そういうの疎いのはわかっとるじゃろ。……どっちもいいが、お主にはピンクが似合うんじゃないか」
姿見の前で。春物のジャケットを自分の身体にあてがい、比べている欠片。やや呆れつつえながが言ったら。彼女はあからさまに不服そうにこちらを見てきたので仕方なくそれっぽく答え直してやる。
……どっちも色が多少違うだけで同じようなもんじゃろ。えながは自分の服にそれほどこだわりも興味もなかった。動きやすく、それなりであればそれでいい。
「ほぉー、さすがえながさん。お目が高い。ピンクって明るいイメージで、私の可愛さにぴったりだよねぇ。よし、次はスカート! 見に行こう!」
「まだ行くのか……? おい欠片。お主そんなに服なんか買っても着る身体は一つだけなんじゃぞ」
「日によって変えるのぉ。おしゃれは大事だよ、印象が全然違うんだから。えながも、もうちょっと興味持ってよぉ」
「遠慮する。服は着ていて快適ならそれでいい」
えながの答えに満足してピンクの上着を買い物かごに入れた欠片だったが、次はまた似たようなロングスカートをじっと吟味し始めた。呆れる。こいつ、買い物こんなに好きじゃったんか。付き合うなどと言わなければよかったと、半ばえながは後悔し始めていた。
休日。外出許可が下りた、札幌駅隣接の複合商業施設。その一画のブティックで彼女はずっと服を選んでいる。さっきはコスメを延々と彼女は見比べてひたすらに悩んでいた。こっちも長くかかりそうだ。
それでも。楽し気に、時には悩まし気に。そして狙いを定めたものの値札を見ては苦悶の表情を浮かべてしょんぼりする彼女。喜怒哀楽の体現者かこいつは。
表情だけでも姦しい欠片を見ていると、毒気が抜けていくのを感じる。こいつを見ているだけで、何だか楽しくなってくるな。
思わず、こちらまで頬が緩んでしまう。
「……ふふっ」
「あー、えなが一人で笑ってる。何かいいことあった?」
「忙しないやつを観察しているのが面白くてな」
「えっ、どこにいるのそんな人ぉ? それよりさ、えながもせっかく来たんだから何か選んだら? せっかく学園からいっぱいお金もらってるんだしさぁ。おしゃれ、楽しもうぜ番長っ」
「だから、そんなもの興味が……わぷっ」
ふと視界に陰が掛かる。そして欠片に手を引かれて姿見の前に連れ出される。
「うんうん。いいじゃん。えなが、キャスケットめっちゃ似合うじゃんっ。そういうの、好きじゃない?」
彼女に被せられたのは、キャスケット帽だった。シンプルなデザインのライトベージュ。よくわからない変なロゴマークがでかでかと刻まれているやつじゃなくてよかった。こいつなら選びかねん。だが、ちゃんと相手に合わせてくれるセンスはあるようだ。
「……まあ、いいんじゃないか。じゃあ私はこれにする」
「えっ、即決。お買い上げありがとうございまーす。じゃなくて、ほんとにいいの? 完全私感性だけど」
「私はこれがいいんじゃ。お主が選んでくれたんじゃろ。似合うんじゃろ? 可愛い私に」
「んーっ。えながってばほんと可愛いんだからぁ。いい子いい子っ。えながいい子だ、可愛い!」
「おい。まだ会計してないキャスケット帽ごしに頭を撫でるな。私はお前と同じ十三だ。子ども扱いするな」
「今年で十四だもんねー。私の方がちょっとお姉さんだよ?」
「誤差じゃろ」
えながはキャスケットと、一応欠片に見繕ってもらった春用の外套。欠片は両手に大きめの紙袋を三つも携えて、商業施設の最上階にあるカフェで一息つく。
「じゃあこの後は、大丸に行って例のショップに寄ってぇ。あとはコスメとかもちょっと見ていい? 最近気になる化粧水とかも出ててさぁ」
「……おい。まだ買うのか。この荷物どうするつもりじゃ。腕が四本あっても足りなくなるぞ」
「んーそうだねぇ。蛇足に持っといてもらって後で取り出してもらうってこと、出来ないかなぁ」
「お主な。蛇足をトランクルーム扱いするなよ。そういうことをするとあいつはすぐ機嫌を損ねる。知っとるじゃろ、あいつのご機嫌取りが大変なことくらい」
「だよねぇ。冗談冗談。一旦これ駅中のロッカーにぶち込んで行こう。帰りはぁ……松樹センセイに車手配してもらおっかぁ」
「学園の護送車をタクシーか何かと思ってないか、お主」
一休みは終了して、札幌駅構内へ。大きめのロッカー一つに、手荷物を全部やや無理やりめに詰め込んでタッチパネルでカギを掛ける。
「よっしゃー、じゃあ次の目的地に……」
そこで、腕のデバイスの振動。ホログラムが展開され、切羽詰まった様子の白浜の姿が映し出される。
「外出中悪い、九十九、丹波。発症者の反応があった。人手がないらしい。すまん、今行けるか?」
「えー、行けない。冗談。いいよ。でも駅の構内のロッカーに荷物入れてあるから、それだけ回収してもらってくれる? 場所は?」
受け答えながら、欠片がちらりとえながに目配せする。先ほどのほんわか具合とは打って変わって、鋭い真剣な眼差し。えながは頷き返す。いつでも行ける。
場所は近い。狸小路という商店街の端。発症者は既に暴走している。傍の店が数件崩壊し、犠牲者と負傷者も複数出ているとのこと。
ここからなら、蛇足ですぐだ。えながは欠片と共に駅から広場に飛び出す。周囲に人がいないのを確認した。
「蛇足、乗せて飛べ」
現れた蛇足の背に欠片と共に乗り、高く舞い上がる。その場にいた人たちの視線を一身に受けたのを感じたが、今はそんなものに構っている余裕はない。
風圧を感じるスピードで、開けた通りを突き抜けていく。地上で逃げ惑う人の密度が、進むにつれて多くなってきた。そして破壊音。悲鳴。近い。
「あそこだ」
欠片が指を差す方。黒煙が上がっていた。更に速度を上げて蛇足が飛ぶ。
「やっば……」
欠片が呟くのが聞こえた。商店街は、ビルはびこる街中を横断するように長く続いている。雪が積もらないようにドーム状に屋根が展開されている。
それが一画、丸々引っぺがされていた。寄り添い合うように建っている小さな雑居ビルが、ほとんど崩壊している。恐怖し、驚き、逃げ戸惑う人々。それでも逃げ遅れ、地面に転がったまま動かなくなった遺体。あちこちに。ちらばるように。
でもまだ生きている人たちだっている。助けなければ。
惨状の原因は。いた。嵐の渦のど真ん中。
静かに立っていた。息を切らし、肩を揺らし、今自分を中心に広がっている悲劇に、驚いているように見えた。
(理性がある……? だが……)
発症者は女性だった。だが発症者特有の、衝動に駆られた暴走がない。この惨状は、それでも彼女が引き起こしたものだ。
不意に。彼女の周りの空気が歪んで見えた。蜃気楼の如く。
そしてそれが、爆ぜた。彼女を円状に包み込んだ透明なドームが内側から破裂するように。散弾銃のように全方向にその破片が飛び散る。その軌跡が光の反射でえながと欠片にも見えた。
それが、逃げ遅れた人々を。周りの建物を、地面を抉り抜く。まるで釘の仕込まれた手榴弾だ。
また空気が歪み始める。
「欠片! 残った人を避難させろ!」
えながは一度蛇足を引っ込めて地面に降り立つ。そして欠片の背中を押し、逃げ遅れた人たちの誘導を促した。
歪んだ空気が、発症者の女性の身体に集中していく。次の瞬間、おそらくまた爆ぜるだろう。
「蛇足、庇えッ!」
えながは構えた右手を自分の顔の前に横断させる。蛇足の大きく長い胴が、えながや後ろの人々を守る盾になった。
再び、爆ぜる。蛇足の固い皮膚に散弾のような破片が突き刺さる感触。激痛。
「ッ……!」
右腕のあちこちが裂けて血が噴き出した。異能である蛇足を傷つけられるだけの威力。やばい。
(発症したてでこの強さ……。これは一体……)
えながは負傷した腕を押さえながら、蛇足を一度退かせる。発症者は。彼女は、頭を抱えてその場にしゃがみ込んでいた。
呻き声が聞こえる。彼女の身体が震えているのが、距離を取っているえながにも確認できる。
苦しんでいる。力を抑え込もうとしているのか。理性が残っている。適合者なのか、彼女は。
彼女が顔を上げる。その目は。血走ったその眼差しは、獣のそれだった。獲物をただ屠り、喰らうだけの。
「く……!」
その腕が突き出されると。一瞬だけその周りを歪ませた空気が爆ぜた。破片がこちらに向かってまっすぐ飛んでくる。かろうじてえながはそれを避けた。
「がぁッ……!」
えながは呻き、よろめく。もう片方の腕。彼女は突き出していた。歪んだ空気の散弾。それがえながの足を掠める。反射で動いていなければ、足は多分吹き飛んでいた。
倒れる。足は痛む。重症ではないが、すぐに動けない。必死に立ち上がろうとする。
彼女は。えながを捉えていた。獣の眼差し。定めた狙い。やられる。はっきりと死が目の前に迫っていた。
「閉錠」
えながに向かって突き出しかけた彼女の腕がびたりと止められる。
「閉錠、閉錠、閉錠」
欠片だ。彼女は抓むように合わせた人差し指と親指を、手首ごとひねるような動作を繰り返す。鍵を、掛けるイメージ。
そのたび発症者のもう片方の腕、右足、左足が動かなくなる。がくんと倒れかけたその身体も、その途中でびたりとロックされる。
「えなが。平気?」
「すぐ動けぬが、平気じゃ。それより、あの人は……」
「わかってる。適合者ではないよね。でも、いつもの感じと、違う」
傍らにしゃがんでえながに声を掛けた欠片は、また立ち上がると止まっていた発症者の女性と向き合う。真剣な欠片の視線は、隙を見せない。
「あなた、意識はあるの? 話は出来る?」
欠片は声を掛ける。女性は。唸るばかりで、言葉では答えない。威嚇する獣そのものだ。やはり、破壊衝動に呑まれてしまっているのか。ここまで被害をもたらした力は、明らかに異常だが。
「開錠」
「おい欠片? 何をして……⁉」
欠片が先ほどとは逆の方に手首を回して、彼女を自由にする。
女性は一度倒れて、唸りながらゆっくりと起き上がった。荒い息遣い。じっと欠片は様子を窺っている。
「ぐぅぉおおおおんッ!!」
人のものではないような叫びを女性が上げて仰け反る。そして彼女の周りの空気が歪み出す。すぐその空気を収縮し、彼女はまた破片を巻き散らかそうとぐっと身を縮めた。
「封印、箱牢」
欠片が言う。女性がまた破片を発射したが、それは散らばらない。
半透明の四角い結界の中に彼女は閉じ込められていた。欠片は両手で箱を持ち、それを捻るような動作で異能を使っていた。
欠片の掌が裂けて血が滴る。
「欠片!」
「平気。ちょい痛いだけ」
欠片は手と手の間隔を少しずつ縮めていく。同時に、発症者を包み込む半透明の結界が狭まる。
欠片はもう、手遅れと判断したみたいだ。女性を殺そうとしている。
「……お願い」
動きを封じられた女性が。ふと呻くような掠れた声で、聴き取れる言葉を話した。
「殺し、て」
血走ったまま、こちらを見た目は。微かに人間である気配を残していた。
「閉門」
欠片がぎゅっと手と手を合わせた。
柔らかく固いものが潰れる音がした。女性を閉じ込めた欠片の結界が、彼女を押し潰したのだ。血飛沫は抑えられ飛ばなかった。彼女は形も残さず、この世から消えた。
へたりと欠片がその場に尻餅をつく。えながは何とか立ち上がり、慌てて彼女に駆け寄った。
「欠片! 大丈夫か!?」
「へ、平気……。ちょっと腰、抜けちゃって」
彼女は笑顔を何とか繕っていたが、その心境はよくわかっている。
えながはぎゅっと。彼女の頭を抱きかかえるようにしてやる。少しでも彼女の憂いが軽くなるように。背負えるなら、背負ってやる。
「馬鹿者が……っ。辛い時は辛い時は言っていいんじゃ。私らはパートナーじゃろう……っ」
まだ意識が残っていた人を、手に掛けたのだ。今までにないケースだった。
彼女の痛みは、痛いほどに伝わってきていた。
ふと、胸の中で啜り泣くような声が聞こえた。それは徐々に嗚咽になり、欠片は声を上げて泣き始めた。
「いいんじゃ。それでいい。私はここに、いるからな……」
彼女が泣き止むまで。えながはその場で、抱きしめ続けてやるのだった。
秋
目を覚ますと、隣で寝ていたはずの欠片の姿がなかった。
寝ぼけ眼で腕のデバイスの時計を確認する。深夜二時。当然部屋の中は薄暗く、欠片はここにはいないようだった。
えながは丁寧に掛け直されたシーツから出ると、これまた丁寧に畳み直された自分の下着、部屋着を身に着けていく。律儀な奴め。こういうのには疎いので、全部欠片に選んでもらったものばかりだった。
部屋を出る。中等部寮にはえながと欠片しかいなかった。それ故夜は、いや明るいうちだってしんと静まり返って広い空間を持て余している。あちこちに暗闇と微かな埃の山を蔓延らせて、そこに何か不浄の何かが潜んでいるのではないかという気になる。
消灯時間は過ぎていたが、廊下は橙色の間接照明でぼんやりと照らされていた。とはいえ足元は暗い。えながは欠片と何となく買ったランプ型の懐中電灯を手にぶら下げて階段を降りていく。
「……欠片?」
玄関も兼ねている談話室の扉を開ける。異能が共鳴するから、何となくいる場所はわかってしまう。
彼女は。広い談話室の端、窓際に立ち、じっと外を眺めていた。そこには夜でも照明で煌々と照らし出された、学園の敷地しか風景がない。眩しいくらい明るいのは、異能者の脱走を防ぐためだ。そんなことをしなくても、周りを取り囲む防壁のせいで自分たちはどこへも行けないというのに。ここには鳥さえも入ってこれない。おかげで朝はひどく静かで、寂しい。
「……ああ、えなが。ごめんね、起こした?」
「勝手に目が覚めただけじゃ。それよりどうした? どこか調子が悪いのか」
「いやただ何となく。目が冴えちゃって」
隣に並んだえながに受け答えた欠片は、何となくではないような表情だった。少し思い詰めたようなその眼差しは初めてで。えながは変な胸騒ぎを覚えてしまう。
ぎゅっと。心細そうだった彼女の手を握る。それで微かに震えていたことに気づいた。
「……欠片。ここには私しかいないぞ。話せば楽になることもある。それとも、私じゃ力不足か?」
欠片は窓の外を見ながら少し迷って。それからこちらを見た。子どものように無防備で、大人のように静かな孤独が、そこに宿っているような気がした。
「……最近さ、変じゃない? 異能を発症する人も増えてるし、力の暴走が強い人が多すぎる。……理性の、まだ残ってる人だって」
欠片の視線がまた窓の外の無機質な光景に向く。
「殺してくれ」と懇願する発症者もいた。反対に命乞いをする人もいた。それをえながと欠片は、手に掛け続けている。そんな日が続いて、えながも正直神経をすり減らしていた。
だがそれよりも更に。彼女は繊細に傷ついていたのかもしれない。普段のひょうきんな明るさは、そんな自分を隠すための帳なのだ。彼女なりの、自己防衛。
彼女の目は、再びえながを捉える。潤んではいない。だけれどひたすらにそこに宿る光は儚げで、今にも消えてしまいそうな風前の灯火だった。
「何か、疲れちゃうよね。私たちのやってることって正しいのかなって思っちゃう。私たちが戦ってきたのって……殺してきたのって。人、なんだもんね」
「……考えすぎとるぞ。私らがやらないと、もっと人が死んでいた。それが正しいことだったんじゃ、その時は」
「本当にそう? 大勢のために一人を殺すのが? もしかしたら適合できた人もいたかもしれない。私が殺した、人の中に。助けられた命があったかも」
欠片はじっとえながを見たまま言う。まるで感情が抜け落ちたように淡々と言葉を並べる彼女が、逆にえながを心配させる。こんな時でも自分の感情を抑え込もうとしてしまうのか、お主は。
「……こんなの、いつまで続くの。一生私たち、人を殺し続けなきゃいけないの。自分たちが、殺されるまで? そんなことばっかり考えちゃって、頭、おかしくなっちゃいそう」
その声にも、温度がない。
少しくらい瞳でまっすぐに問いかけられて。えながは咄嗟に答えられなかった。言葉に詰まる。何を言ってもつまらない慰めにしかならない気がした。
ふと欠片は、笑う。
「……もう寝よっか。夜更かしはお肌の敵っ」
なんておどけて強がってみせて、彼女は歩き出そうとした。
「っ……」
見ていられなくて、えながは彼女をぎゅっと背中から抱きしめる。こちらの方が身長が低いのでしがみつくような体勢になったが構うものか。少しでも彼女を温められたらそれでいい。その痛みを、少しでも分け与えてもらえたのならそれでいい。
「お主はどうしてすぐ、そうやってごまかす……! 私は……確かに答えなんて持っていない。お主と同じじゃ。私たちは、一緒なんじゃよ。欠片……っ」
──全部一人で、背負い込むな。拙いが、精一杯想いを伝えた。傍にいる。何があっても。そんな祈りを込めた。
欠片の手が、抱きしめたえながの手に重ねられた。ぎゅっと縋るように。ようやく頼ってくれたと、感じられた。
触れ合った手に、温かな何かが落ちるのを感じた。薄い光を受けて煌めく彼女の涙。優しい微笑みに乗って、それはとても美しく見えた。
「じゃあ私たちは、共犯者かな。誰よりも親密で、誰にも代われない関係だね」
「お主、なかなか詩人じゃな。いい言葉じゃ。共犯者。確かにお主には、私しか務まらん役目じゃな」
「得意げになっちゃって。……ありがとね、えなが。自分のこと、少し認められたような気がする」
「そうじゃろ。……ほら、寝床に戻ろう。夜は寝るもんじゃ。頭を悩ませるのは明日でも出来る」
「それに今なら特別なカイロちゃんも添い寝してくれるし? 抱き心地は最高だしね?」
「おい、誰が人型カイロじゃ。まったく、特別じゃぞ?」
欠片の涙を指で拭って、その手を繋ぐ。廊下の薄闇の中でお互いの笑みをしっかり確認して並び合いながら、部屋に戻っていった。
冬
「はぁ……っ、はぁ……っ」
息が乱れる。意識が揺らぐ。鋭い切り傷で抉られた腕を手で抑えて、えながは何とか立っていた。指の隙間から溢れる血が止まらない。
──何だ。何が起きた。頭にも一撃、喰らった。切れた額から血が滴り、視界を赤くする。拭ったが片目の視界を塞がれた。軽い脳震盪も起きているかもしれない。
「……欠片。欠片いるか。欠片……ッ!」
呼びかける。彼女も喰らったはずだ。今の攻撃を。いや、急襲を。視界がぼやけて聴覚もキンと不快な耳鳴りが邪魔をして上手く働かない。彼女を探す。彼女を、探す。
「ぐぅッ……⁉」
衝撃。咄嗟にガードした右腕が折れる音が身体中に轟いた。脳天まで響く痛みと共にえながは吹き飛ばされる。
「だ、そく。受け止め、ろ……ッ」
必死に印を結ぶ。指を動かすだけで右手が弾けるように痛んだ。だが出来た。蛇足の背中で受け止めてもらう。それだけでもまた折れた腕が響いてえながは呻いた。
何が、起きた。えながと欠片に出動要請。現場に赴くと、またビル街のど真ん中で発症者が暴れていた。両手両足が、研がれた包丁のような刃物になっていた。それで建物をまるで野菜や魚のように簡単に切り裂いていた。最近急増している力が強化された暴走者だった。
そいつを相手に苦戦はしつつ、いつも通り終わるはずだった。欠片が発症者の動きをロック。そしてえながの蛇足で、葬ってやる。そのつもりだった。
乱入者。いきなり視界外から攻撃を受けた。それを二人同時に喰らった。分断された。
鞭のようにしなる打撃だったと思う。でも肉を割くような鋭さも兼ねていた。体勢を整える前にもう一撃えながは頭に喰らったのだ。おかげで視界も意識もずっとぶれて最悪だ。ずっと夢の中でもがいているような気持ち悪さに酔う。
敵は。二人だ。一人だけでも苦戦する相手が二人。本気の死線だ。しかもこっちは負傷。おそらく右手をやられて満足に蛇足も出せないだろう。
欠片は。探す。人の形を像を結ばない視覚が捉える。こちらを守るように少し離れた場所に立った背中。
「──閉錠」
閉錠。閉錠。閉錠。閉錠。彼女の声が何とか聴こえた。
彼女に飛び掛かりかけた発症者の動きが止まる。四肢刃物の男と、四肢が鞭のようにしなってゴムのように伸びる女。二人とも完全に人間離れした形相だった。暴走している。
止まっていた発症者たちがすぐさま動き出した。欠片の異能をこんな容易く破る、強者。
刃物の斬撃。防御した欠片の左腕が、一瞬で切断された。しなる腕の打撃。欠片はそれを身体に受けて地面に擦れるようにして引きずり飛ばされた。
「欠片ァッ!!」
立ち上がろうとすると腕の激痛が邪魔をする。うるさい放っておけ。無理矢理に左腕だけでもがくように立ち上がる。
そして倒れ込んだ欠片の元に駆け寄ろうとした瞬間。
彼女は、こちらを見ていた。その優しく穏やかな眼差しが言っていた。
『ごめんね』
「欠片ッ! やめろッ!」
彼女は追い打ちで飛び掛かってきた発症者二人に。手を構えた。合わせた親指と四本の指を、開くような。
「虚空門、開門」
欠片の声。空中にいた二人は、突風を受けたように飛んでいく。
突如空の上に現れた門の中に、二人は吸い込まれつつあった。その中は、暗黒が渦巻いている。どんな光も通さない、真の闇。虚空。
「ッ……!」
えながもその吸引に引っ張られる。浮き上がった小さな体。
その手を、欠片が掴んだ。彼女はその場に立ったまま、えながを片腕だけで捕まえていた。左腕は、肩のところからもうない。だがこの吸引に異能者自身である彼女は干渉されないみたいだ。
繋がれた手。えながは何とか握り返しながらも、見てしまう。
彼女の手の甲。黒く発光するひび割れ。それが少しずつ腕の方へと広がっていくのを。
黒いひび割れが身体に現れるのは、異物化の兆候。それももう末期の、開花する寸前のもの。
異能の力は。彼女の制限した範囲を、大きく超えたのだ。えながを、守るために。先ほど彼女が見せた寂しげな笑みが、頭の中でフラッシュバックする。
「へ、閉門……ッ」
欠片が言う。空中に開いた門が、少しずつ狭まって閉じていく。発症者たちは中に呑み込まれていったようだ。
吸引が弱まっていく。地面に投げ出されかけたえながを、欠片は片腕で受け止めてくれる。右手の激痛に声が出た。やがて門が閉じる荘厳な音が周りに轟いた。
「えなが、大丈夫?」
欠片は、えながを慎重に抱き起した。
彼女の顔を見る。ちゃんと視野を絞る。そして、目を見開いた。
彼女は笑っていた。こちらを安心させるように、ひたすらに朗らかに。
その首筋に、黒い亀裂が広がっていく。頬にまで達した。
異能が彼女を、蝕んでいく。怪物へと、彼女を開花させていく。
それでも彼女は、笑っていた。こちらの迷いを、振り払えと言わんばかりに。
「……大丈夫じゃないだろうけど、ごめんね。してほしいことがあるんだ」
「……いや、じゃ。嫌じゃ。何で、そんな……っ」
「ごめん。えながにしか頼めないからさ。お願い」
ひび割れが、広がっていく。ぱきり、ぱきりと分厚いガラスが裂けていくような音が、まるで急かすようだった。
それに、えながの速まっていく鼓動が重なる。……いやだ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
欠片は。自分を殺せと言っているのだ。異物となる前に。化け物になる前に、せめてえながの手で。
「出来るわけ、ないじゃろ……っ。お主は私にとって、たった一人の……ッ」
「それでも、お願い。ここで終わらせて。大丈夫、ちょっと先に行くだけだから。それに大切な人に看取ってもらうの、夢だったんだ。──私は化け物になりたくない。だから、お願いえなが」
真剣な彼女の眼差しに、射抜かれる。それでえながは何も言えなくなる。このままでは手遅れになると、そう嫌でも教えられてしまったから。
息が乱れる。視界が揺らぎ滲むのは、多分自分が泣いているせいだ。そのぼやけた視界の中の彼女も、おそらく泣いていた。
そして晴れ渡った空に。羽根のように。白い雪たちがちらつき始めていた。
「……蛇足。噛め」
何とか結んだ印。陰を落とし現れた蛇足が。
欠片の首から上を、攫っていった。
春の兆し
荷物を纏めると。元々伽藍堂のような部屋の中が、尚のこと空虚のように思えた。自分の所有物など、それほど多くない。
えながはキャスケットを被り、少ない荷物を詰め込んだリュックを背負って自分の寮の部屋を後にした。
隣の欠片の部屋だった扉を見る。彼女はほとんど毎夜えながの部屋を尋ねてきてはそのままベッドの隣に潜り込んでくるので、ほとんど自分の部屋を荷物置き場としか見ていなかったみたいだ。ベッドの上まで、服だのアクセサリーだのコスメだのが所狭しと散らばっていて呆れたのを覚えている。
今はきっとそんな彼女の所有物だったものも全て処分されたことだろう。持ち主のいない物は、ただの物でしかない。
えながは視線を外し、そのまま歩き出した。寮の外に、もう車は待機していることだろう。
このまま空港まで運ばれ、小型の輸送機で本州へと運ばれていく手筈になっていた。
東京校に。えながの異能の波長と似た同学年の異能者がいるらしい。新しいパートナー候補というわけだ。だが、どうでもよかった。
どうせ失ってしまうのなら。それで傷ついてしまうのなら。初めから求めなければいい。私はもう、誰にも囚われたりしない。
「九十九。行くのか」
入口の外で、白浜が待っていた。彼はくたびれた様子で、普段はぴっしりしているはずのスーツも着崩れしている。無精ひげのある顔には、隈が刻まれていた。
えながは無表情に、小さく会釈する。
「はい。先生も、お元気で」
「……俺も、ここを出るよ。お前たちを守れなかったのは、やっぱり俺の責任だ。これで償えるわけじゃないのはわかってるが……本当に、すまなかった」
頭を深々と下げられる。どうしたらいいのか、どう返せばいいのか。えながにはわからなかった。ただ、「先生のせいではないです」とだけ返事をするのが今のえながには精一杯だった。
「体に気を付けて。向こうの子たちとも仲良くしてな。青春を謳歌しろよ」
「……はい」
そう言った白浜の方を見ないで、えながは歩き出す。
(青春? そんなもの、どこにある)
どうせ私たちは、一生籠の中の鳥なのだ。化け物になって殺されるまで。人を殺し続けることを強要されるだけの。
ならもう。何もかもが、どうでもよかった。
生温い春の兆しが、白く染まった大地を少しずつ雪解けへと導いている。
そういえば欠片と初めて会ったのも、こんな時期だった。たった一年間の軌跡。それでも、えながにとっては。
後ろ髪を引くような思い出を振り払って。えながは車へと乗りこんだ。
春
教室に入ると、三人の眼差しがこちらに注がれた。
高等部、一年の教室。さすが日本の中心地というか、三人も異能適合者の学生がいるのだ。
ハーフツインの少女に、ショートカットの少女。そして一際目をキラキラさせてこちらを見るポニーテールの背の高い少女が、どうやらえながのパートナー候補のようだ。
えながはそちらを見ないようにしながら、黒板の前に立つ。
「こちら、九十九えながさん。今日からみんなと同じ一年生だから、よろしくね。九十九さんも、よろしく」
引率してくれた和泉透子という教員がえながを三人に紹介した。えなが自身は、口を結んだまま足元だけを見ている。
がたんと。勢いよく席を立ちあがってこちらに向かってきたのは。やはりポニーテールの少女だった。
前に来てこちらを覗き込み、にっと快活に微笑むと、手を差し出してくる。
「あたし、姫沼沙希。あなたのパートナー候補。よろしくね、九十九さん!」
その表情に、一瞬。欠片の笑みが重なった気がした。似ている。彼女は。
かっと昂った感情のままに、えながは彼女の差し出した手を叩き落としていた。
「……私は、誰とも慣れ合う気はない。勘違いするなよ、姫沼」
どうせ失ってしまうのなら。私自身が壊してしまうのなら。
最初から、いらないのだ。
4
目を覚ます。同時に目を開いた沙希と、えながの視線が合った。
「……来たな」
「……来たね」
多くの言葉を介さずとも、お互いわかり切っていた。
えながと沙希はベッドから身を起こし、床に散らばっている自分たちの着ていたものは無視して新しい着替えを身に着ける。下着はスポブラと合わせの無地のショーツしかなかったが、動きやすそうでよかった。上に着るのは制服しかなかった。それを着る。
「覚悟はいいでしょ、えなが」
「いつでもじゃ、沙希。行くぞ」
お互いのリボンタイを結んで、にっと笑い合って見せる。想いと、ついでに異能の共有は昨夜濃厚に済ませておいた。臨戦状態だ。いつでも、臨める。
顔などもしっかり洗って、部屋を出た。事態は変わっていないはずだが、不思議とすっきりした気分だった。並んで勇ましく歩く、沙希もきっと今のえながと同じ気持ちなのだろう。
天星が、動き出した。勘じゃない。えながたちは奴の異能の気配を嫌というほどわかっていた。それが今、蠢き始めている。
「先生」
声を揃えて、ビル内の共有スペースに飛び込む。全員その場に集結していた。
テレビを見ていた七竈が振り返る。その眼差しは、切迫していた。
「……ああ。ちょうど起こしに行こうと思ってた。天星だ」
テレビに映るのはニュース番組の中継。
上空カメラで、遠巻きに映し出された光景。
渋谷のスクランブル交差点。青く発光する渦巻きが、空間を切り取ってど真ん中に大きく鎮座していた。
あれは、天星のワープホール。あんなに分かりやすい形で今、それを出現させたということは。
「……誘っとるな、あからさまに」
えながは呟く。ぎゅっと両手を握りしめた。
奴は言っているのだ。えながたちに、直接。「来れるものなら来てみろ」と。……舐めやがって。
「上等じゃん。望み通り、ぶっ潰しに行ってやるよ」
──首でも洗って待ってろよ、天星。
好戦的に呟く沙希の言葉に。えながの血も躍るのがわかった。
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